燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
手で触れてはいけない
硝子の向こう側に
大事に大事に飾っておくの
だから、さよなら
さよなら、どうか
一欠片も損なわれず
明日の中で生きていて
Night.107 木の葉の叫び
アレンが扉を閉めた。
医師と共に廊下に残ったリーバーは、自分の腕を見下ろす。
を抱き上げたのは、これが初めてではない。
つい最近だって、朝食に向かう廊下で倒れた彼を大急ぎで病室へ運び込んだ。
けれど。
「(……軽かった)」
あの日と比べても、腕に抱いた身体はゾッとして震えるほど、軽かった。
「――本人が万が一知らないのだとしたら、万が一にも聞こえてはいけないと思って、部屋では黙っていましたが」
顔を上げる。
万が一、を殊更強調したハウゼンが、大きく溜め息をついて腕組みをした。
険しい目がリーバーを見据える。
「何故、彼を連れてきたのですか」
声色は腹立たしげで、それでいて廊下のベンチを指し示し、どうぞ、と勧めてくる。
そうしてこの医師は平常心を保とうとしているのだろう。
彼は一人で診察をすることに大分手慣れているようで、驚くべき手際のよさ、判断の早さをもってを診察してくれた。
間近で目にしただけに、リーバーは針の筵のような心持ちだ。
腕を磨くためこの人がどれほど努力し、どれだけの人を救い、或いは看取ったのか。
それを思えば、彼の怒りは仕方のないことだ。
なにより普通の医師であれば、教団の方針に賛同など出来まい。
「あの身体で、よく此処までの長旅に耐えられたものです……無事に帰れる保証だってありませんよ」
「そんなに、ですか」
「第一、帰せないでしょう、『アレ』で落ち着いたような顔をされてしまっては」
消え入るような呼吸。
噛み殺した呻き声。
リーバーは知っている、それがの癖なのだと。
自分に関することが、周囲にどれだけ動揺を与えるか知っているから。
若しくは「心配をかけたら皆が死んでしまう」から。
は噛み締めた奥歯の更に奥、胸の中、喉元までの僅かな空間で悲鳴を殺し、いつだって微笑む。
そんなことをする必要はない、なんて誰が言えるだろう。
「神」の一挙手一投足に、表情に、吐息にさえ揺らいで、彼に微笑みを強いるのは我々だ。
「少し楽になってたように見えましたけど……」
「いいえ。血圧も、脈拍も、……心音を聞いたって、容態は何一つ変わっていないんですよ、ウェンハムくん」
聖典は臓器としての細胞組織で出来ているわけではない。
痛みと苦しみに意識を失いきることも出来ない様子だったの口に、最終的にはバクが作った例の薬を押し込んだのだ。
「痛みで任務がままならない時に使うように」と言い含められた薬を。
効くかどうかもまるで未知数の薬を。
それでもややあって、の体の強張りは確かに解け始めた。
しかしハウゼンはその時から険しい顔を崩さなかった。
壁に凭れて、医師は天井を仰ぎ見る。
「アレが『楽になった状態』なら、……なんと残酷なことか」
リーバーは、ズボンをぐしゃりと握った。
「……一応、本人は知ってるんです。自分がどういう状態なのか、伝えてあります」
「そうですか。それにしても、です。まったく、彼の主治医はどういう了見なのか」
苦々しげにハウゼンは吐き捨て、壁から背を離した。
「あなた達、これだけの人数で来ているのですから、彼が抜けても仕事に支障はないでしょう?」
「あー、あの、それが……あいつと、もう一人黒服の」
「白い髪の?」
「ええ。あの二人でないと、オレらの『任務』は片がつかなくて。いや、でも、これではとても……」
腕組み、そして無言の視線があまりにも痛い。
「一度、上に判断を仰がせてください」
「あなたの上司が賢明な判断の出来る方であることを祈りますがね。どちらにせよ、彼はしばらく預かります」
リーバーは立ち上がり、頭を下げた。
