燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









その声を、信じ、従い、進む
決意と覚悟をもって旗を振るけれど
その声が
あなたの中から聞こえたならば
あなた自身が、あなたの神なのだ




Night.106 遠く、遠い貴方









「それは、あなた方が信用ならないからですよ」

近くで見るマルテン神父は、リーバーと同じくらいの背丈だった。
いかにもな老紳士ではあるが、背筋がすっとして立ち姿には若々しささえある。
彼は灰色の目で、きつくアレン達を睨み付けた。

「三十年前のあなた方のお仲間は、棺の蓋を開け、彼女を解剖したいなどと仰いました」

アレンはうわぁ、とつい顔を歪める。
確かに教団は、目的のためなら手段を選ばない。
けれど無関係かもしれない少女の死体にその言い草はよくないだろう。
生きたまま解剖したいと言ってないのでまだいい、などとは間違っても口にできない。

「そうだったんですか……。僕ら、そんなことはしませんよ。ただ、自由に死体を見せて頂ければ」
「ならば観光客と共に入られよ。そうしない以上、やましい気持ちがおありなのでしょう」
「……まあ、棺の蓋を開けるくらいは、させてもらいたいですけど……」
「場合によっては、教団に持ち帰ることもあります」

リンクが口を挟む。
途端に、マルテンは眦を吊り上げた。

「あなたは、大事な人の遺体を他人の好き勝手にさせられますか? 何とも思わないのですか」
「少女の亡骸を親族から引き離して見せ物にすることは、好き勝手とは言わないのですね」
「なんだと……?」
「大変勉強になります。尊厳の取り扱いについては我々も時代に則していかねばと思っていますので。是非見習いたい」

澄ました顔でここまで言ってのけるのは流石だと思う。
アレンだけでは、ひたすらお願いしますと言うことしか出来なかった。
いや、この場にはもう一人のエクソシストと頼れる大人がいるのだ。
ほんの少し振り返ると、昨夜の被害者遺族達が此方に向かっていて、兄弟子達はそれを見ているようだった。

「(いや、……兄さんに手間かけさせちゃダメだろ)」

アレンはまたマルテンに目を戻す。
出立前にコムイは言った。

を一緒に行かせるよ。きっと探索部隊ともうまくやれると思うんだけど……頑張れる?」

探索部隊員とのクッションのため、そして14番目の監視役として、は選ばれたのだ。
マリに言われるまでもなく、自分の存在が一部の反感を買っているのは分かっていた。
自分と、兄弟子の立場の違いだって十分自覚している。

「(迷惑をかけた)」

優しくアレンを見守ってくれるあの人に追い付きたくて、修行の最初の一年はただただ必死だった。
追い付きたい人なのだ。
追い付けなくても、彼の弟として相応しい自分でありたいのだ。
それなのに、最近のアレンはどうだ。
ノアを身の裡に飼い、周りとの軋轢を生み、本部に戻らず療養を続ける兄弟子を任務に駆り出すような。
そんな自分が。

「(頑張らないわけには、いかないじゃないか)」

同行する探索部隊のエゴール、ヘルメス。
特にエゴールは、本部襲撃後からアレンを敵視し睨むようになった一人だ。
そんなものを気にしていては仕方ないが、気にならないわけもない。
それでも、頑張れない、とは決して言えない。

「俺が口を挟むと逆効果だ、って言うんだよ……」

ジョニーがアレンのために心を配って、へ働きかけてくれたことは本当に嬉しかった。
けれど、兄弟子に自分を庇わせてはならないとアレンは思う。
アレンも、そう思う。
彼は自分の兄弟子であるだけではないのだ。
「教団の神様」の信仰を揺らがせ、 教団がまとまりを失うのはアレンとしても不本意だ。
だから、ただただ愚直に、信じる他ないのだ。

「(……期待してくれているんだ)」

兄弟子はそういうところで、師に似ているから。
きっとアレンなら一人で事態を打開するだろうと、期待をかけてくれているのだ。
それは殆ど確信でもあった。
それがあの人の距離感で、やり方だ。
アレンが音をあげればすぐにでも手を貸せる場所で待っていてくれる。
ならば何としても兄の期待に応えたい。
気後れせず、あの背中を追いかけていられるように。
いつか胸を張って、隣に並べるように。

「赦すよ」

知らぬ間に、視線をそちらに吸い出されていた。
いけない、マルテンを説得している途中だったのに。
慌てて目を戻すと、老紳士は憎悪と嫌悪を全身に立ち上らせて、を睨んでいた。

