燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









何も成していない、私か
何も持たないあの人か
願いをかけたのはどちらなの
自分達が何を祀ったのか
あなた方はきっと
誰一人として知らないのだ



Night.114 誰が為の祝福









部屋を出たヘルメスは、すぐに違和感を覚えた。

「(騒がしいな……?)」

古い建物だが、医務室はあれでなかなか防音の効いた部屋だったようだ。
あの場では、騒ぎの気配は微塵も感じなかった。
中庭の墓地には、昨晩の被害者の遺族だろうか、座り込む人々の姿がある。
喧騒はそこではなく、大聖堂の方から聞こえてきた。
ハウゼンは怪我人が出たといって呼ばれた。
しかし考えてみれば、聖堂で医師が必要な程の怪我をするというのも不思議な話だ。
ヘルメスは、足を早める。
いつも何処かしらに立っている警備係の修道士も見当たらない。
未だ聖堂へ足を踏み入れた事の無いヘルメスにとっては、これは思わぬチャンスだ。
少し躊躇って、出しかけたメモをポケットに仕舞う。
きっと、何かを書き残す暇など無いだろう。
目と耳で周りの状況を把握し、覚えておかなくては。
西日の差す回廊を進んで聖堂に辿り着くと、開け放たれた扉の中を覗き見る。

「(――あれが……!)」

目を奪われる。
人でごった返した大聖堂の一番奥、祭壇の中央に、その硝子の棺は在った。
今は亡き母が、幼い時分に読み聞かせてくれた絵本の挿絵の姫君のように。
こちらに向けて斜めに傾けられた棺の中に、一人の少女が寝かされていた。
ステンドグラスを透かした黄昏が、銀色の少女を鮮やかに彩る。
出来れば、静寂の中で美術品のように鑑賞したいとさえ思う。
けれど状況は理想とはまるでかけ離れていて、それどころか今は誰も少女に目など向けていなかった。



――神父様! 何とかなりませんか?
――我々は主に見放されたのか
――こんな所に連れてきてどうするつもりだ
――祈れば出られるなんて
――地面を掘ったらいいんじゃないか
――神父様を疑うなんて!
――あの怪しい奴らはどこに?
――医務室には近寄れない



「皆さん、落ち着いて!」

祭壇よりずっと手前、大聖堂のちょうど中央で、神父が喧騒を上回る声を張った。

「我々が争っても何にもなりません」

マルテン神父の周囲にいる観光客らしき人々は、不安げな顔で彼を見上げる。
聖堂のあちらこちらにいる若者達は、自分の周りの人に神父の声への注意を促していた。

「力を合わせてこの苦難を乗り越えましょう。大丈夫、我々には主の加護がございます」

宥めるように微笑んだマルテンへ、少し離れたところから声が飛ぶ。

――祈るだけじゃ何も解決しない!
――だいたい、あんたらは何で俺達を修道院に連れてきた?
――私は若者達に連れられて……
――祈ることしか出来ないって、あの神父自身が言っていたじゃないか!

