燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









あなたのなみだが、止まるなら
あなたが、笑ってくれるなら
あなたとごはんを食べられるなら
あなたが、いっしょにいてくれるから
わたしも
いっしょうけんめいやってみる



Night.113 あなたの肖像









「ロッテね、といっしょにおねんねしたげるっ!」

そう宣言したロッテは、父の目がないのを良いことに、あっという間にのベッドに潜り込んでいた。

「あっ、ロッテ、ダメだよ出ておいで」

なんて畏れ多いことをしているんだこの子は!
ヘルメスは慌てて呼びかける。
けれど、覗き込んだ布団の中で「ロッテ、いっつもひとりでおひるね、さみしいの」などと呟かれては。
流石に良心が咎めて、二人は顔を見合わせて無言で頷き、彼女をそのままにしておくことにしたのだった。

「あの姉妹のこと、アレン達にも伝えておいた方がいいよな」

ロッテの背中を優しく叩いて眠りを促しながら、結局は眠っていない。
話をすっかり逸らされて、ヘルメスは曖昧に頷いた。

「ぅあ、そ、そうですね」

がくすりと微笑む。

「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ、ヘルメス。取って食べたりしないし」
「いえその、そういう、訳には……いや、そういう訳では……」
「ははは、ほら肩の力抜いて。それじゃあ任務にならないだろう」

ヘルメスは、教団の神様を信奉している。
探索部隊にはヘルメスと同じように、或いはそれ以上に、を崇める者が多い。
ヘルメス達は、イノセンスに選ばれなかった。
それでもただただ悲しみと憎しみを糧に戦地へ向かう。
武器も持たずに生身を晒して、情報をかき集める。
そんなヘルメスのような探索部隊にだって、意地がある。
一矢報いてやりたい。
自分でなくとも、自分達の苦労が、努力が、エクソシストが放つ矢のひとつになると、信じているのだ。
けれど、実際に死を目の前にして、本能は体を震わせ足を竦ませる。
心だけが先走って、体は死神の鎌から逃がれようとする。
――は、それを咎めない。

「ヘルメス? どうした、何で泣いて……?」

涙は、勝手に目から零れ落ちた。
熱かった。

「申し訳、ありません……」
「うん?」

これまで遠目から見ていただけだった彼が目の前に現れたあの瞬間を、今でも鮮明に思い出せる。
レベル4から室長を守る最後の盾として昇降機に乗ったあの時のことを。
危険な役目だった。
けれどエゴールを筆頭とする先輩達はもっと危険な最前線で、我先にと死に立ち向かった。
ヘルメスを後ろに、一番最後まで生き延びる可能性のある場所に追いやって。



――お前はまだ若いから
――俺達の分も室長を守ってくれ
――室長とイノセンスと一緒に行け
――エクソシストと一緒に、アジア支部へ
――そうしたらやり直せる
――行け。室長と逃げろ
――いいから行け!
――イノセンスを守り抜け!



「……様、オレ、ずっと、貴方にお礼を言いたくて」

が微笑んで先を促す。
ヘルメスはズズっと鼻を啜って息を吐いた。

「教団が襲撃された時、貴方に助けて頂いたんです」
「……ああ、それで見覚えがあったのか」

小さな背中を叩いていた手をわざわざヘルメスへと伸ばしながら、が視線を落とす。

「ごめんな。俺、あの日戦ってた間のこと、しっかりとは覚えていないんだけど」

顔を上げれば、彼は眉を下げて苦笑した。

「でもそうか。あの日、話してたんだ」
「話すどころかっ!」

思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を噤んだ。
布団の中を窺うと、ロッテは幸せそうな顔でベッドに頬を押し付け、よだれを垂らしていた。

「オレ、室長達と一緒にヘブラスカの所へ降りていたんです。そこに、貴方が降ってきて」

上空からレベル4の声が聞こえた時、終わりだ、と思った。
先輩達は全員殺されたのだろうと。
最後の盾として役目を果たすときが来たのだと。
探索部隊として死んだ父と同じように、自分もこの服を着て死ぬのだと。
最期に室長とイノセンスさえ守れたら本望だった。
けれど、それでも。

