燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
時よ、止まれ
今のまま永遠に
どうか僕が、これ以上
身の丈にあわない幸せに
溺れてしまわぬように
Night.111 きみが見たもの
「こらっ!!」
「うぴゃあっ」
ハウゼンが幼子の襟を捕まえて怒鳴り付ける。
その後から慌てて入室したヘルメスが、肩を竦めてに会釈した。
「あの、様、お加減は……」
「だ、大丈夫だけど……あの子は何?」
「いや、いきなり陰から飛び出してきて……オレにも何が何だか」
「こんなところで何してる! ロッテ!」
ハウゼンに襟首を摘み上げられ、問題の少女はジタバタと暴れている。
「ロッテね、ロッテ、パパがここにいたからっ! おむかえのじかんだよって、おしえてあげにきたのっ!」
「ここは患者さんのお部屋だ、勝手に来ちゃダメだって教えたろう!」
「うみゃあぁああっ、やだやだやだぁ! じゅるいぃっ、ロッテもパパといっしょがいいもん!」
暴れた拍子に、小さな手から絵本が落ちた。
それに、無地の紙と、クレヨンも。
はハウゼンに呼び掛ける。
「その子は?」
「うわーん! やぁぁぁん! パパのばかぁっ!」
叫びながら暴れる少女を小脇に抱えて、部屋から出ようとするハウゼンが肩越しに振り返った。
「私の娘です。まったく! 今日はお泊まりだ、って孤児院の先生に言われただろう! これで何度目だ!」
「やだぁあああっ! あーん、ロッテもパパといっしょぉぉー! ロッテもぉぉぉ!」
「静かにしなさい!」
「びょわああああっ! パパのばかあああっ!」
「せ、先生、何もそんなに怒鳴らなくても……」
ヘルメスが控えめな声で口を挟むと、ハウゼンは険しい目を僅かに緩めて会釈する。
「申し訳ない、騒がしくしました。これじゃあ私たちが安静を乱してるな」
「ええっ、えーと、あの、そうじゃなくってですね……」
困った顔で頬を掻くヘルメス。
ははっと気が付いた。
この子は昨日聖堂の中でアレンにぶつかった子だ。
「先生、その子がいても、俺はいいですよ」
「しかしくん、」
「大人しくしようとしてたんですよ。絵本を読んで、絵を描いてるつもりだったんだ」
そうだよね? 顔を覗き込むと、下ろされた少女、ロッテは涙でべちゃべちゃの顔のまま頷いた。
「ロッテ、ロッテしじゅかだもんっ! しじゅっ、ひぐっ、しじゅかにっ、じでるもんんんんうえええええっ」
ロッテ、しじゅかぁあぁあぁあ! と泣く声は波打っていて、今が静かかどうかはかなり怪しい。
は苦笑する。
「だから、いいですよ。そもそも俺が迷惑を掛けてるんですから」
床に膝をついてロッテの持ち物を拾い集めたのはヘルメスだ。
びょわびょわと泣くロッテの頬をハンカチで拭い、はい、と優しく荷物を手渡した。
すすり上げる泣き声に変わった娘を見下ろして、ハウゼンが深い皺を眉間に刻む。
「娘には母親がいなくて……つまりここに置くと、一晩うるさいのが一緒ですが……本当に?」
「もちろん」
溜め息をついて、ハウゼンはロッテの頭に手を置いた。
「申し訳ない、くん……いいかロッテ、静かに、し、ず、か、に、するんだぞ」
「ロッテ、ひっく、しじゅか……ひぐぅぅっ、……ひぃっく……んん……?」
「そう、静かに。患者さんの前だからね」
「ぅえ? ……はぇ……はっ!」
父の傍にいられると勘づいたらしく、顔がぱあっと明るくなる。
「うんっ!」
ハウゼンがもう一度大きな溜め息をついたが、娘はどこ吹く風で、頬に涙を残したまますっかりご機嫌だ。
つい、頬が緩んだ。
この子の挙動は、の「世界」にどこか似ている。
「まったく……それじゃあほら、ご挨拶しなさい」
背中を押されて、ロッテは袖でごしごしと顔を拭った。
未だ膝をついたままのヘルメスに、にぱっと笑いかける。
「こんにちは! ロッテだよ!」
「えーっと、こんにちは、オレはヘルメスだよ」
「あのね、ロッテのおにもつね、ひろってくれてありがとぉ!」
「ど、どういたしまして」
ぎこちないヘルメスとの挨拶の後で、少女が此方を見上げた。
「こんにちは! ロッテだよ!」
「こんにちは。ちゃんと挨拶できて、偉いね」
は笑いかける。