ヘルメスやエゴールと同年代の者達は恐らく地元の人間なのだろう。
観光客の不満に、軽装の若者達があちらこちらで食ってかかり、大聖堂の中の声は益々大きくなった。

「(そうだ、ドクターはどこに?)」

最奥の棺や中央の神父に気を取られていたが、目的の人は思いの外近くにいた。
ヘルメスは極力目立たぬよう体を屈めながら、密やかに近寄っていく。

「いいから暴れないでください。ここでは無理だ、一度医務室まで……」
「――ッ、触るな!」

怒声が聞こえた。
此方に背を向けた格好のハウゼンと、彼の胸を押し返す青年の姿だ。
青年は血塗れの右腕を握り締め、怒りと恐怖に顔を歪めて怒鳴った。

「そう言って、俺の事も消してしまうつもりなんだろう!?」

ヘルメスは伸ばしかけた手を止める。

「(消す……?)」

声が聞こえた範囲の人々が振り返り、一歩退いた。
複数の人の足音に、ハウゼンが険しい表情で周囲を見回す。
そして、ヘルメスと目が合った。

「あ、……」

気まずい顔を引き攣らせたヘルメスに対し、ハウゼンは息を飲んで、そっとそれを吐き出した。
医師は立ち上がる。

「あの部屋が嫌なのでしたら、ここで縫合します。道具を持ってきますから、待っていなさい」

振り返ったハウゼンの目に、ヘルメスは気圧された。
苦味ばしって、それでいて視界に入るもの全てを捻り潰すような。

「ヘルメスくん、何故ここに」
「その、……いえ、れ、連絡手段を……何か、お持ちではないかと……」

みっともなく声を震わせながら答える。
落胆の溜息をついて、けれど少し苦笑しながらハウゼンが顔を上げた。

「その話は後でいいですか。すみませんが少し此方で、あの怪我人を見張っていてください」

きみは力もありそうですからね。
それこそ力のない声で、更にぽんと肩まで叩かれてしまって。
ヘルメスは断ることも出来ず、小さな声ではい、と呟いて彼を見送った。
俯いて大聖堂を出たハウゼンは気付かなかったのだろう。
入れ違いにヘルメスに駆け寄ってきたのは、エゴールとリーバーだった。

「先輩、」
「なんの騒ぎだ、ヘルメス」
「すごい人だな……怪我人か?」

二人は先程のヘルメスと同様に、目立たぬよう身を屈めている。
ヘルメスと怪我人の青年を見て、それからエゴールは顔を上げて大聖堂の奥に目を遣った。

「あれが、例の死体ですか」
「ああ、そうだ。今は到底近付けないけどな」

リーバーに首肯を返したエゴールは、ヘルメスの向こうに座り込む青年の元に屈みこんだ。
いつの間にか取り出したタオルで、彼の腕の傷を圧迫する。

「縫うほどの傷ならば、圧迫くらいしておくものですよ」
「アンタ、黒の教団の……っ」
「貴方が医務室に行くことを拒否したのは、例の噂が原因ですか?」
「(噂?)」

首を傾げたヘルメスの肩を、リーバーが叩いた。
顔を寄せるように合図されて耳を近付ける。

「ハウゼン先生の医務室から人が消える事件が頻発してるらしい」
「えっ……!」
「彼は何度か疑われているんだと……この町の人は、普通あの医務室は使わないそうだ」

とても信じられる内容ではない。
ハウゼンには、そんな怪しい素振りはなかった。
かつての恋心を思い返すようにリーセロットの話をしていた姿も。
ロッテを叱り飛ばす姿も、あくまで善良な一般人だ。
に接する態度など、教団ではあまり見ないタイプの普通の医師の姿だった。
そう思い返して知らず険しい顔をしていたヘルメスを、リーバーが覗き込む。
目が合って弾かれるように顔を上げると、科学班班長は眉を下げて笑った。

「……そういう顔になるよな」

そう呟く彼こそ、ハウゼンを信用したいのだと感じる。
昼の仮病騒動のこともあるからだろう。
ヘルメスは万感の思いを込めて頷いた。

はどうしてる?」
「休まれています……多分。ドクターのお嬢さんが部屋で昼寝をしていまして、彼女を見ながら」
「そうか。一人じゃないなら、まあ大人しくしてるんだろうな」
「オレは、無線が使えなかったので……代わりの連絡手段が無いかドクターに聞きに来たんです」
「それは恐らく結界のせいだ。目星がついたんで、今アレンと監査官が解除して回ってるよ」
「そうでしたか! よかった……」

周囲の人に傷口の圧迫を任せて、エゴールが此方の会話に加わる。
リーバーの視線に、彼は肩を竦めた。

「人混みに押されて、椅子の亀裂でざっくり切ってしまったようですね」
「そもそも、いつの間にこんなに人が……?」
「町の若者達が、ここに人を集めたんだろう。彼らは神父様をかなり慕っているようだから」

ヘルメスが呟けば、エゴールが溜息混じりに答える。

「『修道院に行けば神の加護が得られる』とでも言って」
「そんな訳で、神父様に毛嫌いされてるオレ達は追い回されたんだけどな……」

あはは、と乾いた声でリーバーが笑った。
随分と疲れた声音で、よくよく見れば二人の服装は、分かれた時よりも少しよれている。
苦労を忍んで、ヘルメスはお疲れ様でした、と小さく呟いた。

「お前の方は……様の様子は?」

エゴールが生真面目な顔で問う。
の様子は一言ではとても言い表しにくく、ただの仮病と言い切るには怪しいところが多い。
けれど本人はあくまであのように言い張っているのだから、ヘルメスとしては困ってしまう。
それを見越したようにリーバーが笑った。