「(怖かったんだ)」

本当は、怖かった。
覚悟なんて、土壇場で何の役にも立たなくて。
一瞬で死ねるなら、何も分からないまま死ねるなら、良かったのに。
レベル4の笑い声。
結界装置が壊れる音。
イノセンスも持たず構える神田。
ヘブラスカ!!
室長の叫びが鼓膜を震わせて。
飛来する天使の形のアクマに、これから殺されるのだと確信した――その時だ。
吹き抜けから、この人が身を投げた。
血の色の盾。
激しい音と落下の衝撃。
でも、ヘルメス達は生きていた。
顔を上げれば、神田の腕を離れてすっくと立ち上がった黄金が、暗がりの中で微笑んでいた。

――よく、堪えてくれたね――

「教団の神様」は、ヘルメス達が感じた恐怖を咎めなかった。
助かった、そのことよりも、感動が遥かに上回って視界を潤ませた。
この人は、「勇気」だ。
例えようもなく尊い存在でありながら、彼はヘルメス達の一番近くにいてくれる。
神様なのにヘルメス達の命を軽んじたりしないし、神様なのに自分を一番の危険に晒してみせる。
だから、この人の後ろなら。
この神様と一緒なら、怖くても一歩、前に踏み出せる。
エゴールのような強さも信念もない平凡な人間であるヘルメスにとって、「教団の神様」は「勇気」だ。

「こんな状況で言うのもあれなんですが……ずっと、貴方と話せたら言おうと思っていて」

あの時、助けて頂いてありがとうございました。
そう言って頭を下げると、伸ばされた指先がヘルメスの手にそっと触れた。

「生きていてくれるなら、それだけで充分だ。……君を守れてよかったよ」

閉じた瞼の隙間から、熱いものが溢れて、零れる。
それを拭くのは勿体ない気がしたけれど、今は任務中なのだ。
この場にエゴールがいたら、きっとやるべき事をやれと諭されただろう。
ヘルメスは、強く強く頷いて、ぐいと顔を拭ったのだった。

様っ……」
「今回も、生きて帰ろうぜ」

にっこり笑って、彼が言う。
ヘルメスは潤んだ声ではい、と確かに答えた。
鼻を啜り、取り敢えずやるべき事を考える。
通信だ。

「そういえば、アレンの方にはエゴールがついてるんだな」

通信機を弄りながら、ぎくりと背筋を伸ばした。
この神様の恐ろしい側面を、今回の任務だけで何度か目にしている。
一番触れられたくない話題だった。
亀のように首を竦めての表情を窺う。

「あの……はい。……あのっ、先輩のことなんですが! いえ、ウォーカーのことなんですが……」
「うん。ある程度二人の間で話はついたってことだろう?」

苦笑いを浮かべて、けれどとても優しい瞳では言った。

「……よかった。やっぱり俺が口を出すべきじゃなかったんだ」
様は、どうしてウォーカーを庇わないのですか……?」

エゴールは憎しみの中でも誠実にアレンと向き合ったが、全員が彼と同じようにできる訳では無い。
ヘルメス自身は、アレンをどう扱っていいか分からない。
ただ漠然とした恐怖でアレンを遠巻きにしている者もいれば、憎悪でアレンを塗り潰す者だっている。
けれどせめて、神様のお墨付きさえあれば、アレンに向けられる視線は幾分か柔らかくなるのではないか。
がぱちりと瞬きをした。

「人に言われたことより、自分の目で見て、頭で考えたことの方が納得できるだろ」

そうして彼は、ふうっと、けれど困ったようにぎこちなく微笑んだ。

「……アレンの傍には、そういう人達にいて欲しいと思ったんだ」

――が「神様」に見えなかった。
そんなことは初めてで、ヘルメスは自分の目を疑う。
けれど何度瞬きをしても、目に映る彼はただ、一人の「兄」の顔をして笑っていた。

「いや、こんなの、俺のエゴなんだけどさ」

兄として弟を思う気持ちというものを、間違いなく持っているのに。
先程は何故、リーバーと揉めてしまったのだろう。
正直あの時は安堵と衝撃が上回っていて、二人がなぜ口論に至ったのかもよく分からなかった。
リーバー班長は傷付いていたみたいでしたよ、なんて、ヘルメスからはとても言えない。

「オレも……ちょっと、自分で考えてみます」

代わりに、気休めかもしれないけれどそう言った。
貴方の気持ちはウォーカーに正しく届きますように、と。
あんな不幸なすれ違いは起きませんように、と願いながら。
が目を瞠って、それから眩しそうに笑った。

