燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
その木陰に、匿われた
満開の花が世界を鮮やかにした
根本は寄り掛かるあの人を
優しく温かに受け止めてくれた
その幹の内側は既に蝕まれ
膿んで、朽ちて、ぽっかりと
空洞になっていたのに
Night.103 大樹が折れるまで
「はい、兄さん」
頬をパンパンにしたアレンが差し出す小さな丸ドーナツを、が苦笑して受け取った。
よく食べるなぁ、とヘルメスはひとつ年下の少年へ思う。
自分はアレンより背も高く体の厚みもあるけれど、あそこまで食べたりはしない。
修道院を出た四人と合流した後で、一行は地図を片手に町の中を散策していた。
なにせ、朽ちない死体がアクマかどうか、判別ができなかったそうなのだ。
エゴールがアレンへ険しい眼差しを向けていて、ヘルメスの方が思わずたじろいだ。
それはそれとして、安全性が確認されたわけではないということは分かった。
ならばアレンの目が阻害されているのか、本当に危険がないのかを精査しなければならない。
「リーバーさんもどうぞ」
「サンキュ。……おっ、美味いな」
「味がたくさんあるみたいですよ、こっちはレーズン。そうだ兄さん、これなんですけど」
「いや、いい、そんなに腹減ってないよ」
「いいんですか? 林檎入ってるのに?」
「えっ……」
が反射的に固まって、渡されるがままに林檎入りドーナツを受け取る一部始終を見てしまった。
笑いそうになったヘルメスと無表情を貫くエゴールに、アレンが控えめな笑顔を向ける。
「あの、二人もよかったら」
ヘルメスは、迷った。
「結構です」
けれどエゴールが先んじて首を振る。
頑なに感情を乗せない声で言った。
「どうぞエクソシスト様方でお召し上がりください」
「エゴール、……お前なぁ……」
リーバーが苦い顔をする。
科学班班長は、きっと知っているのだ。
時に折り合いの悪い科学班と探索部隊。
その中でもエゴールは、本来、両者の仲を取り持てるくらい穏やかな人柄なのだと。
「(……憎しみ、なんだろうな)」
千年伯爵へ、アクマへ、ノアへの。
憎悪が、人格をメキメキと歪ませる様子を、たった今、目の当たりにしている。
――ウォーカーは、食べるのが本当に好きだよなぁ――
以前エゴールがそう言って笑っていたことを、ヘルメスは覚えているから。
五つ歳の離れた先輩を諌めることも出来ず、それ以前に自分はどんな立場にあればいいのかも分からない。
もやもやした感情に苦く顔を歪ませたヘルメスの耳に、さらりと割り込んだ声がある。
「そうだな。好みもあるだろうし、」
ドーナツを少しずつ噛りながら、が微笑んだ。
その漆黒に――腹の底から凍りついた。
「お前が食べればいいよ、アレン」
空気はどこまでも柔らかだった。
温かな空気が朗らかな微笑みが心を包む。
けれど、彼の瞳が此方を射抜く。
呼吸を奪われる。
「(かみ、さま)」
――見透かされた
――アレン・ウォーカーへの敵意を
――「彼」の弟弟子に向けられた悪意を
――見抜かれた
ぞわりと肌が粟立って、凍り付いた胃が痙攣したように震える。
冷や汗が垂れる。
彼はただ、微笑んでいるだけなのに。
優しい笑顔、いつもならこの笑顔に脇目もふらず駆け寄って縋り付いて離れたくないと感じるのに。
いつもなら、この笑顔を自分達だけで独占していることに優越感すら覚えるだろうに。
今は。
「(……かみ、さま)」
お赦しください、そう叫ぶことすら躊躇する。
何故?
そんなことすら、もはや「赦されない」と感じるのは、どうして?
