燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
つり合うはずもないと
分かっていながら望むことほど
憐れで虚しいこともない
可能性を信ずる青い季節は
遥か昔に過ぎ去った
Night.100 沁み込むまで何度でも
「兄さんとの任務って、初めてかも……」
アレンは兄弟子の団服を抱え、ふと呟いた。
隣を歩くリーバーが、顎に手を当てて宙を仰ぐ。
「確かに……言われてみればオレらも話を持ってった覚えがないな」
「だからこんなこと言うの、不謹慎かもしれないですけど、」
えへ、と照れ隠しに頬を掻いた。
「ちょっと、ドキドキします」
「不謹慎ですね」
「分かってるってばー!」
間髪入れずに後方から声が飛んでくるものだから、アレンだって言い返す。
リンクは料理本から目を上げずにすました顔だ。
今日の料理本の著者もやはり、マルコム・C・ルベリエ。
きっと世界一の愛読者なのだと思う。
「オレは任務自体が初めてだよ……うっ、心臓が出てきそう」
リーバーが長い溜め息をついた。
昨今、科学班のメンバーが任務に同行するようになったが、今回はなんと班長である彼が選ばれた。
仕事の合間、今動ける班員が彼くらいしかいなかったことが抜擢の理由だそうだ。
「こないだ怪盗Gの時来てくれたじゃないですか」
「いや、あれはノーカウントだろ。ジジ達を引き取りに行っただけだしな」
話しながら、三人は方舟に入る。
この行為も、もう随分慣れてきた。
同行する探索部隊二人は、とっくにアジア支部へ行ってしまった。
一応、急いで追いかけてはいたのだ。
どうも足が、気が進まないだけで。
アジア支部へ行けば、兄弟子がいる。
に会える。
それはいい。
けれど。
リーバーがアレンの肩をポンと叩いた。
「(いけない)」
緊張しているはずのリーバーに、心配をかけるわけにはいかない。
アレンは、笑顔で肩を竦めてみせた。
「やあ、ウォーカー」
「よっ! 待ってたぜ」
「こんにちは、二人とも」
出迎えてくれたのは、バクとフォーだ。
バクがぱちりと目を瞬かせた。
「そうか、リーバー。君も行くのか」
「ええ。つい四時間前に決まりまして……」
肩を落として、緊張を隠さずに答えるリーバーへ、バクが笑いかける。
そのまま、ちょっと来てくれ、と彼を連れていった。
アレンは二人を目で追う。
優秀な科学者達だ、最新の研究の話でもあるのだろう。
つい、と団服の裾を引かれた。
「ほら、あたしらは行くぞ。その団服、届けるんだろ?」
「あ、そうだった」
「お前は誰かさんと一緒ですーぐ迷子になるからなー」
笑いながら先導するフォー、後ろからリンクの足音が聞こえる。
相変わらず複雑な造りの建物だ。
ねぇ、フォー。
アレンはそっと呼び掛けた。
「兄さんは、大丈夫?」
彼女は肩越しに振り返った。
「そっか。お前と話して、そのまま別れてきたんだっけ」
「うん」
あの日、司令室へ向かったは、本部に帰ってこなかった。
それどころか、アレンと談笑していたドクターに緊急の呼び出しがかかったのだ。
呼び出された先はなんと、アジア支部。
そのまま大慌てで鞄に荷物を詰め込み飛び出したドクターを見送って、それきりだった。
あのドクターがあそこまで冷静さを欠いた顔をしたのを、アレンは初めて見た。
「……まあ、ドクターがゴーサイン出したんだから、大丈夫なんじゃねぇの?」
「う、うーん……」
二人してむぅ、と顔を顰める。
先に切り替えたのはやはり、フォーだった。
強い力で背を叩かれる。
痛い。
恨めしい目で見つめると、フォーは眉を下げて笑った。
「サポート頼むぞ、『弟弟子』」
「(そうだった)」
方舟で、アレンはと約束したのだ。
フォーに、兄弟弟子だということを見せつけなければ、と。