「愚かな……!」

彼の敵意が、兄弟子へ向けられているのをはっきりと感じる。
けれど、何故だ? アレンは戸惑って聞き返す。

「……はい?」
「神を騙る者にはいずれ天罰が下るだろう」

なんですって、と詰め寄る前に、ヘルメスがぐっと前に出た。
体も大きく、外見だけならとても迫力のある彼にも、しかしマルテンは全く動じない。

様のことを知りもしないくせに、何を……っ!」
「ヘルメス!」

エゴールが厳しい声で制止する。

「失礼いたしました、神父様」
「不愉快だ。町から出ていきなさい。何度でも繰り返すが、あの棺は開けられない」
「お待ちください、どうか、一度で構いませんから……」

食い下がるエゴールの声が遠くなる。

――兄さん

その時、アレンが振り返ったのは偶然だった。
とリーバーに加勢してもらおうと思ったのか、兄弟子の姿を見て安心したかったのか。
自分が何を思っていたかは、分からない。
明白なのは、アレンが振り返ったまさにその時、俯いたがよろめいてリーバーに凭れたということ。
兄貴と慕う彼の袖をきつく握り締め、そのままずるずると蹲ってしまったという事実だけ。

「え……?」

リーバーが青ざめて叫んでいる。
葬列の人々が振り返り、ざわめく。
兄弟子の顔が見えない。
けれど、リーバーの様子から、状況は明らかだった。

「兄さん!?」

叫んで、しかしその息を途中で飲み込む――否、強制的に、言葉ごと息を喉に押し込まれる。
肌がざらりと粟立つ。
血管のひとつひとつを這い上がる、侵される、乱される。
食い殺される。
食い破られる。
自分のものではない苦しみが、アレンの身体を震わせる。
そう、これはアレンの痛みではない。

「(『僕』は、苦しくない)」

唐突に、苦痛の濁流から放り出される。
遅れて、どっと流れる冷や汗。
「逃がされた」のだと、直感した。
代わりに喪失への危機感が湧き上がり、修道院全体が混乱の渦に飲み込まれる。

――怖い
――怖い
――怖い
――神様がいなくなる
――神様が?
――神様がいなくなる?

いいや、違う、そんな恐怖ごときに、アレンは構っていられない。
世界の恐怖なんか、知らない。

「(「兄さん」が、苦しんでる)」

アレンにとっては、その方が遥かに大きな問題なのだ。
だから駆け寄ろうとした。
刹那、後ろから肩を掴まれた。
何だよ、誰だよ、邪魔するな、僕の兄さんが苦しんでるんだ!
無意識に、乱暴に振り返る。

「――ッ!」

相手、エゴールも、きっと無意識だった。
それは仇を見るような眼差しで、敵を見るような表情で。
あの方を害したのはお前か、と。
瞳は言葉よりも遥かに多くを物語る。
彼が、我に返ったように目を瞠った。
不思議な心持ちだ、昂っていた気持ちが急速に冷えていくような。
細かな罅が次の亀裂を呼び、じゅん、と痛みが染みてくる。

「私はハウゼン、修道院勤めの医師です。彼を中へ。……宜しいですね、神父様」

凛とした男性の声が聞こえた。
アレンはエゴールの手を静かに払う。
段差を一息で飛び下りて、ティムキャンピーと共にに駆け寄った。









思い詰めた顔のリーバーがを抱き上げて、ハウゼン医師に示された部屋へ入る。
孤児院の奥、回廊沿いの建物の一角。
アレンはその後に続こうとした。

「きみ達は外に」
「えっ、でも……」
「治療の邪魔だ。待っていなさい」

治療――それはそうだ、ハウゼンはイノセンスの事情など知らない。
驚き、それに自分で答えを返す間に、扉はあっさり閉ざされた。
アレンは扉の前で拳を握り、そのまま立ち尽くす。
ドアノブに映る思い詰めた顔。
それはきっとこの場の、否、先程空間を共にした誰もが浮かべている表情なのだろう。
師の捜索任務の最中に感じた恐怖は、今となってはより増幅されてアレンを襲った。
それに。

「(まだ、指が痺れてる)」

まだ、忘れられない。
自分を、或いはあの場全体を襲った侵食の恐怖。
あれは何だったのだろう。
自分自身の感覚ではなかった。
空気すべてが、自分ではない誰かの感覚に飲み込まれたような。
そんな芸当、誰が出来る。
そんな奇跡みたいな芸当、他に誰が出来る。
ならばあれは、本当に「兄さんの痛み」だった?

