燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
時よ、止まれ
今のまま永遠に
せめて、君がようやく
指先に掬いとった幸せを
飲み込んでしまうまで
Night.109 言葉にできない
特別身体の具合が悪いというわけでは、無かった。
ただ、此方に向かってくる白衣の男性が見えたから。
かつて故郷で母のために家に通いつめてくれた医師と似た出で立ち。
それに、首に提げているロザリオ。
あの赤毛の医者を巻き込めたなら楽だろうと思ったので、だからほんの少しだけ、気を緩めた。
息を吐きながら、鼓動に耳を澄ませて痛みに身を任せた。
あの医者に気付いてもらえるようほんの少しだけ空気を動かし、周囲の関心を引いた。
たった、それだけだ。
「(ちょっと、目算が外れたけど)」
少しのつもりで気を緩めたらうっかり痛みに飲まれかけて、我に返るのが遅れたけれど。
失敗らしい失敗は、それだけだったはずなのに。
「(どうしてあんなに心配されたんだろう)」
寒さにふるりと身を震わせて、はそっと目を開けた。
つい先程見たばかりの、簡素な病室の中。
ベッドは六つ。
昨日見て回った町の中には医者の看板もあった。
此処が満床になることはあまりないようで、薬品棚は見るからに最低限のものしかない。
高く積まれた毛布が、背凭れのようにの体を支えている。
一方で体に掛けられた毛布は多くはない。
団服の胸元はリーバーによって寛げられているので、寒さを覚えるのも当然だった。
福音を提げているベルトも、その時取り外された筈だ。
手元を探ればすぐ親しい感触を確かめられる。
思えば、手の届く範囲にこれを置いておいてくれたのもリーバーだった。
――聞こえるか、。今ここのドクターが診てくれる。大丈夫だ、大丈夫だからな――
リーバーが震える声で何度も何度も繰り返した言葉は、明瞭に耳に残っている。
意図が伝わっていないことにかえって不安を覚えていたところ、確か、「何か」を飲まされたのだ。
あれは何だったのだろう。
不覚にも少し意識が遠のいて、気付いたら窓から差す光の角度が変わっていた。
そうして部屋を出る二人の背中を見送りながら、身を起こしてアレン達を待ったのだ。
「気がついたかい」
目を動かすと、に巻き込まれた医師が隣にいた。
巻き込まれた? 巻き込んだ? ――いや、言葉が綺麗すぎる。
この人なら「迷惑をかけてもいい」だろうと、そう思ったのだ。
迷惑をかけたら人は死んでしまうというのに、彼が生きようが死のうが、どうでも良かったのだ。
そんなの、思い違いも思い上がりも甚だしい。
価値も資格もない自分が、他人の価値を貶めるなんてあってはならない。
けれど、もう巻き込んでしまった。
少しだけ申し訳なかった。
「名前を言えますか? 苦しければ、瞬きだけでいいですよ」
「……、……」
何を聞けばいいだろう、何と聞いたら自然だろうか。
迷っているうちに、ハウゼン医師が微笑んだ。
「くん。此処は、修道院の中にある医務室です。私はブラム・ファン・ハウゼンといいます」
聞き取りやすい穏やかな声でそう言われ、流されるまま目礼をする。
体を起こそうとすると、手で止められた。
「任務はきみの仲間達が続けています。だから、安心して……ね。今はゆっくり体を休めていいんですよ」
優しい笑み。
褐色の瞳に映る自分は、ぼんやりと困惑している。
それをどう受け取ったのか、ハウゼンはの手をそっと握った。
「教団からこの町まで来るのは、辛かったでしょう。苦しいだろうに、きみはよく頑張っている」
は首を傾げる。
辛い? 苦しい? 誰が?
「(……俺が?)」
可笑しくて、つい笑ってしまった。
どうしてか、微かに頬を上げるしか出来なかったのだけれど。
ハウゼンが不思議そうに瞬いた。
は、そんなことより、と言葉を続ける。
「あの……教団、って」
「うん? きみ達は『黒の教団』のメンバーでしょう? きみは黒服だから、エクソシストってやつかな」
神父から聞いているにしては、いやに好意的で、やけに詳しい。
「兄貴……いや、リーバー班長から、聞いたんですか?」
「ウェンハムくんのことかな」
新鮮な呼び方だ。
は頷く。
「いいえ。私の尊敬する先輩がそちらで働いているんですよ。それで、です」
「……へぇ」
「先輩と旅行していた時に、アクマにも出くわしましてね。その時、初めて黒の教団の存在を知りました」
ハウゼンはそう言いながらも、の手首に触れ、それから首筋に触れる。
いつの間にか取り出した聴診器を手で温めて、失礼、と止める間もなく服に滑り込ませた。
少しの沈黙の中で、されるがままのは視線を惑わせる。
――その「先輩」って、もしかして。
「先輩はそれがきっかけで、そちらに仕事に行くと言ってね……それでまあ、私がここで働いているんです」
「あの……その先輩って、クラーセン、先生……?」
名を挙げると、ハウゼンが目を瞠った。
「そうです。そう、ヒリス・クラーセン! そうか、同じ職場ですもんね、きみも知り合いか」
彼の表情が輝く。
ようやく離れてくれたので、は少し気を抜いて、毛布に体を預けた。
「あの人に憧れて、私は医者になったようなものさ。技術も勿論、なにより……そうだ、彼と話したことはある?」
は頷く。
「俺の主治医ですから」
え、と呟いたハウゼンの笑顔が、凍り付いた気がした。
首を捻る。
気のせいではない、確かに、彼の心が震えている。
「先生?」