それを思い出したら、なんだか嬉しくなってきた。
「いや、サポートされるのは僕なんですけどね」
「二度寝してたら、いきなり任務だって起こされたんだ」
「それは、あの……すみません……」
「ん? 別にお前が謝ることじゃないだろ」
「いやぁ……あはは」
ベッドに腰掛け、やたらと芸術的で写実的なウサギ林檎を食す兄弟子は、元気そうにしていた。
それこそ、第三エクソシストと一悶着あったあの日よりも、ずっと。
「そうだ、これ。コムイさんから預かってきました。直ったよー、って。……丈の調整ですか?」
フォークを置いて、が嬉しそうに団服を受け取った。
「そんなとこ。背が伸びてるのはお前だけじゃないんだからな」
「身長といえば、最近神田とラビがやたらと大きくないですか? 神田に見下ろされるの、癪です」
「うわ、ああもう、それせっかく忘れようとしてたのに……」
ドクターが部屋を片付けながら笑っている。
リンクは扉付近で我関せず。
フォーが怪訝な顔でを見上げる。
「丈直すほど伸びたっけか?」
「伸びたよっ。フォーはいつも俺を見上げてるから分かんないだけ」
「ふぅん?」
「それより、」
疑わしげな視線に、があからさまに目を逸らす。
「アレン、資料読み上げてもらっていいか? 着替えながら聞くから」
「分かりました」
先程任務だと聞いたばかりなら、それこそ内容など知らされてもいないだろう。
アレンはのために持ってきた資料を捲る。
「どうも、今回は奇怪が二つ重なってるらしくて。ちょっと複雑そうです」
「二つ?」
「ええ。『朽ちない死体』と『吸血鬼伝説』なんですけど……」
ふと気付いて、顔を上げた。
「そういえばクロウリーもそうだったなぁ。よくあるんですかね、吸血鬼伝説」
「いやいや、そんなにあちこちに吸血鬼がいても困るだろ」
フォーの突っ込みはもっともだ。
兄弟弟子は神妙に頷く。
けれどその後では小さく肩を竦めた。
「でも、アクマに殺されて砂になる様は、吸血鬼を連想させてもおかしくはないよな」
今度はアレンとフォーが、息を零して頷く。
それで? と続きを促され、アレンは書類に指を滑らせた。
「はい。場所はオランダ、クラウシンハ……」
ガシャン!
突如響いた金属のけたたましい音に、アレンは思わず息を飲む。
ティムキャンピーが驚いたように跳ねる。
言葉は捩じ切られ、代わりに音源へ部屋中の視線が集まった。
リンクさえ料理本から目を上げた。
医療品をトレーごとぶちまけたのは、ドクターだ。
誰もが驚いている中、一人ふらりとその場に座り込んでしまう。
穿きかけのズボンを手早く整え、が彼の脇に膝をついた。
「どうしたの、ドクター。……調子悪い? 大丈夫?」
ドクターは差し出された手に目もくれない。
ただただ金色を茫然と見上げて、呟いた。
「……故郷だ……」
「え?」
「そこは、私の……故郷だ」
空気がざわり、と毛羽立って、喉ごしを変える。
がドクターの手を取って立たせ、側の椅子に座らせた。
「ヒリス先生、」
それは厳かに、それは冷ややかに。
役目に徹するために研ぎ澄まされた声色が、背を撫で上げる。
ドクターだけでなく、フォーも、リンクも、全ての目が黄金を見つめる。
「話して」
自然と姿勢を正して、アレンは唾を飲んだ。
私が子供の頃の話だ。
評判の美少女姉妹がいたんだよ。
学校どころか、彼女らは町中で有名人だった。
それこそ新聞に載っているような、舞台の看板女優達なんかよりもずっとね。
大人も子供も、みんなが二人を愛していたし、誰もが二人に恋していた。
「ドクターも?」
……私? はは、そうだね。
例に漏れず、憧れていたよ。
ただ、ちょうどあの頃の私は隣の家の女の子に夢中で……ごほん。
そんなわけで、私は彼女らから少し関心を逸らしていた時期でもあったんだ。
