燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  






 09









 今日は本当に忙しい。

「パーティーの当日に慌てて準備をするなんて、まるで慣れていない成金のようではしたないわ」

 そう言ったのは屋敷の奥様だ。

 艶めいた赤毛に、きめ細やかな白い肌。
 大粒のエメラルドに似た、甘く蠱惑的な瞳。
 ルビー・イヴリンはこの屋敷の奥様で、同時に今をときめく大人気の舞台女優でもある。

「(まあ、あたしはエメラルドなんて見たことないんだけど)」

 ライラは、廊下で大きな溜息をついた。

 料理人のディランは、今夜のパーティーのために、朝から必死に料理を作っている。

 執事のアーロンは、主人のアダムズと招待客リストの最終確認をしていて、家庭教師のサマンサは子供達を着付けてマナーを仕込んでいる。

「(……あたしもサマンサと一緒にアニーお嬢様にドレスを着せたかったな)」

 ライラは三年前からこのローリー邸に雇われている。

 家には病気の姉がいる。
 できるだけ多くの金が欲しかった。
 煙突掃除夫の父の稼ぎでは、生きていくことしか出来ない。
 母は姉の看病で手一杯。姉の薬代を賄うために借金もしている。
 だから、健康なライラが働くしかない。
 それでも父はライラには読み書き計算だけでなくなるべく教養をつけさせようと、長いこと地元の学校へ通わせてくれた。
 親の贔屓目で「お前は頭のいい子だ」と褒めてくれた。
 その気持ちだけで、十分だ。

 職探しは難航した。
 ライラの左頬から顎にかけては、目立つ火傷の痕がある。
 子供の頃、ヤカンを持って転んだ時にできた火傷だ。
 これさえなければ、夜の街に出されていたと思う。
 それでもライラの仲介人は優秀で、こちらの希望する給金に見合った仕事を探してきてくれた。

「学校なんて、通ってる子の方が珍しいんだよ。お情けで教室の端っこに置いてもらってただけ。むしろもっと早く働きに出るべきだったよね。……ね、泣かないで、姉さん。働き口は、大きなお屋敷なの。あたし、ラッキーだわ」

 仲介人の話では、普通、貴族のお屋敷には幾人かのメイドがいて、集団で働くということだったが、この屋敷にメイドはライラひとりしかいない。
 執事、料理人、家庭教師、そしてメイド――この屋敷の使用人は、これで全てだ。

 ローリー家は非常に裕福だが、貴族ではなく資産家だ。
 元が庶民なのだから、貴族のように他人に任せる生活には慣れていない。
 しかし、夫人が舞台女優をしているという都合上、家事の手伝いを任せられる人が必要。
 そういった触れ込み、資産家らしい給金の良さに、ライラは純粋に惹かれた。
 だから、仲介人の「ここはしょっちゅう求人を出している」という言葉にも特に思うところはなかったし、その時のライラには、それがどのような意味を持つ言葉かも分からなかった。

 今では、ここを就職先に選んだことを心から後悔している。

 メイドたるもの奥様の手足となって働くものだ、と使用人長でもある執事のアーロンに言われたが、三日で音をあげそうになった。
 奥様、ルビー・イヴリンはとにかく意地悪な人だったのだ。

 言いつけてくる仕事量が多いのなら、恐らく耐えることが出来た。
 そうではない、とにかく理不尽なのだ。
 まず真っ先に、演劇界では絶世の美貌と謳われる(らしい。ライラは実際には聞いたことがない。パーティーの参加客や、懇意にしている伯爵夫人のペネロペがそう言っているのを聞いただけだ。綺麗な人だとは思う。)ルビーは、ライラの顔の火傷を舐め回すように見つめた。

