燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









窓枠に腰掛けて
天使が此方に伸べる手を、
とろうと、した
気付かなかった
それが額の中の絵画であったと




Night.105 此処は神の庭









瞼を透かす陽光のあまりの眩しさに、リーバーは思わず顔を顰めて目を開ける。

「んあ……ちょくしゃ、日光……」

光は眩しいけれど暖かく心地よい。
頬に当たる枕がふかふかで気持ちいい。
くすくす、耳を擽る声が心に安らぎを与え、再びの微睡みを促す。

「――あれっ?」

オレの部屋じゃない!?
飛び起きると、昨晩と同じ窓際の椅子でが笑いを堪えていた。
否、堪えきれてはいない。
紅茶のカップを置き、膝にかけていた毛布を払って、彼は立ち上がった。

「兄貴ってば、どんな寝言だよ」
「ね、寝言じゃねぇよ……」
「ギリギリね」

おはよ、と笑いながら、トレイを此方へ寄越す。
渡された軽食と渡したを交互に見ると、彼は肩を竦めてまた椅子に深く腰掛けた。

「それ食べたら、出よう」
「すまん……寝坊したな、オレ」
「気にしないで。アレン達もまだ下で食べてるし。皆、さっき起きたんだ」
「お前は?」
「俺は基本、朝食べないでしょ」

そういえばそうだった。
リーバーは項垂れ、取り敢えずもう一度謝罪する。
昨晩は、すぐに修道士達が戻ってきてしまって潜入は果たせなかった。
その後パトロール代わりに町の中を、裏路地までぐるぐる見回ったのが疲労の原因だ。
明け方この宿に戻ってベッドに座り込んで、以降の記憶がない。
やってしまった。
きっと枕に頭を乗せて毛布を掛けてくれたのは、アレンとだったのだろう。
インテリは意外と体力自慢、のはずだったのに。
落ち込みながら朝食を終える頃、アレン達も部屋に戻ってきた。

「あ、リーバーさん。おはようございます」
「すまん、アレン。すっかり寝過ごした」
「いえいえ。徹夜明けでしたもんね」

探索部隊の二人は部屋を手早く整えている。
此処にはベッドが三つにソファが一つあるけれど、そういえば二人はどこに泊まったのだろう。
そう問いかければ、エゴールがなんてことの無い顔で答えた。

「ああ、我々は廊下に」
「寝ずの番……じゃないよな?」
「科学班じゃないんですから。交代で寝かせて頂きましたよ」

苦笑した彼は、止める間もなく膝の上のトレイを持ち上げる。

「僕が戻しておきましょう。どうぞご準備を」

その柔らかな気遣いとアレンへの警戒しきりの視線とを連続して見てしまう。
昨晩の夕食時も、そうだ。
罵倒する訳でもないし、無視を決め込むわけでもない。
けれど常に、アレンを警戒している。

「(何とかなんねぇかな……)」

とにかく無事に任務を終えられるよう、リーバーもサポートしてやらねばならない。
出だしから躓いてはいるが。
昨晩のうちに、結界については仮説を立てた。
既に、結界はこの町全体に仕掛けられている。
決め手は、勘と呪いの差だ。
昨夜、の「勘」について、アレンが聞いていた。

「兄さんは、どうして事件に気付いたんですか?」
「さあ……勘かなぁ。空気が……俺にもよく分からないけど」
「分からない割には、随分確信をもって飛び降りたように見えましたが?」
「それは気のせいだよ。ハワードの、気、の、せ、い」
「あんなに揺さぶられたリーバー班長に同じことが言えますか、キミは」
「リンクって意外と兄さんに絡みますよね」
「ほんと、うるさいったらない。ハワードの奴、俺に気でもあるのかな」
「誰が!」
「兄さんも結構絡みますよね?」

殺意が見えた、恐怖を受け取った、混乱と悲しみが飛んできた。
そんな風に「感情」を受信したのだと。
アレンの左目の呪いとはシステムが違う。
伯爵側の使う結界は、アレンの能力を阻害し、アクマを、或いはその魂を隠す類いのものだ。
恐らく、人間の感情を隠蔽することは出来ない。
は気付いて、アレンは気付かなかった。
となれば既にこの町には結界が働いていると見るべきだ。
ハースト孤児院に仕掛けられたものとは別種の結界。
それを解除することがどれだけ途方もないことなのか、考えるだけでも気が遠くなるが、そうも言っていられない。
自分はこのために来たのだから、今こそ張り切るべきだ。

「おい、あれは……」

修道院には、今日も多くの人が出入りしている。
昨日はリーバー達四人を完全に素通りさせた警備役の修道士達が、顔色を変えて仁王立ちになった。
門の下の僅かな階段を上がったエゴールが、硬い表情で対峙する。