「ウォーカー、此方に掛けて待ちましょう」

リンクだ。
アレンはそちらを見なかった。

「嫌です」
「キミが自分を罰するためにそこに突っ立っていても、彼の容態は良くなりませんよ」

思わず振り返る。
溜め息混じりにリンクが肩を竦めた。

「こうなっては、戦闘員はキミ一人。よく食べてよく休んでいるべきです」

あまりに正論で、だからこそすっと飲み込める言葉だった。

「……うん」

医学も科学も知らないアレンに出来るのは、兄弟子の分まで働くこと、それだけだ。
不必要に彼に背負わせてしまった荷物を、元通り自分で背負い直すことだけ。
少しでも良かったと思えるのは、タイミングよく医者が通りかかった幸運だろう。
たとえ、薬も何も効かないのだとしても、何もせず兄弟子を苦しませるより余程いい。
アレンは、勧められたベンチに腰掛けてそっと指を組んだ。
ティムキャンピーが膝頭に寄り添ってくれる。
ああ、僕じゃなくて、兄さんに寄り添わせてあげればよかったな。
どうか一秒でも早く、一瞬でも早く、兄さんを苦しみから解放して。
どうか。
組んだ手を額に押し当てる。

「(いったい誰に祈ったらいいんだろう)」

ぽろ、と零れた問いが、祈りを惑わせた。
アレンは顔を上げ、宙を睨む。

「……ウォーカー」

誰の声かも判断せず、ただ聞いていた。
ヘルメスは、閉ざされた扉と自分の先輩を見比べておろおろしている。
可哀想なくらい青ざめているので、何かしらフォローしなくては、と思った。
兄さんのように。

「(……僕には、そんなこと、出来ない)」

浮かんでは、消え、浮かんでは、消える。
あの人のように出来たらいいのに。
兄さん、あなたのように。
けれど、僕は、全然足りない。

「ウォーカー、……先程は、失礼しました」

呼び掛けていたのは、エゴールだった。
ようやく脳に言葉が届いて、振り返る。
アレンの顔を見て、エゴールが深く頭を下げた。
別に、そんなことしなくても、いいのに。
彼がどんな人生を辿ってきたのか、アレンは知らない。
けれどマリが言うように、彼もアクマやノアに憎しみを持つ者の一人なのだろう。
それなら、あの態度に納得もするから。

「……僕は、どう思われても構わないですけど、」

それでも今、アレンはエゴールに固い言葉をぶつける。
を運ぶなら、アレンかヘルメスが一番適していた筈だから。
迅速にリーバーを運ぶならアレンやが担いだ方が早いのと同じことだ。
余計な負担を掛けず兄弟子を修道院に運ぶなら、鍛えているアレンか、力のありそうなヘルメスが適任だった。
そうすることが出来なかったのは、エゴールが、アレンを引き留めたからだ。
兄弟子の苦しみが、エゴールに届かなかった筈はないのに。

「それで兄さんを苦しめるのは、やめて欲しいです」

エゴールはびくりと体を震わせて。
けれど、アレンも唇を噛んで顔を背けた。
言葉はそのまま自分に跳ね返ってくる。

「(そもそも、僕が、こんな厄介な弟じゃなければ)」

兄さんが駆り出されることもなかったのに。
歯が震えて、噛み締めた唇をあっさりと突き破る。
エゴールの瞳に映る自分の情けない顔も、口の中に広がる鉄臭ささえも、全部全部憎らしくて。
アレンは、顔を背けて俯く。
ティムキャンピーの金色さえも、情けなくて直視できなかった。

「――きみ達」

数時間、誰もが沈黙していた。
扉が開き、ハウゼンとリーバーが廊下に出てきた。
ハッとして立ち上がる。
ティムキャンピーが、開いた扉の隙間から中に滑り込んだ。

「待たせたね、不安だったでしょう」

ハウゼンは、先程とは打って変わって穏やかに笑った。

「あのっ、兄さんは、」
「ええ、随分落ち着きましたよ」

その後ろでリーバーが眉を下げて微笑み、頷く。
アレンは探索部隊二人と共に思わず息を漏らした。

「今晩此処で様子をみられるよう、神父様に話をつけてきます。しばらく傍にいてやりなさい」

ハウゼンに促されて、アレンはドアに手を掛ける。

「あ、でも、リーバーさんは……」

振り返ると、彼らはまだ話があるようだった。
リンクがアレンの背を押す。

「傍に誰もいないというのもあれです、入りましょう」
「そうだね。兄さん、入ります……」

聞こえるかは分からないが、声を落として呼び掛け、細心の注意を払って扉を開けた。
どうせ皆入るのだからと扉を開けて、身振りで三人を先に中に通す。
音を立てぬようそっと扉を閉めて部屋を見回した。
ベッドが複数並んでいる。
その全てから回収されたのだろう掛け布団が、まるで背凭れのように、一つのベッドに積み上げられていた。

「……あ、あれ?」









   BACK      NEXT      MAIN



190120