「パーティーの時には給仕をすることもあるのよ。その顔でお客様の接待をするつもり?」

 そんなこともあろうかと、ライラは母から化粧の仕方を教わってきたのだ。
 自信を持ってそう告げると、今度は鼻で笑われた。

「勤め先に初めて顔を出す日にそれを実践できないなら、どうせ身についてなんかいないんでしょうよ」

 お母様も教え損ねぇ。

 なんて言い草だろう。
 恥ずかしさと怒りで頭に血が上るのが自覚できたが、ライラは小さな声で「申し訳ありません」と言うことしかできなかった。
 だって、折角見つけてもらった仕事先なのだ。
 まだ挨拶しかしていないのに、クビになったらどうしよう。

 激情を上回る不安に襲われ、震えるライラを見て――今考えると、ルビーはその時、いいオモチャを手に入れたとでも思ったのだろう――ルビーは満足そうに微笑み、そしてライラは、ローリー家に雇われることが決定した。

 主人の性格は最悪だったが、この家は、金払いだけはいいのだ。
 家に仕送りができる、それだけを思ってこの三年働いてきた。

 ルビーの理不尽さは、今日もばっちり発揮されている。
 今日のパーティーに備えて、あらかじめ彼女の名前に因んだ真っ赤なドレスを仕立ててあった。
 ローリー家の長女アニーと、母娘揃いのドレスだ。
 ツンと澄ましたルビーとは対照的に、アニーはとても嬉しそうだった。

「お母様とお揃いなのよ! 足の隠れるスカートなんて、大人っぽくって素敵でしょう?」

 そうライラに自慢した彼女の顔は、記憶に新しい。
 というか、毎日自慢してきた。

 アニーは、ライラより二つ歳下だ。
 アニーと、その弟ライアンは、母親とも高慢な父親とも似付かない素朴で優しい子供達だ。
 家庭教師のサマンサの教育が良いのだろう。
 アニーは、ライラの顔の傷を馬鹿にしたりしなかった。
 そればかりか、母親の態度をライラにたびたび謝罪してくれる。
 ライラが落ち込んでいるのを察して、たびたび菓子などをこっそり差し入れてくれる。

 なにより嬉しいのは、ライラの誕生日にバースデーカードをくれた事だ。
 歳の近いお姉さんが家にいてくれて楽しい、などと無邪気に綴られていれば、それがお世辞だろうと嬉しい。

 豪奢なドレスを着ることのできる彼女を羨む気持ちが無いではないが、ライラにはそれを上回る姉心があり、素直に「よかったですね」と笑うことができた。

 そんな風に、娘が揃いのドレスを楽しみにしているというのに。

「気が変わったわ。別のドレスを出してちょうだい」
「そんなっ……」

 あんまりだ。

「奥様、せっかくお嬢様とお揃いなのに!」
「ライラ」

 振り返るルビーの表情は、明らかにライラを蔑んでいる。
 視線も氷のように冷たい。
 おかしいな、奥様は今、舞台で太陽の女神を演じておられる筈なのだけれど。

「あなた、私に意見しようっていうの」
「も、申し訳ございませんっ」

 慌てて頭を下げる。
 頭の上から、深い深い溜息が聞こえた。

「いいわ、あなたになんか任せられない。自分で選ぶから、着替えを手伝いなさい」

 ルビーが舞台に乗っている姿を、ライラは見たことがない。
 舞台俳優というものは、大きな劇場で身体一つで声を張るのだから、豊かな声量や感情表現が必要なのだろうと思う。
 けれど、家にいる時のルビーは、基本的に抑揚をつけずに喋るのだ。
 聞こうと身構えて聞かなければ、聞き逃してしまう。

 今回も一瞬遅れて答えたライラへ向けて、ルビーは「鈍臭い子」と吐き捨てた。

 結局、ルビーが選んだのは黒にも見える紫のドレスだった。

 ライラはその隣にあった緑のドレスの方がルビーに似合っていると思ったが、口に出したところで馬鹿にされるだけだというのはわかっていたので、何も言わず頷く。

 いつもと同じ、ライラの容姿を貶す言葉を延々と吐き連ねながら、ルビーがメイクを終えた。
 最後に彼女のネックレスのホックを留めてやると、下がって大広間の準備に取り掛かるよう指示された。
 ライラは即座に了承し、速やかに部屋を出た。