「こんにちは、黒の教団です」
「お引き取りください。先日もそのようにお伝えした筈です」
「我々も三十年は申し上げております。一度でいいのです、朽ちない死体の調査をさせて頂けませんか」

修道士の一人が、建物の中にとって返す。
アレンがリンクの袖を引っ張りながら、エゴールの一段下に立った。
エゴールがアレンをちらと振り返る。
先輩の隣で身を縮こまらせながら、ヘルメスが言った。

「ローズクロスは、ヴァチカンからあらゆる場所の入場を認められている筈です」
「それが何だというのです、例え中央庁からの抗議があろうと我々の決定は変わりません」
「あのー……聞いてもいいですか?」

それでも口を挟んだアレンの胸にあるローズクロスの実物を見て、修道士は僅かにたじろぐ。

「どうして、観光なら見学できて、調査するのはダメなんですか?」
「それは、あなた方が信用ならないからですよ」

奥から出てきたのは、昨晩マルテンと呼ばれていた神父だ。
笑ったらさぞ感じの良い老紳士なのだろうが、生憎、皺をより深く刻んで此方を睨んでいる。

「三十年前のあなた方のお仲間は、棺の蓋を開け、彼女を解剖したいなどと仰いました」
「そうだったんですか……。僕ら、そんなことはしませんよ。ただ、自由に死体を見せて頂ければ」
「ならば観光客と共に入られよ。そうしない以上、やましい気持ちがおありなのでしょう」
「……まあ、棺の蓋を開けるくらいは、させてもらいたいですけど……」
「場合によっては、教団に持ち帰ることもあります」

リンクが口を挟む。途端に、マルテンは眦を吊り上げた。

「あなたは、大事な人の遺体を他人に好き勝手にさせられますか? 何とも思わないのですか」
「少女の亡骸を親元から引き離して見せ物にすることは、好き勝手とは言わないのですね」
「なんだと……?」
「大変勉強になります。尊厳の取り扱いについては我々も時代に則していかねばと思っていますので。是非見習いたい」

おお、とアレンが感心した目でリンクを見ている。
リーバーは、ふと振り返った。
は何をしているのだろう。
見れば、修道院に向かい来る一団があり、彼はそれを見つめているようだった。

「ああ、夜の騒ぎか」
「薬局通りの家だ」
「あれ? 馬車が引き返してきた……」
「知ってるか、朝、新しい警官が犠牲者を見つけたって」
「あのじいさんか?」
「外に出られない? 何を言ってるんだ」
「だから危ないって、何度も言ったのに」
「外の人に吸血鬼なんて言っても、信じてもらえないさ……」

通りの人々が噂する。
年配の男性に支えられて歩く若い女性に、見覚えがある。
昨晩の被害者の娘だ。
ネグリジェを抱いて泣いていた、彼女だ。
一行はおそらく、これから修道院で葬儀を執り行うのだろう。
空の棺を置いて。
その虚しさは、リーバー達ならばよく知るものだが、彼女には、余りにも酷ではないか。

「(それが、日常になっている町なら、なおさら酷だ)」

浮かぶような足取りでよろよろと歩む彼女の手には、吹き飛ばされた筈のあのネグリジェがある。
は、ただただ彼女をじっと見つめている。
門のところで繰り広げられるアレンやリンク、探索部隊達のやり取りを聞いてすらいないかもしれない。
彼女が不意に顔をあげた。
その褐色の瞳がを捕らえ、――彼の空気に囚われた。

「ああ、……ああっ……」

男性の手を解いて、女性は転がるようにに駆け寄る。
その足元に崩れ落ちて、彼の団服の裾を握った。
は慌てることもなく屈んで彼女を受け止める。

「ねぇ、なんで、止めなかったんだろう……なんで、私……窓なんて、いいよって……私ぃ……っ」

その後の言葉は言葉ではなかった。
呻き声は、嗚咽は、形を成さずに唇さえ閉じられないまま、だくだくと零れ落ちる。
それを全て拾い上げるように、彼は微笑んだ。

「……うん」

修道院から見渡せる道の、誰も彼もが、視線を、心を吸い出される。
動きを止める。
吸い込まれ、惹かれ、引き寄せられて、彼に触れたくて、掴みたくて、縋りたくて。
欲しくて。
自分だけのものにしたくて。
堪らなくなる。

「赦すよ」

落とされた一言。
喉の乾きを覚えて、リーバーはハッと我に返った。
無性に乾いて、渇いて、餓えている。
それほどまでに夢中になった自分に驚く。
この言葉は、「自分」に向けられたものではない。
誰もが驚いたような顔をして、直前までの自分の動きを模索した。
年配の男性が、いっそうの涙を溢す女性を引き取り、立たせる。
申し訳なさそうに、或いは震えながら歩き去る彼らを見送って、が立ち上がった。
此方を見て首を傾げている。
リーバーはようやく彼を凝視していた自分に気が付いた。