「……いや、そうか。うん。……ヒリス先輩は、きみに良くしてくれるかい?」
眼差しがほんの少し、寂しそうに悲しそうに揺れていた。
頷くと、掠れた声で、落ち込んだような顔で、ハウゼンは微笑んだ。
「そう、ですか」
気味の悪い沈黙だった。
不明瞭に入り組んだ心が、憐れみや失望、期待、それから大きな悲しみを伴って、足元から這い寄るような。
は、ぽつりと呟く。
「……ヒリス先生って、そんなに、格好よかったの?」
ハウゼンが、ずっと前のめりで固まっていた体を伸ばし肩を竦めた。
「そりゃあ、もう。……あの人はね、人を救うことは特別なことじゃない、なんて言うんだ」
あの頃の私には痺れる一言だったよ。
まだ少しぎこちなく、医師は笑う。
ハウゼンは町の名士の息子で、ヒリスは医者の家系。
学年の違う二人が出会ったのは、ハウゼンが夏休みに働いた町の図書館だという。
「『人を救うことは特別なことじゃない。ブラムが貸し出した本が、誰かを救ったかもしれないよ』なんてね」
ヒリスの声真似をして話す顔は、とても懐かしそうだった。
「修道院に寄付だけして、街角の浮浪者を煙たがる親父のことが、気に食わなかった頃なんだ」
だから、親に反対されながら小遣いを拒否して自分で金を稼いだのだ、とか。
そこで出会ったのがヒリスだったのだ、とか。
話すたび、ハウゼンは懐かしそうに笑っては瞳を揺らす。
「親しくなりたくてしばらく付きまとったりしたから、先輩は、ほんとは私が鬱陶しかったかもしれないけれど」
「ドクターは、そんなこと思わないよ……多分」
「あはは、多分ね。どう? きみが憧れるのは、どんな人?」
はうーん、と首を傾げる。
よぎるのは、三人。
その中でも一番近い目標として掲げる人を思い浮かべて、つい頬が緩んだ。
「……うん。リーバー班長」
「へえ、ウェンハムくんか」
「うん。俺、……俺ね、あの人、大好きなんだ」
を見るハウゼンの瞳が優しい。
きっと、自身がそういう表情をしているのだろう。
自覚がある。
リーバーは、突拍子もない子供の願いさえはね除けず応えてくれる。
自分がどんなに忙しくてもいつでも周囲に気を配れて、だからいつでも周囲から頼りにされる。
朗らかで、何でも知っていて、けれど絶対傲慢な態度なんかとらない。
いつだって、はリーバーが大好きだ。
だから、やっぱり。
「(生きていて欲しいなぁ)」
ぼう、と視線を宙へ放り投げる。
すかさず脈を取られるので、気も休まらない。
はふと扉の方へ意識を向けた。
「ねぇ、……先、生、」
声と共に出ていく空気が震え、掠れて、途切れる。
自分が出した声に、そして「ねぇ」の一言で息を全て使いきったことに心底驚いては言葉を止めた。
「(……なんで?)」
はっと目を遣ると、険しい顔をしていたハウゼンが取って付けたように微笑んだ。
「さっきは、きみが持っていた薬を使ったんだ。もう一錠飲んでおきましょうか」
「(バクの薬だ)」
そうじゃない、要らない、と返す代わりに急いで呼吸を整える。
ベルトのポーチを開けようとするハウゼンの手を、掴む。
「くん、大丈夫、すぐだから」
「ちがう、仲間を中に、」
は首を横に振った。
「外にいるから……中に入れてやって。一人じゃ危ない」
「ええ、後でいくらでも。きみを休ませる方が先です」
焦れったくて、苛立ちに任せて舌打ちを溢したくなる。
腹に力を込め、は強く声を押し出した。
「っ、アクマが!」
小瓶を取り出しかけたハウゼンが、ビクリと肩を揺らして顔を上げた。
その一瞬を、漆黒で強引に捕らえて絡めとる。
「え……?」
「この町にはアクマがいる。俺達は、この修道院を調べに来たんです」
「まさか、」
「その危険を分からない貴方ではない、でしょう? ……協力してください。貴方の話を聞きたいんだ」
たちまち青ざめて訳もなく首を振る彼の意識を、二重にも三重にも自分に縛り付ける。
空間に自分の声を、呼吸を、存在を染み渡らせる。
ハウゼンの見開いた目が震えている。
漆黒を見つめたまま、彼は引き攣った声を漏らした。
「そんっ、な、……嘘だ、こんな町に?」
「ええ。多分、三十年くらい前から」
「さんっ……!? そっ、そんなに長い間、」
「この町が、それだけ都合のいい餌場だったんだと思う。だから先生、早く。ドアの外の仲間を中に入れて」
「わ、わ、分かった……」
取り敢えず話が通じて、はほっと息をついた。
それにしても、この人がこれだけ怖がっているのだ。
同時にアクマに遭遇したというヒリスも、きっとアクマへの根深い恐怖があるに違いない。
それを押して教団に勤めているなんて、どれほど強い人なのだろう。
「(みんな、そうだ)」
教団の仲間はみんなみんな、なんか遠く及ばないくらい、強い。
ハウゼンが震える手で扉を開けた。
外にいるのはヘルメスだ。
それと、もう一人。
「きみ、くんが呼んで……って、え?」
「てってけてーっ」
ヘルメスより先に、小さな影がハウゼンの足元をすり抜けて部屋に駆け込んだ。
ハウゼンが叫ぶ。
「あ、こらっ! 待て、ロッテ!」
入ってきたのは、五歳くらいの赤髪の少女だ。
肩にもつかない小さなツインテールが耳の横で揺れる。
「しゅっ」と自分で言いながら病室に滑り込み、その子は、両腕を水平に広げてポーズを決めたのだった。
「――ぴたっ! ロッテ、さんじょうっ!」
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