燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
楽しいのでしょう
さぞや美味しいのでしょう
だから隣の庭から
手を伸ばして摘まむのね
鼻を曲げるほどに香りを放つ
熟れ果てた皮の中身を
Night.108 とくべつなあなた
墓地にはまだ人がいるが、回廊は、実に静かだ。
リーバーが肩を落として、先程までアレンが腰かけていたベンチにどさりと座った。
丸めた背中を震わせながら、ただ、ただ、長い息を何度かついて、片手で顔を覆って。
「……悪かったな、アレン。全部決めさせちまって」
顔も上げずに、他人を気遣って。
そんな余裕はないだろうに。
「兄」と呼ばれる人は、強いのだ。
リーバーが此方を見ていないことは分かっていたが、アレンはそれでも首を振った。
「気にしないでください。これで良かったかは、分からないですけど」
「いや、良かったよ。……いったん頭も冷やせる。ありがとう」
呟くような声には、覇気がない。
どうしてがリーバーを「兄貴」と呼んでいるのか、アレンは一度も聞いたことがなかった。
実の兄弟でもなく、リーバーがクロスを師と仰いでいるわけでもないのに。
リナリーがを「お兄ちゃん」と呼ぶような、擬似的な兄弟のつもりなのかもしれない。
けれど、兄弟子の「兄貴」と呼ぶ声にはいつも慈しみと、何より強い憧れがあって。
敬愛と親愛がこれでもかと詰め込まれていて。
自分とよりよほど「兄弟」らしいとさえ思っていたのに。
「(兄さんは分かっていたはずだ)」
あんな呼び方をしたらリーバーが傷つくということくらい、は、分かっていただろうに。
「(どうして、あんな言い方したんだろう)」
あんまりにも惨い。
でも、アレンは強く諫められなかった。
――心配するに決まってる、アレンは俺の弟なんだから――
は迷わなかった。
あんなに噛み合わない会話をしていたというのに、この一言は即答だった。
分かりきったことを聞くなというように。
手離しの愛に不意打ちで貫かれて、震えてしまって、思考なんかまともに働かなかった。
血が繋がっているわけでもない。
ただ、同じ師の下にいるというだけで、弟と呼んでもらうなんて。
それだけで、愛してもらうなんて。
アレンには勿体ない。
けれど。
――アレンと俺は違うよ――
自身が自分と同じように感じているらしいことが、アレンには不思議でならないのだ。
否、もしかしたら、同じですらないのかもしれない。
――兄貴どうしたの、おかしいよ。……俺なんかのことで――
そもそも、あれは本当に狂言だったのだろうか。
考えてみれば、アレンはこれまでの嘘を見破れた試しがなかった。
方舟の中、ミザンの部屋に巻き込まれる直前も。
修行中に悪夢で飛び起きた夜も。
何で肩で息をしているの?
何でこんな時間にまだ起きているの?
疑問を「疑問」と意識する前に、いつだって彼の微笑みに覆い隠されてしまうのだ。
リーバーがズッと鼻を啜り、目のあたりをぐいと拭った。
アレンはそっと目を背ける。
勢いの良い溜め息の後で顔を上げたリーバーは、ぎこちなく笑った。
「此処でこうしてても、しょうがないよな。……どうする、取り敢えず結界の様子でも見に行こうか」
「しかし、パリの時は結界の中から外には出られなかったはずです」
リンクが難しい顔をするので、アレンも首を捻って腕組みをした。
「確かに……あれ? そもそも、あの時は結界の外側が見えなかったよね? 本当にここ、結界の中なのかな」
「ん、待て、そうなのか? オレはあの時、外からしか確認してないんだが」
立ち上がりながら、リーバーが目を瞠る。
「結界の外側は見えなかったですよ。ね?」
同意を求めた相手、リンクもええ、と頷いた。
「孤児院の扉も開かず、窓の外も何も見えない、……俗な言い方ですが、異空間といったところでしょうか」
「外が見えない……? でも、此処は空も普通に……見えてるな」
リーバーが回廊の外に出て、空を確認する。
アレンは病室の扉を見遣った。