「あーいや、何でもない」

慌てて返せば、微笑みを向けられた。
ほんの数段上がれば、アレン達とマルテン神父が口論を再開しているのに。
の周りは、まるで祭壇の前のように静かで、厳かだった。
目の前を、子供達が通りすぎる。
修道士がついているところを見ると、彼らは孤児院の子なのだろう。
摘み取った花を持ち、黙々と喋りもせずに従っていく。
一人だけはぐれた赤い髪の子も、すぐに修道士に手を引かれて列に加えられた。
そうして意識が任務から逸れた、その時。
――とん、と腕に触れるものがあった。
と思ったら、袖がぐいと引っ張られる。

「ん? ――うおっ」

目を向ける。
だ。
どうした? その気軽な言葉を飲み込ませたのは、不穏な予感。
嗚呼、嗚呼、どうか杞憂であってくれ。
顔が見えない。
肩が痙攣するように震え、悲鳴のような吸気が聞こえる。

「お、おい、……?」
「……だいじょうぶ……」

――その言葉の何を信用できるだろう。
ぐしゃりと袖を掴んだまま、リーバーに凭れた彼が伝い落ちる。
ざあっと音を立てるように血の気が引いた。
一瞬を繰り返すたびに、彼の呼吸は不規則に跳ね、消え、引き攣って。
袖に縋り付く手は、痛みに殆ど硬直して力の制御がまるで出来ていない。
反対の手は直したばかりの団服を再び引き千切るようにこれでもかと絞り、握り締めて。
引き摺られるようにリーバーは屈んだ。
自分の袖だけが、今、彼の体を支えている。

「兄さん!?」

アレンの声が遠い。
それよりも、あまりに速く覚束無い呼吸が耳にまとわりつく。

、おい、しっかりしろ!」

金色は一度だけ目を開けて、漆黒に映した世界を諦めるように、ふうっと瞼を落としてしまう。
それだけで、その場の呼吸がひとつになる。
空気が強引に束ねられる。

「(……痛い……?)」

――血管の一本一本に酸を掛けられ食われ尽くすようなような痛み

「(痛い……痛、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い……!!)」

――肺を踏み躙られ、気管そのものを捩り切られ、胸に鉛を詰め込まれるような苦しみ

「(痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛い痛い、痛い)」

――胴体の中身を引きずり出してしまいたい、否、引きずり出されるような吐き気

「(痛い、ごめん、しなないで、しなないで、痛い、痛い、痛い、ごめん、痛い、痛い、痛い……)」

バクバクと止まない動悸、身体中をびっしりと埋め尽くす鳥肌。
気付けば、リーバー自身が息を切らせて喘いでいた。
此方に視線を縫い付けられている人々は、一様に顔色が悪い。
きっと自分も彼らと同じような顔をしている。
意識を引き戻したのは、リーバーに凭れる身体の頼りなさだ。
腸を脅かすような、肌の冷たさ。
じとり、じわり、滲む汗。
掛かる重みがずっとずっと増していく。
脈をとっても、自分が動転してしまってよく分からない。
よく分からないという程度に、弱い。
ドクター、とつい口を衝いたが、此処は任地。
の主治医はいないのだ。

「――どうされました!?」

だから、傍で聞こえた知らない声に思わず縋った。
通りから走ってきたらしい白衣の男性が、リーバーの横に膝をつく。
胸元で揺れるロザリオを鬱陶しげに払い、膨らんだ黒い手提げ鞄を地面に置いて。
男性は即座にの団服に手を掛け、やや乱暴に襟を緩めた。

「きみ! 聞こえますか? 目は開けられる?」

応えは、無い。
否、首が緩く一度、横に振られたような気がした。
浅く、速く、消えるような喘ぎ。
ぐったりと項垂れる首筋に触れて、それから白衣の男性はリーバーを見た。

「彼には持病が?」

手元は、揺れる飾りに苦戦しながら釦を外している。
リーバーは咄嗟に表情を取り繕い、頷いた。

「え、ええ」

厳密には違う、なんて話をしている時間はない。
それにまさか、ここで大っぴらにイノセンスの話をするわけにもいかない。
この男はどうやら医者らしい。
流れるような素早さで、釦の隙間から服の中に聴診器を潜り込ませた。
ぴたりと動きを止める。
ほんの数秒の出来事だ。
少し手を動かして、また数秒。
男性は頷き、毅然と立ち上がった。
リーバーへ告げるように、或いは、見上げた先のマルテンを見据えるように。

「私はハウゼン、修道院勤めの医師です。彼を中へ。……宜しいですね、神父様」









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