「……すみません、世話になります」
「いいえ。それが仕事ですから」
赤毛の医師は、頭を上げて、と微笑む。
「まあまずは神父様に許可を頂かなければね。霊園を挟んで聖堂と向かい合う建物、分かりますか?」
禁域とこちらを隔てる、例の建物だ。
「あそこがマルテン神父の事務所です。すぐ戻りますが、少しでも何かあれば、いらしてください」
回廊を抜けて墓地の広がる中庭へ進むハウゼンの背を見送り、リーバーは溜め息をついた。
部屋に戻らなければ。
アレン達には、まだ詳しい話をしていない。
ハウゼンに言ったように、任務中断もあり得る。
この町の奇怪は二つ。
けれどその両方がイノセンス由来であるなんて可能性は極めて低い。
ならば、まずは「福音」と「聖典」の保護を優先すべきだ。
「(は、武器じゃない)」
ギリ、と奥歯を噛み締めた。
「(エクソシストは、武器じゃないんだ)」
けれど、今考慮すべき事柄であることに違いはない。
リーバーは大きく息を吐き、片手で頬を叩いてから扉を開く。
「エゴール、通信機を貸してくれ……」
「あ、兄貴」
耳に触れた朗らかな声。
リーバーはバッと顔を上げた。
一番手前のベッドには、にこやかに手招く人影がある。
「よかった、ようやく戻ってきた」
落ち着かない顔のアレン達が、立ち尽くすリーバーと微笑むを交互に見比べた。
「それで、これからのことなんだけど」
「ちょ、っと、……待て……何起きてんだ、寝てろって!」
やっとのことでリーバーは叫んだ。
駆け寄って彼の肩を掴み、倒して、高く積んだ毛布に凭れさせる。
此方を見上げるがきょとんと首を傾げた。
「アレンっ、いや、お前らもボーッと突っ立ってないで!」
「ご本人が、アレは狂言だとおっしゃるものですから」
は? と返しながら振り返る。
呆れた声で、リンクが溜め息がちに言った。
「この修道院に潜り込むために、一芝居打ったと」
アレンがその隣で、不安そうな表情のまま頷く。
探索部隊の二人は完全に振り回され、困惑しきっている。
へ視線を戻すと、彼はうん、と事も無げに頷いた。
「上手くいってよかった。なかなかいい演技だったでしょ」
ふら、と彼の肩から手を離す。
「……何で、そんなこと」
「だって、マルテン神父との話、上手くいってなかっただろ。そしたら通りの向こうにあの医者が見えたから」
にこり、が笑う。
「ロザリオも見えたし、診療鞄も持ってたし。あの人なら俺達を中に入れてくれるかなって」
「お前……っ」
すらすらと語られる言葉に、ガリ、と奥歯を噛み締めた。
咄嗟に手が出る。
先程、ハウゼンの指示でリーバー自身が緩めてやったばかりの彼の胸ぐらを強く掴んだ。
「やっていい冗談と悪い冗談があるだろう!!」
が目を丸くする。
まずい、驚かせたか。
ハッと肝を冷やしたのも束の間、瞬きひとつ、彼はリーバーを睨んだ。
「俺、兄貴には『大丈夫』って言ったよね?」
「バッ、バカ野郎! あんな状況で言われるモノ、誰が信用できるかっつーの!」
「何で? 言った意味がない……聞こえなかった訳じゃないんでしょ」
「聞こえてたよ! 聞こえたけど、オレは、今、そういう話をしてるんじゃないだろっ!」
「そういう話をしてるんだよ……そうか、道理で。やたら慌ててると思ったんだ」
「慌てない奴がどこにいるっていうんだ! おい、ふざけるなよ! !!」
「別にふざけてないけど」
「このッ……!!」
「リーバーさんっ、声、声抑えてくださいっ……」
アレンが囁き、リーバーの服を引く。
視界の端を、アレンと同じように慌てた様子のティムキャンピーが泳ぐ。
リーバーは彼らに視線を向けずに、唸った。
「大丈夫だ、アレン、……離してくれ」
は驚くほど、いつも通りの顔をしている。
いつも通りに笑って、喋って。
不機嫌そうにもしているが、その顔は「兄貴」たるリーバーだから向けてくれるようなものだ。
けれどもしこれが、の強がりだとしたら?