どうする? というように、ティムキャンピーが視界を漂う。
これまで入ることも叶わなかったこの修道院に、拠点を設けることには成功した。
聖堂の中は、夜、人が少なくなってからの方が忍び込みやすいだろう。
拠点があるなら泉の調査も急ぐ必要はない。
「もう一度、町の中を見て回りましょうか。パリの時の結界と同じようには、思えませんし」
「そうしよう。オレもこの結界が気になる」
「それなら、」
エゴールがヘルメスを振り返った。
「お前が様について此処に残れ、ヘルメス」
「えっ……」
ヘルメスが、エゴールとアレンを見比べる。
「オレが、ですか」
「そうだ」
アレンも思わずエゴールを見た。
てっきり、エゴールが此処に残ると思ったのに。
「僕が様の傍にいては、彼の身を案じてウォーカーが任務に集中できないだろう」
エゴールがアレンを振り返る。
「僕はウォーカーの信用を失った。……彼はまだ、僕等を一度も裏切っていない」
彼の灰色の瞳を、アレンはこの時久し振りに正面から見た。
リーバーが空の下で、リンクが無関心を装って、アレンを見ている。
体の中が、ほんの少し熱を持った気がした。
アレンははにかむ。
「はい。一緒に行きましょう、エゴールさん」
「ったく、一体どうなってるんだ!」
「東の方も見てきたが、やっぱり駄目だった」
「私たちはずっとこのままなの!?」
「落ち着いて! 我々にも分からないんだ!」
町の出入り口では、配送業者と思しき人たちが荷車を手に怒号を飛ばしている。
彼らだけでなく、老若男女の一般市民も集まって、警察に食って掛かっていた。
押し止める警察側の手は足りていない。
思えば、「吸血鬼」に襲われて大きな被害を受けたのだと昨夜聞いたばかりだ。
「これじゃあ来るはずの客も来れないんじゃないか? まったく」
「あれは、二十九番通りの宿屋の御主人です。食事処がなく、候補から外しましたが」
エゴールが小声で教えてくれた。
「どうしてこんなことに……? 昨日は普通だったよね?」
「ああもう、間に合わない! せっかく劇場のチケットを取ったっていうのに!」
「あちらは十六番通りの八百屋のお嬢さんと、そのお隣の息子さんです。恐らく隣町に行く予定なのでしょう」
アレンはエゴールをまじまじと見つめた。
「あの、……エゴールさん、すっごく詳しいですね」
目をぱちりと瞬かせ、エゴールが首を傾げる。
「そうでしょうか」
そうですよ、と感嘆混じりにアレンは頷いた。
この町に来たのは一度ではないので……などと言われたが、詳しいばかりでなく、よく覚えているものだと思う。
いつまでも彼の解説を聞いていたい気もするが、それでは調査にならない。
リーバーがいち早く近くの住民に声をかけた。
「失礼、旅の者ですが、これはいったい?」
鬱陶しそうに振り返った老年の男性は、エゴールによれば六番通りの安宿の主らしい。
こちらが旅人と知り、急に態度を軟化させた。
「あっ、ああ。朝からどうにも、町の外に出られないらしくってな。外が見えてるってのに、変な話だろう?」
近くの若い女性がアレンに気の毒そうな顔を向ける。
「旅の方なの? なんてこと、もう一泊していただく必要がありそうよ……」
「何せ、警察は分からない、何も知らないの一点張りだからさ。おい! 町長はどうした!?」
横から割り込んだ青年が、遠くの警官へ怒鳴る。
無駄無駄、と首を振ったのは、リンクが呼び止めていた中年の女性だ。
「昨日から外遊ってやつにお出掛けなのよ。はっ、役立たずな町長様も、これじゃあ帰っても来られないね!」
「――なに、町長さんに非はありませんよ、皆さん」
ざわめきにアレンが振り返ると、此方を冷たい目でひたりと見据えたマルテン神父がそこにいた。
人々は口々に警察の対応の悪さを訴えている。
一方で、警察も困り顔で不安を口にする。
先程アレン達を憐れんだ女性が、マルテンへ頭を垂れている。
アレン達に向けるものとは全く異なる穏やかな表情で、神父は頷き、彼女の肩を優しく抱いた。
