燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  






05








むずむず、ひくりと鼻を動かす。
鼻から喉へ、つんと抜ける臭い。
リナリーは顔を顰めながら目を開けて、はああ、と深く溜め息をついた。
床を這い出し、軽く髪を結って台所を覗く。
視線に気付いたコムイが振り返った。

「お、おはよう、リナリー」

その手元の鍋は完全に焦げ付いている。
乾いた笑みを顔に貼り付けていたコムイが、がっくりと肩を落とした。
一連の動作がやっぱり今日も面白くて、リナリーは小さく笑う。

「おはようっ」

駆け寄って彼の腰辺りに抱き付いた。
部屋には異臭が充満しているが、この大きな背中があれば、何も問題はないのだ。
鍋を置いたコムイが、リナリーを抱き上げてくれる。
首元に顔を擦り寄せて、温もりを体に満たすこの時間が、愛おしい。

「ねえ、やっぱり私、お料理の練習するよ」
「うーん、火は危ないからなぁ……ごめんね、僕が美味しく作ってあげられればいいんだけど」
「そんなの、いいの。兄さんがいてくれれば、私はそれだけでじゅうぶん」

そう続けて、リナリーはふと顔を上げた。

「ありがとう。でもやっぱりそれとご飯は別問題だからねぇ……リナリー?」

コムイが顔を覗き込んでいる。
どうしたの? という優しい言葉が、大好きな声が耳を素通りする。

――お父さんと、お母さんは、どこ?

私達は、どうして二人で暮らしているんだっけ。
兄さんの傍にいられることが嬉しい。
そんなの、当たり前なのに。
リナリーとコムイが離ればなれになるなんて、あり得ないのに。
当たり前の事が、こんなにも嬉しいのはどうして?
幸せすぎて、でもどうしてか、締め付けられるように胸が苦しい。

――わたしのせかいは、こんなに、小さかったかしら

ぼんやりと浮かぶ顔がいくつもある。
ひっつめた髪の、厳しくて優しい女性。
独特なサングラスを掛けて袖を捲り、おたまと鍋を持っている人。
一つのネクタイを長く使い続け、いつも草臥れた顔で、けれどとても優しく笑い掛けてくれる男性。
最早ヒトの形を成してはいないのに、温かな心で接してくれる人。

――わたしの、せかいは









視界が開ける。
目の前に横たわるのは、リナリーの世界の一部。
黄金色に縁取られた瞼は震えるほどの力を込めて、固く閉ざされている。
リナリーは、そっとその頬に手を伸ばした。
がびくりと体を震わせる。

「……っ」

零れた吐息は、怯え、上擦り、掠れていた。
何の夢を見ているのだろう。
リナリーのように、不完全な幸せを見せられたのだろうか。
ならばそれは、そう、確かに苦しい。

「……お兄ちゃん……」

そっと呼び掛けるだけでは、到底彼を夢から引き上げることは出来なくて。
ようやくリナリーは、周囲の風景全てへ気を回した。
爆音、悪性兵器AKUMAの奇声。
周囲に転がるのは、眠る前に目を背けた多くの死者。
否、戦いに巻き込まれて死後の姿すらも保てなかった者達。
それをすり抜けて駆ける黒髪の剣士が、隣で幸せな筈の夢に苦しむ黄金の神様が。
帰りを待っていてくれる優しい家族が。
この厳しくて苦しくて、切なくて、凍えるように温かな世界が、リナリーの現実。

「(どうせなら、完璧な夢を見せてよ)」

望んでも手に入らないような完璧な幸せは、どんな能力でもきっと実現できないのだ。
彼らはアクマ。
神ではないのだから。
そして天上の神様は、そんな幸せを与えてはくれなかったのだから。
リナリーは立ち上がる。

「黒い靴、発動」

――これが、私の世界

この世界を守る、それが、リナリーの現実。






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