「屋敷の中で走るなと、何度言えばいいのだ」

 後ろから低い声で呼び止められ、ライラは飛び上がって振り返った。
 執事のアーロンが顰め面をしている。

「ごめんなさい」
「何をしていた? 大広間の掃除は終わったのか」
「奥様のドレス選びを手伝っていて……今何時ですか?」
「もう十八時過ぎだ。三十分もすれば、最初のお客さまがご到着されるだろう」

 確か、今日の来客には当主アダムズの部下であるマックス氏とその妻が含まれていた筈だ。
 マックス夫妻は非常にせっかちなので、集まりがあるとなると予定時間の三十分前には到着してしまう。
 アーロンはそれを指摘しているのだ。

 ライラは飛び上がって、大広間に向かって駆け出した。

「だから、走るな!」
「ごめんなさいっ!」

 走らないと間に合わない。
 一度階下に向かって新しいナプキン類をエプロンに突っ込む。

 急いで広間に入ると、既に料理人のディランが軽食のサンドウィッチを運び入れていた。

「シルバーとグラスは拭いたか?」
「まだです! ごめんなさいっ!」
「埃を立てないでくれよ」

 ディランは日頃から無愛想だが、今日は一段と仏頂面だ。
 ふくよかな顎のラインを汗が垂れていくのを、ひっきりなしに肩口で拭っている。
 今日は七月二十七日だ。
 夏とはいえ、普通夕方にもなれば気温が下がるので大汗をかいたりはしない。
 オーブンや火を使うキッチンに熱がこもるといっても、限度がある。
 彼も、朝からメニューの変更を命じられて、てんてこ舞いの忙しさだったのだ。

 不憫だ。

「客はもう来るんだろう?」
「多分……マックスご夫妻はすぐいらっしゃると思います」
「じゃあ、グラスだ。グラスだけさっと拭き直しちまえ。一番最初に使うからな。お子様達のは後で構わない」

 無愛想だけれど、親切な人なのだ。

 ライラは勢いよく頷き、早速手を動かすことにした。



 ***



「やあ、ヘンリー! よく来てくれた。ジュリアも久しぶりだね、元気にしていたかい?」

 応接室で客を出迎えるアダムズは、とても機嫌がいい。
 そういう日はいつも、自慢の太鼓腹を叩いて笑いを取ろうとする。
 来客にはワインの飲み過ぎと説明し、そのままワインセラーに案内することもあるのだが、実はエールの飲み過ぎだと使用人一同は知っている。

 歓迎を受けているのは、予想通り一番に到着したマックス夫妻だ。
 ヘンリー・マックスと妻のジュリア。
 ウェルカムドリンクを手渡すと、夫婦揃って会釈をしてくれた。
 マックス夫妻は深い付き合いなので、アダムズの好きな酒がエールであることを知っている。
 だから、お決まりのジョークの出番はまだない。

「あら、お二人とも足元が濡れているわ」

 早速話に花を咲かそうとするアダムズを制して、ルビーがジュリアのドレスに注目を集めた。
 ライラも目を遣るが、彼女のドレスは小花柄で分かりにくい。
 隣に立つヘンリーの灰色のスラックスを見ると、確かに裾の色が変わるほどぐっしょりと濡れていた。

「ライラ、拭くものを」
「畏まりましたっ」

 ライラは慌てて部屋を出る。

 廊下の窓を見れば、確かに雨が降っていた。
 この国では快晴の日の方が少ない。
 窓に近寄って見てみると、雨粒がずいぶん大きいことが分かる。
 これは、招待客が帰る頃には大雨になっているかもしれない。