「私は神父だ、主に祈りを捧げることしかできない。……どうか元凶たる『この者達』が一刻も早く立ち去るように、と」
「元っ……!?」
リーバーが声を上げ、目を見開いた。
リンクの溜息、エゴールの呻き声。
そしてアレンは、ぶんぶんと首を振った。
「待ってください! これは僕らがやったんじゃありません!」
無関係とは言い切れない、これはアレンの目を封じてこの町を隔離するための結界だから。
けれど、アレン達が仕掛けたものではない。
断じて。
「しかし、心当たりがあるのでは? 町の皆さんは、朝からずっとこの調子ですっかり困惑していたというのに、」
マルテンが微笑む。
「あなた方ときたら、帰れないと聞いても眉ひとつ動かしませんでしたしね」
「それはっ、」
「心当たりがあって、『コレ』が『何』なのかご存知なのでしょう」
微笑みの中の眼光の鋭さが、アレンの身を震わせる。
ゾッとした。
鳥肌が立った。
まるでが場を支配したときのように。
ハッとして周囲を見回せば、マルテンの言葉に煽られるように、アレン達を睨み付ける人がいる。
一人、四人、九人、それ以上を数えるより前に、神父に目を戻す。
リーバーが首を振り、敵意はないのだと手を広げた。
「コレが何なのかは知っています。皆さんに危害を加えるものではありません」
「ほう? では、何のためと」
「目的は分かりませんが、この町を外界から隔離するためのものかと。我々は寧ろ、これを解除したいんですよ」
「その言葉を信じろとおっしゃるのですか」
「……信用していただくしか、ありませんね。提示できる証拠のようなものは、持ち合わせていませんので」
「私は『リーセロット』を奪おうとするあなた方が、我らを皆殺しにするため仕掛けたものかと、思っていましたが」
「リ……何ですって?」
「『リーセロット』を……!?」
聞き返したリーバーの声に覆い被さるようにして、どよめきが広がる。
「ひょっとしてこいつら、神父様が常々おっしゃる『教団』の奴らか?」
「こいつらが、彼女を!」
「許せない」
「許さない」
若者達が殺気立つ。
アレンは一歩前に出て、エゴールを体の陰に庇う。
リンクがそっとリーバーに歩み寄る。
町から出ていけ!! 強い声が、彼方此方から上がった。
四人は一塊になって、身を寄せる。
「ちょっと、落ち着いて! リーセ……、誰のことですか、神父様!」
アレンは叫ぶ。
「流れから言えば、あの『死体』のことでしょうね」
なんて暴論だ、とリンクが苦い声で吐き捨てた。
マルテンがやれやれと首を振る。
「あなた方のお仲間……神を騙る『彼』にも、恐らく罰が当たったのです」
のことか。
アレンは昼に続いて、またもカッと耳が熱くなったが、今はそれどころではなかった。
「神父様、こいつらには他にも仲間が?」
「昼前の修道院を見なかったのか?」
「騒ぎを起こしていた奴等だ」
「私、あの時すっごく怖かった!」
「妙な術を使ったに違いないわ!」
「そういえばドクターのハウゼンがいた」
「はっ、それなら、当然の報いだ!」
若者達の声は、ますます大きくなる。
うねりを上げて、彼らが一歩一歩、迫ってくる。
「さっさと出ていけ! 疫病神!」
「けど、この現象があいつらのせいだとしたら、外には追い出せないんじゃ?」
「こんなことする余裕もないくらい痛め付けてやればいい!」
「『リーセロット』を守れ!」
一番前にいた青年が、雄叫びを上げながら警官からサーベルを奪った。
アレンはエゴールの手を引いて身を翻す。
リーバーのことは、リンクが連れてきた。
「エゴールさん! どこか、隠れられる場所!」
「っ、その路地を左に!」
「――いいや、右だ」
割り込んだ声は、仲間の誰のものでもない嗄れ声だ。
咄嗟に顔を向ける。
「二十九番通りの宿屋の主人」がアレン達を手招いた。
「ついて来い!」
後ろからは、罵声と怒声と荒い足音。
迷っている暇はない。
アレンは、宿屋の主人の後を追いかけた。
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