燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
迸る情熱が埋め尽くす
空洞だった身の内が
例えば喜びに
或いは悲しみに
隙間なく満たされて、ようやく
溢れた想いは雫となって
頬を伝い落ちるのだ
Night.104 浄めの儀式
風の強い夜だ。
リンクは襟を直すのを諦め、立てた。
微かな月明かり。
疎らな街灯。
僅かな光すら眩く返す黄金を追って、駆ける。
行き先は、リーバーを担いで走るしか知らない。
エクソシストの運動能力は概して人間離れしている。
戦闘員でないリーバーを安全に迅速に連れていくなら、担ぐ方が話が早い、それはまあ分かる。
しかしあの痩身のどこにそんな力が秘められているのやら、まったく。
兄弟子に遅れず着いていくアレンは、窓から飛び降りる際も一切の躊躇いがなかった。
行き先さえ知らされていないというのに。
――誰かが死んだ――
のあれは、言ってみればただの「勘」だ。
問いかけに即答したように、アレンの目は反応していなかった。
結界の可能性を勘定に入れても、自分の感覚よりもただの勘を信じたというのか。
信じられるのか。
いや、リンクだって、ルベリエの言葉なら疑いも抱かず従っただろう。
リンクが今こうして文句も言わず着いていくのは、手提げランプの明かりが通りの向こうに見えるからだ。
暗い町だからこそ、壁を煌々と照らす明かりはとにかく目立つ。
何事かあったのは確かなようだ。
そうでなければ、こんな第六感をそうそう信じるわけにはいかないかった。
探索部隊の二人が無事追い付けると良いのだが、果たして。
「声が聞こえます!」
そう報告するアレンが、ティムキャンピーの羽ばたきに気付いて視線を移した。
「あれっ? ちょっと、リーバーさん、大丈夫ですか?」
担がれ運ばれるリーバーは、青褪めながら頷いたのかもしれない。
体が揺れるたびにガクガクと動いているので、本当のところは分からないけれど。
ティムキャンピーが必死に顔を扇いでやっている。
器用なゴーレムである。
住民を必要以上に刺激しないよう、騒ぎの手前で三人は足を止めた。
ようやく下ろされたリーバーは、走ってもいないのにゼーゼーと喘いでいる。
食後にこんな目に遭うなんて、あまりに不憫だ。
悲鳴のような泣き声と、住民達のざわめき。
自分達と同じように、野次馬が町中から集まってきているのが分かった。
それに紛れて、騒動の様子を窺いながら、四人は駆け足で近付く。
ぐっ、と空気を引き締める圧力は、リンクの同行者である黄金から放たれた。
修道院で感じたものとはまた違う。
空気は意思を持って、注目を促す。
静寂。
集まる視線。
奪われる、呼吸。
その場の時を止めて、彼は問い掛ける。
「何事ですか?」
吸い出された魂を再び押し込められたように、唐突に興奮状態を取り戻した住人たちは、口々に訴えた。
「お、お母さん……ぁあ、あああ!!」
「吸血鬼の仕業だ!」
「ああ、どうしてこんなことに……!」
「今月でもう何人目だ!?」
「鉢植えを固定しに、外に出たらしい」
「最近はやたら酷いな……」
「夜は危ない、アンタ達も気を付けなさい」
「町内会でパトロールするか?」
「やめとけ、こないだそれで警官が皆殺しになっただろう」
「このまま黙っていろというのか!」
「気を付けていたのに」
「子供達は家にいるんだろうな?」
「まだ吸血鬼が彷徨いているかもしれない!」
「――あんたら、それらしいモノを見なかったか!?」
首を振って住民への返答に代える。
背後から、足音。
探索部隊二人のものだ。
リンクが振り返りそれを確認する間に、エクソシスト達は人混みをすり抜けて、泣いている女性に近付いた。
ネグリジェらしき色の暗い服を抱き締め、膝をついて声をあげて泣く女性。