 タオルを持って戻ると、ジュリアがなんとも申し訳なさそうにそれを受け取った。

「ありがとう。手を煩わせてごめんなさいね、ライラさん」
「滅相もございません」

 ルビーと比べると、誰でも優しい人に見える。

 招待された時間ちょうどにやってきた二番目の来客は、テディ・ハーヴィーと妻のエレノア。
 ハーヴィーは、マックスと同じくアダムズの部下である。
 ただし、マックスがアダムズの補佐で幹部の一人であるという一方で、ハーヴィーは立場の低い一般銀行員だ。
 ディナーの際のアダムズの自慢話を聞く限り、どうやら上司に取り入るのが上手なタイプのようだ。
 ウェルカムドリンクは、妻のエレノアが二人分をまとめて受け取った。
 テディは早速アダムズやヘンリーの元へ駆けていく。

「あっ」

 なるほど、他人のやりようを見ると、屋敷の中で走ってはいけない理由がよく分かる。
 案の定、テディの腕がテーブルに引っかかって、美味しそうな軽食のサンドウィッチの皿を落とした。

「(どうせ誰も食べないんだから、あたし達のお夜食になるはずだったのになぁ)」

 大きな音に振り返ったルビーの目がギラリと不機嫌な光を灯した。

 可哀想に、ハーヴィー夫妻は二度とパーティーには呼ばれないだろう。
 一度の失態で今後の出世の機会を失ったテディに深く同情したが、ライラはそれを決して表には出さなかった。

「テディさん、破片を触ってはいけないわ。怪我をしてしまうから。ライラ、片付けなさい」

 すぐに優しい声色を出して笑顔で彼を手招いているし、必死に謝るエレノアにも「いいのよ」などと寛大さを見せているが、忘れてはならない、ルビーは女優なのだ。

 ライラはすぐさま屈んで破片を拾おうとしたが、三人目の客を連れてきたアーロンがそれを制した。

「箒を持って来なさい」

 それと、と差し出してくれたのは、彼の予備の手袋だ。
 ライラの手には大きすぎるが、皿の破片を拾うのには助かる。
 素直に礼を言って、今度は箒を取るために部屋を出た。

 その際にすれ違ったのが三番目の客、著名な脚本家のオスカー・メイソンだった。
 オスカーが屋敷に来るのは三度目だ。
 けれど、ロンドンでの公演中はルビーと毎日のように夕食を共にしているのを、ライラは知っている。

「いらっしゃいませ、オスカー様」
「やあ、ライラ。これをルビーの部屋に置いておいてくれるかい? 彼女から頼まれた物なんだ」

 彼は小さな紙袋をライラに渡した。
 軽い袋だ。

「あの……プレゼントなら直接渡した方が、奥様もお喜びになるのではないですか?」

 口出ししたなんて、ルビーに告げ口されたらまた怒られるだろうか。
 オスカーが唇をひん曲げて笑う。

「いいんだ、いいんだ。プレゼントって訳じゃないんだから。でも中身を見るなよ、丁寧に扱え」
「か、畏まりました」



 ***



「(なんで、こんな事になったんだろう)」

 雨粒を纏った六人の警官が、室内を踏み荒らす。
 外にも警官が集まっているそうで、呼び合う声が聞こえてくる。

「(子供の声の方がうるさいはずなのに、……警察って、うるさいな)」

 居間の真ん中で毛布に包まれた子供達四人は、もう一言も話すことが出来ない。
 もう二度と目を開けることはない。
 医者も警察も、何もかもが遅かった。

 伯爵家のいけ好かない次男坊も、こうなってしまうとあまりに不憫だ。
 ライラが仕えるローリー家のライアンを、いくら虐めていたにしろ、アニーが将来伯爵家に嫁いだらきっといびり倒していたにしろ。
 いくら性根が曲がっていても、それが、苦しんで、痛がって、吐き戻して、泣いて、喘いで、喘いで、喘いで、泡を吹いて、白目を剥いて、そんな残酷な死に方をする理由にはならない。