けれどロッテは不思議そうに一度首を傾げた。
「ほぇ……? あっ、こんにちは、ロッテだよ!」
「え? こ、こんにちは?」
今度はが首を傾げる番だ。
ロッテは一人でふんふん頷いて、満足そうににひひと笑った。
「じゃあ、じゃあねー、おにいちゃんの、おなまえは?」
幼子は、突拍子もない行動をとるものだ。
はそう納得して、微笑んだ。
「だよ。お邪魔します、ロッテ」
ふわふわの銀髪。
小さくて形のいい後頭部が、タッタッタッと一定のリズムを刻んで遠ざかっていく。
ブラムは、その後ろ姿に思わず呼び掛けた。
彼女が誰に捕まるよりも早く、自分が独り占めにしたかったから。
「リーセロット!」
リーセロットが足を止めて振り返る。
すっと通った鼻筋。
その上から、くりりとした大きな碧の瞳がこちらを映した。
「なぁに、ブラム。わたし、急いでるんだけど……」
「あっ、ご、ごめんね」
ブラムは照れ笑いで慌てて返す。
町の有名人の一人であるリーセロットは、ブラムと同じ八歳の、美しい女の子だ。
とても気が強く、いつも背筋をピンとさせてきりりと前を見据えて歩いている。
「そんなに急いで、どこに行くの?」
「修道院。あなたは? こんな時間にどこ行くの?」
「ぼくは、その、会館に」
「ふぅん。お父さまにご用なの?」
「あ、うん、そう。えっと……忘れ物を持っていくんだ」
町の「お偉いさん」が集まる会館は、修道院の向こう側にある。
ブラムの父は今、確かにその会館でパーティーの真っ最中だ。
だから別に不自然な嘘ではなかった。
本当は父に用はなかったし、面白い本があって図書館の閉館まで粘ってしまった帰り道だっただけなのだけれど。
彼女は納得したように、大変ね、とだけ返してくれた。
行く方向が同じだからか、リーセロットが滑らかに歩き出す。
ブラムは歩調を合わせて、彼女の横に並んだ。
急いでいるだけあって、今日のリーセロットは表情も険しく、つんと顎を上げている。
少し息を切らして、いつもより前屈みだった。
「リーセロットは、どうして修道院に行くの? こんな時間に……」
「えっ?」
今は、もうどの家でもディナーを済ませている時間だ。
子供がこんな時間まで外で遊んでいたら親に叱られる。
ブラムもこれから帰って母に叱られる予定だ。
リーセロットは、自分がその質問をされるとは思っていなかったようだった。
一瞬ブラムに向けた顔は完全に不意を衝かれた表情で、目をぱちぱちさせながら、視線を惑わせた。
「えっとね……そうね……その……」
これはリーセロットも嘘をつこうとしているに違いない。
自分がそうしたばかりなので、ブラムには分かる。
けれど、いい嘘は思い付かなかったのだろう。
少し待つと、彼女は観念したように唇を尖らせて、目を逸らした。
「……大事なものを、取り返しにいくの」
「だれかに持っていかれちゃったの?」
「うん。……多分、そうなの。だから、返して、って言いに行くんだ」
「そうなんだ。一人でだいじょうぶ?」
それは何の気なしに聞いたことだ。
ブラムとしては、何か彼女の助けになりたくて。
「ぼくも一緒に行ってあげよっか?」
親切心とちょっとした下心からの言葉。
けれど彼女は、ハッと顔を上げてブラムを見た。
歩を緩めて、いっそ立ち止まって。
ブラムはどぎまぎして視線を彷徨わせる。
リーセロットに真正面から見つめられるなんて、初めてのことだ。
街灯はまるで太陽の光。
彼女の月光色の髪がほのりと輝く。
リーセロットが、形のいい唇を噛んだ。
いつも薔薇色のそれが、今晩はひどく青褪めていることに、ブラムは今初めて気付いた。
「ロッテ、」
「ううんっ、だいじょうぶ」
随分な早口だった。自分に言い聞かせるような。
先にたってまた歩き出したリーセロットを、追う。
「本当に?」
「うん、……ありがとう。だいじょうぶ、勇気出た」
にこり、と肩越しに彼女は笑った。
珍しく、少しだけ眉を下げて。
にこり、笑って、リーセロットは修道院の階段をタッと駆け上がる。
いつの間にか目的地に着いていた。
少し残念に思いながら見上げるブラムに、リーセロットがひらひらと手を振った。
「それじゃあね、ブラム」
「う、うん。じゃあね!」
可愛いリーセロット。