だって、演技であんな風に医者を騙せるものか。
演技で、あんなに苦しむものか。
震える息も、あの軽い体も、演技で出来るものなのか。
彼の空気に呑まれている自覚はある。
嗚呼、嗚呼もう、何を信じたら。
「……いいか、」
リーバーは少しでも自分のペースを取り戻したくて、深呼吸をした。
「オレは、お前のこと、弟だと思ってるんだよ。分かるだろ」
漆黒はまだ此方を不機嫌に睨みながらも、素直にひとつ頷いた。
そうかよかった、リーバーも応えるように頷く。
「仮にアレンがあんな芝居して、『大丈夫』なんて言われて、だ。お前、『ああそう』って鵜呑みに出来るのか?」
「出来るわけないだろ」
低い声が即答した。
「心配するに決まってる、アレンは俺の弟なんだから」
「そうだよな。なら分かるだろう? なあ。お前と同じだよ。オレだって、お前のこと心配したんだよ」
だから、頼むからもうあんなことはしないでくれ。
そう続けようとしたのに。
リーバーは、そこで思わず唇を噛んだ。
泣くな、こんなことで。
いや、泣きたい、「弟」のことだからこそ。
なあ、どうして。
「(どうして、首を傾げるんだ)」
無垢で紡がれた漆黒がリーバーを見上げている。
透き通った眼差し、その奥にただひとつ、困惑だけが揺蕩って。
「何で?」
首を傾げて、が言う。
「アレンと俺は違うよ」
意図するものが何なのか、何が「違う」のか、聞く前に辿り着いてしまって。
リーバーは、声にも出せず祈った。
――もう何も言わないでくれ
狂ったように「家族」を大切にする彼なら、「家族を思う気持ち」を分かってくれるだろう、と。
思ったのに。
「兄貴どうしたの、おかしいよ。……俺なんかのことで」
肩を竦めてそう言ったきり、彼はまるで興味を失ったようにリーバーから目を離した。
さっと一度扉を振り返り、身動ぐ。
「――アレン、さっきの続きだけど、とにかく結界を何とか解除するんだ。兄貴と協力して」
「ま、待ってください兄さん! リーバーさんと、ちゃんと話を、」
「そんな時間はないよ、もうドクターが戻って来てる。此処には誰か一人残ってくれれば、まあ自然に見えるだろ」
が、積み上げた毛布に凭れた。
体に掛けられていた布団をさっと直している。
「……ごめん、『リーバー班長』」
自然と俯きかけていた顔を、思わず、上げた。
「思い上がって『兄貴』なんて呼んで、迷惑かけてごめんね」
「(違う、)」
そっと、彼は微笑む。
「(違う、そうじゃない)」
声を絞り出したくて。
声を張り上げて否定したくて。
けれど思いの外、堪えた。
――「リーバー班長」だなんて。
そんな風に呼ばれるなんて、思ってもみなかったから。
だからリーバーは、一瞬言葉が遅れたのだ。
喉から声を出す前に扉が開いてしまった。
「お待たせしました。なんとか許可は貰えましたよ」
ハウゼンがそう言いながら、立ち止まる。
部屋の微妙な空気を察したのだろう。
一瞬、そうして誰もが意識を逸らした隙に、はすっと目を閉じていた。
息遣いは乏しく、顔色までも先程とまるで違う。
狐に抓まれたようだ。
医師の褐色の瞳が、素早くへ投げられる。
彼はそのままベッドサイドへ歩み寄り、丸椅子に座った。
が投げ出したばかりの手を取って、そっと手首に触れる。
「さて。あなた方はどうするか決まりましたか? お仕事をこのまま続けるか、切り上げて帰るのか」
見上げられて、リーバーは答えられなかった。
言葉さえ頭を素通りしている。
「どちらにせよ、彼はしばらく此処で私が預かります。まだ話が決まらないのであれば、続きは外でどうぞ」
「いいえ」
代わりに答えたのは、アレンだった。
「僕らはこのまま任務を続けます。兄さんのこと、よろしくお願いします」
きっぱりと口にして、ぺこりと頭を下げる。
ハウゼンが彼を見上げた。
「きみは、彼の弟?」
「……はい」
「そうですか。さっきはすみませんでした、不安にさせましたね。傍にいてもらった方が、彼も安心したかな」
いえ、とアレンが小さく首を振る。
ハウゼンが優しい微笑みを向けた。
「お兄さんは、此処で私が看ていますからね」
「ありがとうございます。なるべく早く、戻ります」
行きましょう、アレンがリーバーの腕を引く。
リーバーは、引き摺られるままに、部屋を出た。
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