「ありがとう」
「んんんぅ……んにょんにょんん……」

流れる穏やかな空気の中を、ロッテの寝言が泳ぐ。
二人は顔を見合わせて思わず吹き出した。
ヘルメスはあっと声を上げて、無線のスイッチを入れる。
そうだ、連絡を取らなければ。

「……あれ?」

そこで初めて、異変に気付いた。
神様との尊い時間の残滓がさっと掻き消えて、血の気が引く。

「どうした?」

が此方を見上げた。

「あの……無線が、繋がりません」

彼が眉を動かす。
左手で自分の無線を弄って、本当だ、と呟いた。

「俺とヘルメスの間でも繋がらないよな」
「ええ。故障、ではないですよね」
「とすると結界の影響かな」

結界の情報には、結界内での通信機器の不具合は書かれていなかった気がする。
その不確かな情報を相手に口にするのはどうも憚られた。

「無線の確認くらいするべきだった……俺の失態だ。あいつらからの連絡も受け取れない、か」

ヘルメスはレースのカーテンが引かれた窓を見遣った。
いきなりこの部屋からがいなくなったら、きっとハウゼンに怪しまれるだろう。
それに、先程の黄昏色を思い出す。
彼には此処で休んでいてもらった方が良い。

「(エゴール先輩だったら)」

エゴールならば、エクソシストの障害になるものを排除するのが探索部隊の務めだと言う筈。
ならば、この事態に対処するのは自分の役目だ。

「オレ、何か外との連絡手段がないか、ドクターに聞いてきます!」
「いや、でもヘルメス、」
「すぐ戻りますから! 様は、その……ロッテを見ててくださいっ」

ヘルメスは部屋の外に出て、駆け足で聖堂を目指した。









行っちゃった……、は口の中で呟き、額を押さえた。
先程から妙に調子を狂わされている気がする。

「(けど、ロッテを一人置いてくわけにもいかないしな……)」

それどころか、ロッテはの服をぎゅっと握り締めているのだ。
指を引き剥がして起こしてしまったら、ますます置いて行きづらい。
さあどうしようか。
そう思った時、掛け布団がもぞ、と動いた。

「んんんぅ、……?」

もにゃもにゃ唸りながら、問題の少女が起き上がった。
目をごしごしと擦っている。

「どうしたの、ロッテ。寝てていいよ」
「んんーぅ……ロッテねぇ、ねてないよぉ……」

ねてないんだもん、と言い張って、彼女はの足の上に座った。
布団に潜ったためにボサボサに乱れた髪を見て、は思わず苦笑する。
眠たげな目をしてきょろきょろ部屋を見回すロッテの髪に手を伸ばし、そっとリボンを解いた。

「パパは……?」
「怪我した人がいるんだって。すぐ戻ってくると思うから、大丈夫だよ」
「うん……んっ?」

曖昧に頷いて、ロッテがぱちりと瞬きをする。
そばかすの上の大きな褐色の瞳がを見上げた。
半開きだった唇に力が篭る。

、もうおひるねしない?」
「うん」
「どこもいたくない?」
「痛くないよ」

一瞬しか昼寝をしていないのに、元気な子だ。
動き出しそうな気配を察知して、は手早く片方の髪を結び直した。

「あのね? ロッテね、あのね、うそついてないんだよ」
「うん?」
「ロッテね、たんけんたいだからね、『しんぴのいずみ』みっけたんだよ。ほんとなんだよ」

はもう片方の髪を結んで、そっと頷いた。

「……ロッテがずっと正直にお話ししてたってことは、ちゃんと分かってるよ」

少女は、その答えにきらっと目を輝かせた。
んっしょ、とベッドを下りて、の袖を引っ張る。

「ね、ね。は『しんぴのいずみ』いきたい?」
「そうだね、行ってみたいな」
「じゃあ、ロッテといこ!」
「……え、此処から行けるの?」
「うんっ。でもね、あのね、パパはダメっていうの。パパはなんでもダメダメなの。だけどね、」

いっしょなら、いいの。
ロッテが袖を引く力が、思ったより強い。
は逆らわずにベッドを下りて靴を履き、服を整えた。
ぴょんぴょん飛び跳ねて待っていたロッテは、が準備を終えたのを見て高らかに宣言する。

「ロッテが、のことつれてったげる!」









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