雷鳥 : 14
自分の無力さを、初めて思い知った夜だった。
掛けられた期待の重さに苦しむことはあれど、応えられないことはなかった。
まして、挫折など。
しかも相手が、この少年だなんて。
「オルニス、すまない」
少年が、すっかり変わってしまった琥珀の瞳でエゲルを見上げた。
その体の中には、ヒトの形を成さなかった「お母さん」で作り直したモノが収まっている。
およそ「内臓」と呼べる状態の箇所は少ない。
エゲルは使える部分を何とか繋ぎ合わせて、一応の形にすることしか出来なかった。
肺は片側を失い、胃は跡形もない。
臓器と臓器は歪な繋がり方をして、引き離すには太すぎる血管が両者を結んでいる。
本来収まるべき場所に無い部位もある。
「成功したとはとても言えない……まともに機能する保証がないんだ。でも、」
エゲルは言葉を絞り出す。
「オレの技術では、これ以上、出来ないと思う」
オルニスがゆっくり瞬いた。
「それでも一か八か、もう一度……腹を開いてみるか?」
禁忌に踏み込むほどの頭脳も、今は酸欠で朦朧としているだろう。
全てが、あまりにも変わりすぎてしまった。
少し落ち着いてからもう一度切り出そう。
そう思って、話をやめようとしたエゲルを、小さな声が押し止める。
「このまま、でも……生きて、いられる?」
「あ、ああ」
「なら、いいよ……先生、俺、」
掠れた声を聞き取るために顔を寄せると、強い意思の籠った言葉が染み渡った。
「死にたく、ないんだ」
三部屋が一続きの書斎になっている以外、取り立てて特徴の無い平屋の住居。
少しばかり他の家より大きく見えるが、とても軍将校の住む場所とは思えないだろう。
エゲルは家主に無断でヤカンを火にかけた。
勝手に戸棚を開け、紅茶の缶とティーセットを取り出す。
急ぐ必要も無い。
近くの秤を使って、几帳面に茶葉の適正量を量ってみたが、それでもまだ時間は余った。
昨日買って帰ってきたのだろう、紙袋の中から小さなパンを一つ失敬して、齧る。
どうせ、このパンが今日中に食されることはないのだ。
摘まみ食いを終えて、カップを一つ携えた。
台所から、居間へ。
そしてこの国では珍しい引き戸を開け、隣の部屋へ入る。
朝から続いていた呻き声は、やっと消えた。
銀色がベッドで身動ぎ、琥珀の瞳でこちらを見上げる。
「パン、あるよ」
「もう食った」
「早いな……」
エゲルは傍らの椅子に腰掛けた。
「まだ痛むか?」
「さっきほどじゃない」
「そうか。ならいい」
頷いて、紅茶を一口啜る。
オルニスがふう、と息をついた。
「ありがとう、来てくれて」
「おう。お前仕事どうするんだ、休めるのか?」
「一応、遅れるとは言ったけど……昼から行くかな」
早朝の電話では痛みに息も絶え絶えの様子で、エゲルも久し振りに汗をかくほど焦った。
それと比べれば、今は格段に快方へ向かっているようだが、全快には程遠い。
地位を勝ち取って、少しは自由も勝手も許される筈だ。
一日欠勤するくらい、あの優秀な副官が包み隠してくれるだろう。
けれどそうしないから、彼が彼で居られると、知っている。
軍の狗でありながら民衆の心を掴む理由は、きっとそこなのだ。
「無理そうならバイルに全部押し付けとけ」
「そのつもりだよ」
含み笑いをして、直後に痛いと呻いた彼の頭を軽く小突く。
その時、部屋の電話が鳴った。
体を起こそうとするオルニスを制して、エゲルが受話器を取る。
部下達に指示しているのか、ここに軍の回線で電話が来ることは殆ど無い。
今回も同様で、後ろから街中の喧騒が聞こえた。
「もしもし?」
『中央司令部の、デニー・ブロッシュ軍曹であります。ブリッツ中佐の命で……』
「あー……ちょっと待ってくれ」
振り返ると、あからさまに嫌な顔でオルニスが起き上がった。
「ブロッシュっつー軍曹。バイルの命令で掛けてるとよ」
「ああ……少佐の部下かな」
一息ついて立ち上がり、腹に手を当てたまま彼は受話器を取る。
表情は変えないまま、器用に声だけを引き締めた。
「アドラーだ。……ああ。バイルはどうした?」
暫くの会話で、オルニスが頷いた。
エゲルは紅茶を飲み干し、台所に引き返す。
カップを軽く洗って部屋へ戻ると、丁度電話は終わったようだった。
溜め息をつく彼と目が合う。
エゲルは肩を竦めた。
「何処だ、送るぞ」
「……頼む」
普段の出勤は歩いて行くのだと、以前聞いた。
それを日課にしたいがため、家を選ぶ際に彼が最も拘ったのが司令部までの距離だった。
エゲルには軽い散歩にもならないが、オルニスにはこれが適切な距離だろう。
他でもない、エゲル自身がそう助言した記憶がある。
「何があったって?」
その司令部とは真逆の方向へ車を走らせながら、エゲルは助手席に尋ねた。