その膝元には、風に巻き上げられる砂状の物が確認できる。
「か、監査官」
躊躇いがちにリンクに声を掛けたのは、長身の方の探索部隊員、ヘルメスだ。
目を向けて発言を促す。
「ここに来る途中、修道院の一団を見たのですが、その、」
「……なるほど、かち合うと余計な揉め事を起こす、と」
ヘルメスが必死に首を縦に振り、やっと持ち直したリーバーが渋い顔をした。
「現地の協力が得られないってのは、やり辛いもんだな」
エゴールがに駆け寄って同じことを耳打ちしている。
振り返る彼と目を合わせ、頷き合う。
リンクたちは揃って速やかにその場を離れ、路地へ身を潜めた。
「通して。道を空けなさい!」
昼間の若い修道士が、大きな身振りと共に呼び掛ける。
四人の修道士が続き、最後尾を背の高い老紳士が歩いてきた。
「神父様だ」
「マルテン神父!」
「ああっ、神父様……!」
若者達がいち早く振り返って声をあげ、拝むような、或いは熱を帯びた視線を投げている。
隣に潜むが小さな声で呟いた。
「マルテンって……ちょっと『マルコム』に似てる」
「ぷふっ……」
ティムキャンピーを襟元に引き込んだアレンが吹き出した。
リンクは足元に屈んだ二人の頭を小突く。
リーバーが極限まで声を潜めて叱った。
「こらっ、お前ら!」
それでもまだてへへと笑い合う兄弟弟子に頭が痛くなる。
「(まったく、クロス・マリアンの弟子達ときたら!)」
このふざけた態度、絶対に長官に報告してやる。
「ダリア、気の毒に……」
そのくせ二人はリンクより早く、集団の中心へ目を移していた。
マルテン神父と呼ばれた老紳士が、遺族らしき女性の傍に膝をつく。
あれが、報告書にあったこの修道院の長。
ランプに照らされるのは皺の刻まれた顔で、鷲鼻と、仮面のような無表情が印象的だ。
抑えた表情は、被害者の遺族を存分に悲しませてやるためなのだろう。
そう分かっているのに、見慣れた黄金との差異に、若干の戸惑いを覚えた。
「(私も相当毒されているな)」
神父が女性の肩を抱き寄せてやると、彼女は崩折れるように座り込み、いっそう体を震わせる。
委ねられた身を丁寧に抱き止めて、マルテン神父は目を上げた。
「さあみんな。ダリアに、弔いを」
修道士達は口々に祈りの言葉を続けた。
一糸乱れぬ、とまではいかない、重ならない追悼。
住民達はざわめきを残しながら、一人、また一人、各々が手を組んでダリアなる女性の不幸を嘆いた。
さしあたっての弔いを終えて、家に子供を残してきたという住民が帰っていく。
残った者達は、風にさらされ申し訳程度にしか遺されなかった砂を手でかき集めていた。
修道士達は、その周りでいまだ祈祷を続けている。
中心で神父に支えられた女性は、完全に脱力していた。
俯いた顔から、前髪の向こうから、ぼたぼたと涙が垂れている。
弛んだ手から舞い上がったのは、母親の形見となったネグリジェだった。
あ、と誰かが手を伸ばす。
濃い色のネグリジェは、風に煽られて隣家の塀に引っ掛かる。
息を飲む音が、下の方から聞こえた。
アレンが顔を動かす。
「兄さん?」
「なんでもない」
壁に手をついて、ふらりと立ち上がったが緩く微笑んだ。
「見回りにでも、行こうか。ここの警察の代わりに」
「あっ、……今なら、修道院も手薄かもしれません」
ヘルメスが呟いた提案に、皆が同意する。
少なくとも長である神父を含め、六人もの修道士が外出中だ。
足音を殺しながら夜道を駆けていくと、途中の道端に持ち主のいない服が一揃い落ちていた。
思わずといったようにリーバーが足を止める。
リンクの側をティムキャンピーがすり抜け、が金色のゴーレムを追う。
屈んで彼が摘み上げたのは、路上生活者の物らしき草臥れたズボンと上衣だ。
「被害者、ですかね」
「多分。まだ誰にも気付かれていないだけで」
アレンが側に寄って腰を屈めた。