 ましてや、フィナスの兄のヘンリーや、フィナスに虐められていたライアンや、ライラの可愛い可愛い妹のようなアニーが、同じ死に方をしていいはずがない。

「(どうしてこんなことになったんだろう)」

 応接間の方では、男性陣が事情聴取をされているらしい。
 上階ではアダムズとオスカーの死体が見つかったという。

「(いったい、この屋敷で、何が起きていたんだろう)」

 ライラは、居間の片隅で立ち尽くす。
 ボロボロと涙が零れる。
 涙が乾くと火傷の痕がひりつくのだが、きっと、この涙は乾いたりなんかしない。
 止まる気がしない。

「ヘンリー! フィナス……! なんでこんなことに! どうして! あああああっ」

 息子達の死体を抱き締める伯爵夫人のペネロペは、二人が力尽きてからずっと同じ言葉を繰り返し叫んで泣いている。

「アニー様……ライアン様……」

 家庭教師のサマンサは、ライアンの死体を膝枕しながら、まるで実母のように優しい手つきで彼の額を撫で、傍らに横たわるアニーの頬を撫でる。

 ライラも、そこに加わりたい。

 一人床に寝かされているアニーの死体が、可哀想だ。
 サマンサの膝が足りないなら、ライラの膝を貸してあげるのに。

 ――でも、そんなことをしているのをルビー様に見られたら?

「(……ごめんね、アニー様)」

 ――嗚呼、保身ばかり考える薄情な姉を許して。

 ――アンタは可愛い可愛いあたしの妹。
 だけど、本当の妹じゃない。
 あたしはどうあっても此処をクビになる訳にはいかないの。
 姉さんの治療費を稼がなきゃいけないの。

 そう思ったから、ライラはアニーの死体を抱き締められなかった。
 でも今思えば、あの時、後先考えずアニーを抱き締めてしまえば良かったのだ。



 ***



 アニーの話をする時、眉を歪めて愛しげに頬を緩める。
 それだけでライラの想いは痛いほど分かった。

「居間に戻ってきたルビー様は、刑事の袖を引いていて。あたしを指差して、叫んだの。『こいつが犯人よ!』……って」
「……お芝居にありそうなセリフだわ……」

 ぽそっと呟いたのはティアラ。
 それを聞いて突然大きな声を上げたのはサマンサだ。

「ええ、そうよ……! 芝居の台詞……そう。奥様はあの時、芝居みたいに、はっきりとおっしゃったわね?」

 サマンサから同意を求められて、ライラが息を飲む。
 その目に力が漲る。
 机に投げ出されたサマンサの手に、身を乗り出して縋り付く。

「そう……そうなの、分かってくれるよね、分かってくれるよね、サマンサっ……!」
「分かるわ。……ライラ、あなたはむしろ、分からなかったでしょう? あなたは奥様の舞台を見たことがないものね」

 感極まった悲鳴が、ライラの喉から漏れた。

「どういうことさ?」

 二人だけで納得しているところに、ラビは切り込む。

「あれは、まるで台詞のようにはっきりしたお言葉でした。ルビー様は舞台女優ではありましたが、普段はボソボソとお話しになる方なのです。声は綺麗なのに抑揚がなくて、こちらが聞き取ろうとしなければ、聞き取れないようなお声。ローリー家を訪れる方々は、彼女のプライベートの姿に少なからず驚かれたものです」
「でも、あの時は違った。奥様はあたしを指差して『こいつが犯人よ! 子供達の紅茶に毒を盛ったの』って、はっきりと。嗚呼……嗚呼、今まで誰に言っても理解して貰えなかったのに……」

 指を組んだ手を額に押し当てて、ライラが祈る。

「あたしが鈍臭いから……あんな事件の最中でも鈍臭いあたしのことが目障りで、奥様はあんなことを仰ったんだ。分かってる。あたしを貶めて、ご家族を亡くした悲しみを埋めようとしたんだって、分かってる。ここから出られないのも分かってるから……でもあたし、……でも、ねえ、アンタ達だけは信じて、おねがい、おねがいよ……」