姉妹の年は、私より少し上と、少し下、だったかな。
もう大分うろ覚えだが……。
「その姉妹が『吸血鬼』なんですか?」
「伝説の吸血鬼ってのは、だいたい見てくれがいいもんだよな」
いや、彼女らは吸血鬼じゃない。
『死体』の方だ。
「……『朽ちない、死体』……」
「……じゃあ、二人とも、もう、」
ああ。
不幸な事故だよ。
……ああ、「そう」だったと記憶している。
修道院の禁域に泉があるんだが、二人ともどうしてだか、そこで足を滑らせたらしい。
間をあけず、立て続けにね。
一人の死体は揚がったが、もう一人は見付からず終いだった。
いや、分からない。
私が町を出てから、発見されたかもしれないが。
「そう。……見つかってると、いいけどね」
「ドクターは、その死体を見たことがあるんですか?」
あるよ。
死体は修道院で祀られているから。
観光スポットでもあるからね。
私は一時期、修道院で医術を学んでいたし、身近なものだった。
まるで本当にまだ生きているようで。
実は聴診器を当てて確かめてみたいと何度か思ったんだけど、さすがに勇気は出なかったな。
「吸血鬼伝説のことも知ってんのか?」
知っているよ。
それも、確か私が子供の頃から聞いた話だ。
夜に一人で出歩くと、吸血鬼に――いや……?
「ドクター?」
ああ……いや、思い違いだろうから……。
「いいよ、それでも。何か、おかしなことでもあった?」
……「伝説」は、そんなに古いものではなかったような……。
いや、いや……少なくとも、私が子供の頃にはあったのは、確かなんだが。
両親の子供の頃からあったかと言われると、自信がないな。
「夜道を一人で歩くと吸血鬼に襲われる」……大人になっても馬鹿正直に信じていた。
大人達が信じていたし、何よりみんな「知っていた」。
親に反抗した時期だって、そうだ。
親と喧嘩して家を飛び出した悪ガキの、服だけが見つかるなんて話は日常茶飯事だったしね。
吸血鬼から逃げきれた人の話を、私は一度だって聞いたことがない。
暗い町だというわけではないんだよ。
けれど夜だけは、静かだった。
……刷り込みというのは、怖いものだな。
当たり前になってしまっていた。
たった今、アレンから町の名前を聞くまで、私は――
「……それが奇怪だなんて、思ってもみなかったんだ」
苦笑ぎみに呟いて、ドクターは溜め息と共に掌で顔を覆った。
隠し切れない震え。
アレンは微かに眉を下げる。
その奇怪がイノセンスであればあるだけ、アクマとの遭遇率も高くなるということ。
イノセンスでなければ、アクマの特殊能力である場合も多い。
どちらにせよ、任地はいつだって、元の状態ではいられない。
戦闘が起きれば、ティモシーのハースト孤児院のように建物が破壊される場合もある。
兄弟子達が行ったというハンガリーのように、町ひとつ、住民の多くが死んでしまう場合もある。
いっそ、奇怪は災厄だ。
イノセンス由来であれ、アクマ由来であれ。
ドクターは理解しているから、その恐怖を押さえ込もうと努めているだけで。
まだ何も知らぬ住民たちからすれば、荒療治と言うにも酷すぎる。
「お前らが奇怪の原因を突き止めれば、町も安全になるんだろ」
フォーが笑ってみせる。
アレンは目をパチリと瞬かせた。
うまくいくと、いいな。
そう思って、そう願って応える。
「……そうだね」
話を聞きながら着替えを済ませたが、アレンの言葉に大きく頷いた。
すっと屈んで膝をつき、ドクターの膝に手を置いて、指の隙間で揺れる瞳を優しい微笑みで掬い取って。
「大丈夫だよ、ドクター」
彼は、下ろさせた手をそっと握った。
「貴方の帰る場所は、俺達が守るから」
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