「夜は危ないって、知らなかったのかな……」
「うーん、そんなはずはないと思うけど」
「十四年前に夜間の外出禁止条例が出されています。住民ならば、既知のことであったかと」
兄弟弟子に、エゴールが答える。
否、正確には、彼は「に」答えたのだろうが。
「じゃあ、余所から流れてきた人、とかかな」
「誰か教えてあげればよかったのに……」
悔しそうに言いながら、アレンが手を合わせた。
が労るように衣服を元に戻し、目を伏せた。
彼の口許には穏やかな微笑み。
それを認識して、否、する前から、空気が変わる。
ぐい、と目を引き付けられる。
惹き付けられる。
荒れ狂う強風さえも、頭を押さえ込まれて沈黙する。
「主よ、彼に赦しを」
今、彼に「そう」するつもりはないだろうに。
「……急ごう。彼らが戻る前に」
その弔いは一瞬の出来事だったが、畏怖を刷り込むには十分すぎた。
黒の教団はことあるごとに繰り返し繰り返し、「神様」を植え付けられるのだ。
リンクだってそうなのだから、他のメンバーは如何程だろう。
マルテン神父達の弔いは、他の四人にはどのように見えていたのか。
「(恐ろしいシステムだ)」
けれど同時に、経費もかからず捨て駒を作り上げるには最適なシステムでもある。
神が命じればよいのだ、「死ね」と。
しかもこの神は、先頭切って死にに行く。
背中を見せて「着いてこい」と彼は言う。
限定的とはいえ教義を覆す「神」の存在。
中央庁が黙認してきたのは、その信仰を利用するためだ。
それに。
「(……恐ろしい人間だ)」
中央庁側に魅せられた者がいることも、確かだった。
「神の寵児」に近付けば、神の覚えもめでたくなる。
「教団の神」を手に入れれば、神に近付くことができる。
その御身を我が物に、その恩恵を我が身にも、と。
得体の知れない存在、そう言って遠ざけるルベリエの方が少数派なのだ。
崇拝、憧憬、畏怖、情欲、愛、希求、渇望、嫉妬、嫌悪、忌避。
綺麗なだけではない。
感情は入り雑じって、澱みながら襲い掛かるのに。
彼は、纏わりつくそれらを余さず飲み込んで、飲み下して、それでいてなお清らかに微笑むのだ。
「っ、止まってください」
先導するエゴールが、後ろを制した。
建物の陰から修道院の入口を窺うと、門番のような二人の修道士が辺りを見張っている。
「これじゃあ裏も無理かな……こんな厳重警備の修道院なんて、聞いたこともねぇよ」
最後尾でが呟いた。
非戦闘員が見える位置にいた方が守り易いと、兄弟弟子は殿をつとめている。
「あれ? あの人、昼間の人ですよね?」
アレンがひそひそと、早口で囁いた。
リーバーが頷く。
「本当だ。確か、あの女の子の母親……まさか朝まで此処にこうしているのか?」
暗がりで見えにくかった。
修道士の足元に、老婆が座り込んでいる。
「誰、なんですか?」
昼間の顛末を知らず首を傾げたヘルメスに、が答えた。
「朽ちない死体の母親らしいよ。三十年、毎日通い詰めてるんだって」
「三、十、年……」
恐らく書類の不備を気にしてのことだろう、エゴールが呻く。
が苦笑して、その肩を叩いた。
「もう……知らなかったのは仕方ないだろ。これまでは追い返されてたんだからさ」
リーバーが難しい顔をして呟いた。
「しかし、こんな風の日だぞ。せめて中にいさせてやればいいのに」
「そうですね……」
老婆、ポーラは石段に座り込み、俯いている。
頭上で修道士達が交わす会話も気にせず、ただ、ぼうっと。
風が吹き、過ぎる。
顔を上げたポーラが不意に此方に目をやった。
「(気付かれた)」
身構える。
けれど彼女はリンクの焦りなど知らぬまま、一言も発さず、何事もなかったようにまた俯いた。
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