その理由を、ヘルメスは自覚していた。
この後ろめたい気持ちを見透かされていると、思ってしまったから。
心当たりが、あったからだ。
「(かみさま)」
彼は、何も核心に触れてはいないのに。
触れられたら見放される自覚があるから。
そしてこの人は、自分達が神と仰ぐこの人は、いとも容易く心のうちに触れてくると、知っているから。
ヘルメスだけではない、リーバーも、リンクさえ真っ青だ。
「じゃあ、遠慮なくいただきますね。……リンクももういっこ食べる?」
その中で肩を竦めて笑ってみせたのは、神の庇護を受けたアレンだった。
ヘルメスはそっとエゴールを見遣る。
意外なことに、彼は頑なに表情を崩さず、ただ宙を見つめていた。
二番通りの宿。
探索部隊の二人がとったこの宿はかなりの良宿とみえて、階下の食堂の食事はとても美味しかった。
アレンはまだ居座るようなので、リーバーは二人分の紅茶を持って先に階段を上がる。
随分前に食事を切り上げたが、一人で部屋にいる筈なのだ。
出立前、アジア支部でリーバーを呼び出したバクは、困った顔でこう切り出した。
「『薬』を使ってくれないんだ」
寄生型エクソシストのための、薬。
コムイ経由で耳にはしている。
ようやく、先の任務から帰還したがドクターに手渡した物の正体に思いが及んだ。
「使うような状況でないなら、それでいいんだが……なあ?」
「そう、っスよねぇ」
彼が同意を求めるのも分かる。
今回も出がけにドクターから同じ小瓶を手渡されたは、渋い顔で腰のポーチにそれを押し込んでいた。
使うような状況、であることは確かだ。
現にコムイから、「四時間後」という集合時間はドクター・ヒリスから提示された条件なのだと聞いていた。
アジアでの戦闘のダメージが抜けきっていないという。
昨夜もドクターとウォンが一晩中手を尽くし、夜も明けきった朝、ようやく容態が落ち着いたそうだ。
「先程ようやく眠ったばかりです。……せめて三時間でも休ませて、診察してからではいけませんか」
先日ドクターを怒らせたばかりの室長とアジア支部長は、一も二もなく頷いたらしい。
それでなくとも、最近のは心身ともにどこか不自然だ。
その件だけで室長の眉間に皺が刻み込まれてしまうくらいには「迷惑をかけないこと」に固執している。
「教団の神様」は変わりなく、以前にも増して団員の心を包み、支えているけれど。
「『兄貴』の言うことなら、……なんてな。しかしリーバー、冗談抜きで、もしも可能なら」
それとなく促してやってくれないか。
バクの言葉を頭の中で繰り返し繰り返し弄びながら、部屋の戸をノックする。
返事を待たず開けると、窓際の椅子に毛布の塊があった。
あれは? 侵入者か? は何処に行った?
慣れない任務に過敏になった神経が騒ぎ出す。
紅茶のカップが邪魔で、ジャケットの内側に手を伸ばせない。
塊がもぞ、と動く。
身構える。
毛布の中から、にゅっと黄金色が覗いた。
だ。
「うわっ、なんだ、お前か。ビックリした……」
「ん、兄貴だけ?」
がきょとんと瞬きし、首を傾げる。
リーバーは椅子の前のテーブルに持ってきたカップを置いた。
「飲むか?」
「ありがとう。皆は?」
「まだ下にいるよ。それよりどうした、その毛布。寝るならベッド行った方がいいぞ」
「ううん、ちょっと寒かったから被ってただけ。湯冷めしたかなぁ」
笑いながら、彼は毛布から器用に手を出して、両手で包むようにカップを握る。
「シャワー、先に使ったから。兄貴も使えば? それで少し寝といた方がいいよ。眠れるうちにね」
そう言う彼の向かいの椅子に腰を下ろして、リーバーは自分の紅茶を啜った。
「お前こそ戦闘員なんだから寝ておけよ。今ならオレも起きてるし」
「俺はいいの。……何その顔。任務のときは寝られないよ、ピリピリしちゃって」
指先を温め終わったのか、がカップをようやく口に運んだ。
リーバーはもう少し追及しようとして、しかし踏みとどまる。
「……まあ、任務に関してはお前の方がベテランだからな」
バランスが大事だ。
最近のコムイは、そのあたり頓に慎重に敏感になっている。
自分も倣うべきだろう。
が満足そうに頷いて、細く息をついた。
吹き過ぎた風が窓を揺らし、漆黒の眼差しがすい、と流れる。
リーバーはそれを追って外を見遣った。
外開きの大きな窓だ。
「暗い町だな」
昼間の様子とは打って変わって人通りの無い町並みは、街灯の数より遥かに暗く見えた。
この町はまだガス灯を使っているようだが、手入れの方はすっかりだ。
等間隔のガス灯はしかし、規則的な火の点し方をしていない。
おそらく整備不良なのだ。
「うん。話には聞いてたけど、本当に誰も歩いてない」
この町には、夜の灯りは必要ない。
使う人がいないのだから、灯りの有無になど誰も頓着しない。
