燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  






06








お父さん、お父さん。
周囲に感じる気配。
何度も呼び掛ける、声。
右手がじんわりと温かくて、は、そっと目を開けた。
それだけで、何故か目頭が熱くなった。

「お兄ちゃん」

――嗚呼、どうして

息が出来ない。
少し固く、簡素なベッド。
左には、枕元に手をついて覗き込むモージス。
まだ五十を数えるくらいだが、随分と老け込んだ印象がある。
その奥での腕にそっと触れるのは、かつて幼馴染みだったサーシャ。
その足元で必死に手を伸ばしている少年は、彼女に似た髪の色に、に似た顔立ちだ。
泣き出しそうなその顔が愛おしくて、名前を呼んであげたいのだけれど。
息が、出来ない。

「いい、喋るな、……っ、頼むから、」

いかないでくれ。
耳許で、父が絞り出すように言った。
何処に? 聞き返すのも野暮だ。
もうすぐ自分が神の御元へ召されることくらい、分かっている。
サーシャの向かい側に立つのは、トーマスだ。
いつの間にかよりも身長が伸び、精悍な顔立ちになった。
そう、彼の元へあの子を送り出すとき、モージスが暫くトーマスの顔をまともに見なかったことを思い出す。
そんなに昔のことではないのに、懐かしく、微笑ましく思えた。
息が出来ない。
けれど、不思議と体は苦しくない。
それよりも、胸が痛い。

――嗚呼、どうして

胸の奥がこんなにも痛い。
もう何も出来ない体から、涙だけが次々と零れるなんて。

「お兄ちゃん」

と同じ黄金色の「世界」が、其処にいる。
もっとよく顔を見たいと思っても、それを拭う力すら自分には残っていなかった。
が、空いている手でそっと涙を掬ってくれる。

「お兄ちゃん、……嫌よ、置いていかないで」

大丈夫だよ。
皆が、此処にいてくれる。
君の中にも、もうひとつ命が宿っているのだから。
誰も君を置いていったりしない。
ただ、ほんの少し先に、だけが母のいる場所へ旅立つだけだ。
自分の涙さえ拭えないけれど、の涙を拭ってあげたい。
もう一度、その頬にキスを。

「お兄ちゃん……っ」
「()」

もう一度、君の名前を。
もう一度だけ、君の名前を呼びたい。
モージスの嗚咽が聞こえる。
傍に影が立ち、がそれを見上げた。
はつられてそちらへ目を移す。
そうだ、村の教会を任されていた自分を、神の御元へ送り出すために呼ばれた、赤髪の神父。
クロス・マリアンが泣き崩れるモージスの肩を叩いて、その横に立った。

「わざわざオレが来てやったんだ。少しは喜べよ、クソガキ」

結婚しても、子をもうけても、達を子供扱いする馴染みの「おじさん」。
もう嫌味も返せないけれど、言いたいことは眼差しで受け取ってくれたのだろう。
相手はふんと鼻を鳴らして、そして驚くほど優しく笑った。

「いつまで経っても、お前はクソガキのままだ、

ふふ、とが泣きながら笑う。
さいごに笑顔を見られて良かった。
息が出来ない。
は瞼を下ろそうとして、そしてそれに気付いた。

――ローズクロス

閉じた瞼の内側で、しかしはっきりと思い浮かべることが出来る。
教皇が掲げる聖戦の十字。
それが持つ意味を。
彼の「団服」に籠められた想いを。

――嗚呼、どうして

「(どうして、判ってしまったんだ)」

涙が絶望に変わり、溢れ、零れゆく。
この幸せな世界では知りようもないその意味を。
世界の窮状を。
自らの立場を、役目を。
この村の行く末を。
嗚呼、どうして。

「(どうして……思い出してしまったんだ)」

目を開ければ、涙の向こうに幸せだった世界は何一つ無くて。
意識の外に遣っていた自らの罪を思い出す。

「はは、」

胸が震えるのに任せて、歪ませた唇から声を落とした。
起き上がったベッドの上で、涙が頬を零れ、伝う。
わかっていた。

「……わかってたよ」

こんな幸せは、不相応だと。






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