「手のかかる方を任せて、悪かったな」
「い、いえっ、滅相もない! ……様はよく分からないんですが、オレ達の方からも報告が」

奥に見えるあの遺体は、間違いなく妹のリーセロットであること。
彼女が死んだ後で、姉のフランカが失踪したこと。
先に死んだリーセロットの死体が残っていることから、あの遺体がアクマである可能性は低いということ。
フランカは、「自分のせい」という旨の書き置きを残して失踪したということ。

「『アレ』がアクマでないなら、いったい……?」
「それについては様も首を捻っていらっしゃいました」
「あいつも特に思いつかないのか」

リーバーがふむと口許に手を当てる。

「この機に乗じて近付けねぇかな」
「若者達の目がありますから、この混雑でも難しそうですね」
「此方は医務室の噂の他に……」

エゴールが何かを言いかけた時、大聖堂の入口から荒々しい足音が聞こえた。
三人は揃って目を向ける。
翻る白衣。

「ヘルメスくん!!」
「はっ、はい!?」

ハウゼンが、転びそうな足取りで大聖堂に駆け込んだ。
ヘルメスに駆け寄り縋り付いて、彼は真っ青になって叫んだ。

「ロッテがいない!!」
「……何ですって?」
「ロッテとくんが、どこにもいない!!」









如何にハウゼンが優秀な医師であろうと、あの震える手では怪我人の縫合などとても出来ないだろう。
医務室からまたも人が消えたと聞いて、周囲は一時騒然とした。
怪我人の青年も怯えながら、馬車を捕まえてクラーセン診療所まで向かうことにしたらしい。
そこまでを見届けて、ヘルメス達は医務室に駆けつけた。

「部屋を開けたら、誰もいなかった……ヘルメスくん、きみが此処を出た時、二人はっ……」
「確かにこの部屋にいました! そこのベッドで、寝てしまったロッテを様が見ていらして」

目を見開いて、わなわなと唇を震わせたハウゼンが膝から崩れ落ち、頭を抱えた。
エゴールが傍らに膝をつく。

「……町で、貴方とこの部屋に纏わる噂をいくつか耳にしました」
「ええ……ええ、そうでしょうね……だけど、私は……何も知らないんだ……」

消えるような声の後で、ハウゼンが顔を上げてエゴールに掴みかかる。

「どこの世界の誰が! 自分の一人娘を、自分で消してしまうというんだ!?」
「ドクター、落ち着いてください!」
「落ち着いていられるか! ロッテ……ロッテ、勘弁してくれ」

項垂れて座り込んだハウゼンの肩を、ヘルメスはそっと擦る。

「……私には分からないんだ。何故、此処で人が消えるのか」
「神父様には相談されたのですか?」
「勿論だとも……私のせいではないと、気に病むなと言ってくれる人なんて、神父様しかいないさ」
「消えてしまった人が戻ってきたことは……」

ヘルメスは言いかけて、口を噤んだ。
「無い」のだろう。
だから彼は、こんなにも動転しているのだ。
どうしたものかと部屋を見回すと、リーバーがベッドを注意深く検めているのが目に入った。
敷布に触れ、が凭れていた毛布の山に触れ、それから周囲を見回す。
ベッドの上に散らばっているロッテの絵を手に取り、まじまじと見つめている。
ハッと目を瞠ったかと思うと、彼は絵をベッドに放って突然床に這い蹲った。

「リーバー班長?」
「しっ」

リーバーが床に頬を付け、拳でゴンゴンと板を叩いた。
ヘルメスは彼が手放したロッテの絵を見遣る。
赤や黄色、緑の拙い丸がいくつか描かれたその絵に、一箇所不自然なものを見つけた。
赤い文字。
走り書きだが、元は美しい文字を書くのだろうと一目で分かる。
間違いなく、ロッテの書いたものではない。

「アイツの字だ」

リーバーが呟く。
ベッドの下に手を伸ばしながら、彼は言った。

「ドクター。もしかしたら貴方のお嬢さんは今、この町の誰よりも安全かもしれない」
「な、んだって……?」

赤い文字は一言、「地下」とだけ書き残していた。









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191012