大好きなリーセロット。
――それが、生きている彼女を見た最後だった。
「リーセロットがいなくなったと聞いたのは夜中だったな。夜明け前に、神父様が泉で遺体を見つけたんだ」
「マルテン神父が、ですか」
「そう、あの人がね。そして、リーセロットは今も、あの日と全く変わらない姿で棺の中にいるわけさ」
彼女の名を口にするたび、ハウゼンはほんの少し目を伏せる。
ヘルメスはその都度、メモを取る手をつい止めてしまう。
「お母さんのポーラさんは半狂乱だったし、お姉さんのフランカもすっかり落ち込んでしまって……」
ハウゼンのゴツゴツした手が、無意識だろうか、にかけられた布団をくっと握った。
「それからすぐのことだ、フランカが姿を消したのは」
「彼女が、妹を喚んだのかな」
呟くは布団の端から指先だけ出して、ロッテの頭をさらさらと撫でている。
ロッテはふーんふっふっふーん! という自作のメロディを熱唱しながらも、予想以上に静かにしていた。
今はのベッドに紙を置いて絵を描いている。
「フランカさんと、リーセロットさん……リーセロットをフランカが喚んで、アクマにした……」
ヘルメスはふと自分が書いたメモを見直し、言葉を切った。
「……あれ?」
声を漏らせば、ロッテががばりと振り返って此方を見上げてくる。
「ロッテ? ロッテ? ロッテにごよーじ!?」
ヘルメスは構わずに顔を向けた。
「様、これではアクマは生まれません」
「うん……? どういうこと、」
「はいはいっ! ロッテはここ!」
「だって、先に死んだリーセロットの死体があるのに、後で消えたフランカの死体がありませんよ」
「……ああ、そうか。聖堂の遺体がアクマなら順序が逆だな」
教団の面々はこれまで、「朽ちない死体」こそがアクマだと考えていた。
しかしその仮説は、朽ちない死体が姉妹のうち後で亡くなったフランカの遺体でなければ成り立たない。
「――なら、あの遺体は『何』だ?」
「それに、フランカさんも……失踪ならば、何処かで生きている可能性があります」
ロッテもおはなしまぜてえええと叫ぶ娘の口を、ぱふんと掌で押さえながら、ハウゼンが頷く。
「ああ。そう、だからポーラさんは今でも修道院で『フランカ』を探し続けているんだよ」
「フランカさんが消えた時のことも、ご存知ですか?」
前のめりになって聞くと、ハウゼンはええ、と一つ頷いた。
「書き置きが、あったそうだよ。お母さんが泣き疲れてうとうとした隙に、彼女は出ていったと聞いたな」
「書き置きには、何て書かれていたんですか?」
ハウゼンがこめかみに指を当て、難しい顔で唸る。
ペンを構えたヘルメスの右腕は、緊張で強ばった。
「ええと、確か……」
「『わたしのせい』――とか」
が宙を見つめて呟いた。
目を瞠り、ハウゼンが金色を凝視する。
その様子から、今の言葉が正解だったのだとヘルメスは察した。
「……何で知っているんだ、くん」
「いや、別に……書き残す言葉なんて、そう多くないでしょう。当たってました?」
「ああ……、ああ、そうだ。フランカが失踪したのは、二日後のことでね」
ハウゼンが顔を顰める。
「フランカは、リーセロットの死体が見つかってからずっと『私のせいだ』と言っていたらしい」
「いったい……どういうことでしょうか」
「さあ、そこは分からないが……」
書き置きには、こうあったそうだ。
――泉に行ってきます。リーセロットが死んだのは私のせい。ママ、ごめんね――
「その泉っていうのが、神父様がリーセロットを発見した場所なんだがね」
「あのねあのねあのねっ! ロッテ、『しんぴのいずみ』しってるよ!」
ぴっと手を挙げて、ロッテがを見上げた。
身を乗り出して飛び付かんばかりの勢いだったが、ハウゼンがすぐにその手を下ろさせる。
「嘘つくんじゃない。それにロッテ、静かにするんだろう?」
「うそじゃないもんっ! しってるもん!」
「ロッテ、」
「ほんとだもんっ! ロッテね、だって、あのね、ロッテ、みたもん! ほんとだもん!」
「こらっ、適当なことを言わない!」
「ほ! ん! と! だ! もん!」
ぷっぷぅーっ! と言いながら頬を膨らませたロッテが、布団越しにの脚に顔を押し付けた。