猫さえ通らない夜の道をは飽きずに眺めている。
リーバーはそんな彼を窺うように盗み見た。
顔色は悪くない、ように見える。
寒いと言ったが、熱を出してはいないだろうか。
じ、と見つめていたからか、が瞬きをしてリーバーへ目を移した。
「なに?」
「ああ、いや」
考えていたことをそのまま言うのも憚られ、けれど向けられた問いを放り出すことも出来ず。
気紛れに紅茶を一口、リーバーは頭を掻く。
「……エゴールのことだけどな」
今は二人しかいないから丁度いい。
そう思って切り出した話題は、少し気まずい。
がつられたように紅茶を口にした。
「お前はやっぱり、気分よくないだろうけどさ。……あいつにも一応、事情があってな」
ぽそりぽそり、気兼ねしながら絞り落とす声に、が首を傾げる。
「ん? 何の話?」
「ほら、えーっと、ドーナツ食ってたとき」
「……ああ」
合点がいったようで、彼はふふ、と笑みを零した。
「『そんな風』に見えてたの? 俺が怒ったみたいに?」
リーバーは拍子抜けして、つい熱いままの紅茶を飲み込んでしまった。
「熱っ! えっ、あれ、牽制じゃなかったのか?」
「違うよ……あはは、そう、……エゴールは気にしてるように見えなかったのに、兄貴が? ふふふ」
カップを置いて、彼は毛布を手繰り寄せた。
楽しそうに笑いながら二、三度咳き込む。
「噎せたじゃん……。俺だってさ、エゴールのこと、知らないわけじゃないんだから」
「そ、……そりゃそうか」
言われてみれば、そうだ。
エゴールはより早くに入団し、生き残っている古株である。
当然だって、これまでに組んだことのある相手だ。
「あれは向こうも他意がなかったんだろ。単純に、アレンの方がよく食うからああ言っただけだよ」
にこり、眼差しの軽やかさに、その声の気安さに。
リーバーは彼に決して悟られぬよう安堵の息をつく。
「寧ろエゴールはいくらでも言葉を飾れたはずなのに、そう言わなかったのが『らしい』っていうか……ね」
それからは、愛しそうに愛おしそうに目を細めて、微笑んだ。
「面白いよね。『憎い』と『嫌い』は、別なんだ」
ゾッとする。
「(?)」
秘め事のように囁かれる言葉が、リーバーの肌を舐める。
それは夕方に感じた、神に見放されたような気持ちとは違う。
人間を「種」として認識するようなその言い回しに、どうしようもなく鳥肌が立って。
思わず震え上がって。
――待ってくれ
一瞬、彼の姿が遠ざかり揺らいだ。
でも、そんなの御免だ。
リーバーにとってはいつまでも「弟」なのだ。
完成した手製のトランポリンを前に、きらきらと此方を見上げてきたあの日のまま。
そのままでいさせてやりたいのだ。
だから、何とか弟分を手元に引き戻したくて、口を開いた。
刹那。
「――ッ!!」
が目を見開く。
空気が変わる。
立ち上がる。
放り捨てられる毛布。
窓を開け放ち、彼は険しい顔で外を見た。
息を飲み込んでしまったリーバーは、ただならぬ様子に、やっとのことで呼吸を取り戻す。
「どっ、どうした?」
反対側からは、扉の開く音。
強風が部屋を抜け、ティムキャンピーを煽る。
キミは本当に食べ過ぎなんです、そんなこと無いですリンクだって甘いものばっかり、などと。
監査官と朗らかにやり合うアレンが「ただいま」と言う前に、が叫んだ。
「アレン!」
視線は窓の外に向けたまま。
「お前、何か感じたか!?」
一言目こそ不可思議な声を発したアレンだったが、そこは流石にエクソシストである。
すぐに事態を察したようで、真っ青になって素早く首を振った。
「いいえ……っ!」
が舌打ちをする。
リーバーの肩を掴む。
「アクマですか!?」
アレンが大股で窓に駆け寄る。
追うリンクも眉間に皺を寄せる。
「分からない。でも、」
流れるような動作で、がリーバーを担ぎ上げる。
「――誰かが死んだ」
何故彼がそれに気付けたのか、それは後回しだ。
アレンに問うた、つまり下手人はアクマである可能性が高いということ。
更にアレンがその存在に気付かなかった、となると。
部屋の入り口で顔色を変える探索部隊員達。
ちら、と目を向けて、金色は小さく微笑む。
「俺達を追ってこられる?」
「はっ……はいっ」
エゴールが何とか捻り出した答えに満足げに頷く。
が窓から身を乗り出す。
そこでリーバーは、ハッと気付いてしまった。
なぜ担がれているのだろう。
「んっ? おい、?」
「じゃあ、先行くよ。――兄貴、歯、食い縛って」
「歯ぁっ!? うっ、待てっ、ちょっ――」
歯を食い縛れと言われても、突然、建物の三階の窓から地面へ飛び降りるなど此方は初めてなもので。
「嘘だろぉおおあああああっっ!?」
ありがたい忠告は、さっぱり役に立たなかった。
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