 ライラの目がラビを見上げる。

「あたし、誰も殺したりなんか、してない!!」

 叫んで、ライラはすぐに目を閉じた。
 ぎゅっと目を閉じて肩を竦め、机に伏せるように縮こまって震える。

「アニー様達のことは、疑われるのも無理ないって思った。でも、あたしは何もやってない。ましてや上の階のことなんか、知らない。だってあたしはずっと子供達といたんだから! 上の階に行くヒマなんて、なかった。仕事があるのに、奥様の目が光ってる大広間を通り過ぎて余計なことをするなんて、あたしには無理よ!」

 ぐすぐすと泣き暮れるライラの肩に、ティアラが手を伸ばした。
 丁寧に丁寧に触れ、そっと肩を撫でる。
 ライラがびくりと肩を震わせて強張らせ、少しだけ顔を上げた。
 肩に触れる傷のない手を握り締め、口付けて、その手を額に押し当てた。

「……っ、めんかい、きてくれて、うれしいの……ありがとう」

 それから、彼女はラビを見上げる。

「あの、聖職者様……ラビ様……?」
「何さ?」
「たすけて、って言ったら……助けてくれる?」

 それは、軽々に答えられる問いではない。

「姉さんに会いたいの……父さんと、母さんにも……」
「きみの故郷は?」

 穏やかな声でが訊ねる。

「フルリス、って村。あたし、出稼ぎに来ているから、この領地の人間じゃなくて」

 エゴールが全身を強張らせたのを、察した。
 ラビも言葉を飲み込んだ。

 このアンバーレイ地方に来る前に訪れた場所の名前は、ロンドン郊外のフルリス村。
 既に一人の住人もおらず、三桁のアクマを破壊したばかりの地である。
 破壊し尽くされた村のどこかに、ライラの実家があったのだ。
 どこかに、ライラの両親と姉だった砂の塊があったのだ。

「一度父さんが来てくれたきりよ。……まあ、こんな迷惑な娘、会いに来てくれるはずもないんだけど……」
「フルリスは結構遠いからなぁ」

 気付いていないはずはないだろうに、は変わらぬ平静さで微笑んだ。

「俺もこの国の出身だから、地理は分かるよ。この辺りまで来るには時間もかかるし、旅費も結構かかる。会いたくないんじゃなくて、なかなか費用を工面できないのかもしれない」
「そう……かな」
「ああ、きっと。一度来てくれた時、お父さんはきみを疑っていた?」
「う、ううん……あたしの話を、信じてくれた」
「なら間違いない。事情があるだけだ。会えなくても、家族はきみの味方だよ」
「……父さんが信じてくれてるって、あたし……忘れてた……」

 ティアラの手を包むライラの手に、さらに手を重ねて。
 彼の笑顔が空間を包み込む。

「辛いことで覆い隠されてたんだろう。忘れていたけど、でも、心の奥ではちゃんと覚えてた」
「うん……」
「だから、これからもきっと、その思い出を支えにしていける。ね?」

 は、フルリス村の悲劇を伝える気がないのだ。
 それを察して、ラビは歩調を合わせるようにニッと笑った。

「ローリー家の奇怪は、オレらがきっちり解決してくる。そしたらきっと、ベリル卿からも褒めてもらえるからさ、ご褒美にアンタの処遇を良くしてもらえるように必ず頼んでおく」
「わたくしも、帰ったらお父様と話すわ。あの、だからね、ライラ……わたくし、またあなたに会いに来ていいかしら」
「私も手紙を送るわ。……あなたが私を恨んでいても、送らせて欲しいの」

 ティアラとサマンサの言葉に、ライラはぎこちなく頬を持ち上げて応える。

 三人が再会を誓うのを見て、ラビは唇を噛み締めた。

 窓の外は、暗い。
 帰り道は雨になるだろう。






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