引き剥がそうとする父の手に抗って、ぐりぐりと顔を擦りながら布団と脚とにしがみついている。
くぐもった声がうーうーうーと唸るのを聞いて、が穏やかに微笑みながらその頭を撫でた。
「くん、本当にすまないね……」
いえ、と応えながら首を振るは、優しい目でロッテを見下ろしている。
突っ伏した少女の肩を、とん、とん、と一定のリズムで彼が叩く。
窓から射し込む日光は彼のベッドには届かないというのに、黄金は金粉をまぶしたように眩い。
ヘルメスはごくり、と唾を飲んだ。
何者でもない自分が触れてはならないような、尊い存在だというのに。
彼自身はそんなことをまるで気にしていない。
それがこの人の不思議なところだ。
ただの人間であるように振る舞うから、同じ高さに立っていると錯覚してしまう。
マルテン神父は「神を騙る者」と詰ったけれども、多分、それは違う。
「(オレ達と同じ、人間だなんて)」
とても言えない。
人が神のふりをしているのではない、神が人のつもりで生きているのだ。
――そうして食い入るように見つめていたから、ちょっとした変化にすぐに気付いた。
ロッテの肩を叩いていた手が、宙に残されたまま止まっている。
「様?」
表情の抜け落ちた白い顔。
茫洋とした漆黒に光はなく、目を開いているのに何も見えていないようで。
どこまでも深く暗く、吸い込まれて落ちてしまいそう。
ハウゼンも動きを止め、拗ねていたはずのロッテさえ顔を上げた。
空気が支えを失ったようにぐらりと揺らぐ。
立っていられない。
目眩を覚えたヘルメスの視界を灼いたのは、強烈で鮮烈な黄昏色だった。
「(日暮れにはまだ早いのに)」
――ごめんなさい
――ごめんなさい
――ごめんなさい
――ごめんなさい
――ごめんなさい
――ごめんなさい……
知らない子供の声が、脳を直接掴んで揺さぶる。
ヘルメスは、ロッテが座る椅子の背凭れをやっとのことで探り当てて掴まった。
目の端では、同じようにしてハウゼンがベッドヘッドにしがみついている。
「(これも、奇怪の一部なのか?)」
そうだとしたら尚更、この場ではにしか解決する術がないのに。
「、様っ……」
縋るように名を呼ぶが、応えはない。
ロッテがぽつりと呟いた。
「」
ひゅ、と息を吸い込む音が聞こえて、それと同時にヘルメスの視界を覆っていた「夕焼け」が掻き消える。
が、不思議そうな顔で少女を見つめた。
「……ロッテ……?」
気付けば、ヘルメスの脳を揺さぶった声も止み、目眩もすっかり消えていた。
椅子から手を離して、自分の足で立ってみる。
ロッテが布団越しにの脚を叩きながら、ハウゼンを仰ぎ見た。
「パパ、パパ! ロッテ、といっしょにおひるねする! いま、おねんねしてた! ロッテも!」
「そうだね、それがいい」
「ひゃっほう! おひるねーっ!」
娘の提案に、ハウゼンが短く頷く。
ロッテが歓声をあげる一方で、が困惑を顔に上らせた。
「え、何……?」
「君を休ませる筈が、すっかり後回しにしてしまって申し訳なかったね」
ハウゼンが掛け布団を整え、ついでにロッテにも余りの毛布を引っ掛ける。
「ちょっと何、先生、」
「ロッテがくっついてるから、寒くはないと思うけれど、どうかな」
が抗議するようにハウゼンを睨んだ。
普段のヘルメスならば、ここはに味方してハウゼンに反発した。
けれど、今はどうしてもそのように振る舞う気になれなかった。
「(仮病だ、って、言ってた)」
演技なのだ、それは分かっている。
彼がそう言うのだから間違いは無いはずだ。
けれど。
黄昏色が、まるで警告のように心をぐらつかせる。
ヘルメスはごくりと唾を飲み込み、乾いた唇を開いた。
「あ、あの……様……」
漆黒がヘルメスを見上げる。
緊張で呼吸が止まりそうだ。
その時、扉がノックされ、外から細く開かれた。
「ドクター、聖堂へいらしてください。怪我人が」
「分かりました。――くん、目だけでも瞑って身体を休めなさい。きみ、此処は頼みましたよ」
「は、はいっ!」
ハウゼンに肩を叩かれ、ヘルメスは思わず声を張る。
が天井を仰ぎ、顔を覆って溜め息をついた。
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190601