「テロ」
「またか。最近物騒だな」
「ああ。……ふざけてやがる、将軍が全員暇だと思うなよ……」
スーツ姿のオルニスが、腕を組んで眉間に皺を刻む。
ただ黙っているだけなのに、昔馴染みのエゲルすら背筋が寒くなった。
「他の将軍じゃ……って、そうだな、バイルが言ってない筈ないよな」
言葉の途中で向けられた視線。
エゲルは慌てて言葉をまとめた。
心底、犯人を気の毒に思う。
「(こりゃあ、相当お冠だぞ)」
何も今日でなくてもいいのに、間の悪い犯人達だ。
道の先に人だかりが見える。
その外側に、金髪の軍人を見つけて、オルニスが顔を上げた。
「先生、ここで」
「おう。気をつけろよ」
車を下りたオルニスが扉を閉めながら、恐らくなけなしの平常心で目を細める。
「ありがとう」
離れていく背中。
あの金髪が、電話のブロッシュ軍曹だろう。
頭を下げようとする彼を制して、オルニスが歩き出した。
その歩みは決して速くはないのに、ブロッシュは小走りで後を追っていく。
彼らが人混みに割り入ってから、エゲルは車を路肩に停めた。
「(ちょっとくらい、いいよな)」
いつもは必要以上に軍人に会うなと釘を刺される。
けれど、たまには。
エゲルは車を下りて群衆に近付き、隙間からそっと中を覗いた。
「申し訳ありません、閣下。他の方々は都合がつかないとのことで……」
ブロッシュは、自分を追い抜いた背中に声をかける。
今日は病欠の予定だったと、彼の副官は呟いていた。
しかし、その割には躊躇いなく、連絡をとってくるように命じたのだが。
自分とさほど変わらない年若い将軍は、歩みを止めずにさらりと答える。
「構うな、予想の範疇だ」
複数の犯人、その中心で人質が首に刃物を当てられていて、それ故に軍人達は手を出しあぐねている。
ブロッシュが場を離れたときから、状況はほぼ変わりがない。
オルニスの背を追い、人混みをかき分ける。
「バイル」
あまり大きくはない声が、指揮をとる副官へ向けられた。
バイルが振り返り、素早く敬礼する。
「お待ちしておりました、閣下。お加減は如何ですか」
「大分いい。状況は」
「将軍を人質にし、大総統に直訴するのが目的だそうです。軍部の独裁を糾弾したいとのことで」
「はっ、なるほど?」
嘲るような声の後で、彼の琥珀の瞳が獰猛な光を宿した。
「そりゃあジジイ共が出てこられない訳だ」
バイルが傍らで頷く。
「か弱くていらっしゃいますからね」
「(そんなこと言っちゃっていいのかよ……!)」
目の前で交わされる会話に内心焦りながら、ブロッシュは顔に表情を出さないよう努めた。
しかしその努力も虚しく、此方を見たバイルが悪戯に笑う。
「(いや、笑えないって)」
「おい、バイル……殺していいか」
「民衆が見ています、閣下。なるべくでしたら生かして捕らえた方が、外聞も宜しいかと」
オルニスが肩を竦め、一歩進み出た。
す、と右手でさりげなくピアスに触れる。
呼応するように頭上で雲が動き始めた。
犯人達が銀色を見つけたらしく、気色ばんで声を荒らげる。
「誰だテメェは! 将軍呼んでこいって言ったろうが!」
そうだ、彼は今、軍服を着ていない。
ブロッシュが焦りを抱いたのも束の間、薄い肩が上がり、大きく息を吸ったのが見えた。
「呼びつけた相手の顔も知らないとは、呆れるな」
「何!?」
指先がピアスに触れる。
雲間を裂く雷。
倒れる犯人達。
焦げる石畳。
一瞬の出来事に、中心の男と人質の女性が、呆然と辺りを見回した。
「動くなよ。貴様には分からないだろうが、生かさず殺さず……これがなかなか難しい」
雷の錬金術師が、冷えきった声で告げる。
「選べ。生きて次の機会を狙うのか、死んで目的も果たせず終わるのか」
仲間をあっさり無力化され、犯人の男は完全に怯んでしまったように見えた。
逆上するでもなく、人質を解放して震えながら両手を上げる。
駆け出す女性を受け止める者、男を地面に組み伏せる者、倒れた犯人達に駆け寄る者。
軍人達の動きは即座に分かれたが、ブロッシュはどれにもついていくことができなかった。
捕らわれた男は唸り声を上げている。
オルニスが、男に近付いた。
「貴様の訴えは聞いた。自分が彼女にしたことを、よく振り返ってみるんだな」
ブロッシュからは、背中しか見えない。
およそ軍人らしからぬその背が、今はこの場で最も頼もしい。
否、駆けつけてくれなかった将軍達と比べても、どうだ。
「(明日、ロス少尉に自慢しよう)」
いつも直属の上司が話してくれる通りの人物だったと。
非番の同僚と話す未来に胸を踊らせながら、ブロッシュはバイルの飛ばす指示に従った。
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