燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
10
昼食を済ませてまた馬車に乗り、屋敷に帰る。
ラビとは、エゴールを伴って使用人用の階段を下った。
ベリル伯爵邸の地上一階にあたる部分は、住人達からは「階下」と呼ばれている。
洗濯室、キッチンメイドの部屋、ワインセラー、貯蔵庫と部屋が立ち並び、階段の正面には大きな厨房がある。
「厨房から繋がる右の大部屋が、使用人の皆さんが使うホールだそうです」
エゴールの案内で、大きな窓のある開放的な空間へ向かう。
途中、昨日入口だと思っていた正面玄関の扉が見えた。
「あの扉から使用人は出入りするんさ?」
「いいえ、あの扉は業者の皆様や農家の皆様など、お客様が利用されるそうです。内側の皆さんは、ホールの奥にある東側の裏口をお使いになるのだとか」
「使用人が正面玄関を使えないなら、農民も使っちゃいけない気がするけど」
「農家の方は、大きな荷車を引いてきますからね。荷物も大きいので、正面で受け取って真っ直ぐ貯蔵庫へ運ぶ方が楽なのだそうです」
言われてみれば、使用人ホールと執事室に挟まれて裏口へ繋がる廊下は、この家で見たどの廊下よりも狭い。
対して、正面玄関と使用人ホール、そして厨房に面した一階中央の空間は大きな広間になっていて、大きな荷物も難なく運び込めそうだ。
「なるほどな、人がぶつからない広さを確保してるんか」
感心して言うと、使用人ホールを遠目に眺めたが頷いた。
「ああ、そっか……食事時なんかは、厨房と階段を人が行き来するんだもんな」
「しかも料理の皿を両手に持って。ぶつかってぶちまけたりしたら大目玉さ」
昨日、執事のブレイクに指示されたこの時間は、ちょうど使用人の休憩時間だ。
ホールでは長机を囲んで、使用人達が思い思いに過ごしている。
ちらちらとこちらを見ている者がいて、その度にエゴールが会釈して視線をいなす。
事前調査で階下にも踏み込んでいる優秀な探索部隊員の存在により、彼らからラビ達に対する警戒心はかなり薄い。
とはいえ、気配を隠す必要もないからとが自然体で振る舞っているせいもあって、視線を完全に振り切ることはできなかった。
ラビとはホールに少しだけ顔を覗かせる。
途端に全員立ち上がったので、大層驚いた。
「わ、座ったまんまでいいって。オレはラビ、こっちは。休憩中に邪魔して悪いな」
は殊更親しみやすい笑顔で微笑む。
「そうだ、昨日夕食を作ってくれたのは、誰?」
揃いの縦縞ワンピースと白いエプロンを身につけた少女達が顔を見合わせる。
「ええと……、料理長は私ですが……」
名乗り出たのはエプロン姿の中では最年長、それでもペネロペより十は若い女性だった。
林檎料理を目にした時のように顔を輝かせて、が頭を下げる。
「厄介な要望を聞いてくれてありがとう。とっても美味しかった」
「そんな、頭を上げてください。私は料理を作っただけですので……」
ラビもエプロン姿の少女たちを見回して笑った。
「そうだった! ここの食事はサイコーって聞いてたけど、量も味も完璧だったさ。サンキューな」
恐縮する料理長とは対照的に、少女達は素直だ。
どういたしまして、と頬を染めてきゃあきゃあと楽しそうにしている。
賑やかな少女達を厳かな佇まいだけで黙らせたのは、執事室からやってきたブレイクだ。
「お帰りなさいませ、皆様。――さて、誰の話をお聞きになりたいのでしたか」
「そうさな、えーっと……サマンサの他にも、ローリー家からこっちに雇われた使用人がいるだろ。その人、此処にいる?」
最後の言葉を使用人達に向けて投げかけると、彼らは揃って首を振った。
「それは、アーロンさんのことですね」
ブレイクが彼らに代わって答える。
「その人はどこに?」
「彼の部屋は屋根裏の方ですので」
参りましょう、と先立ってブレイクが歩き出した。
ラビ達は慌てて使用人達に手を振り、彼を追って階段を上る。
がブレイクの背中に声をかけた。
「ポピーから聞いたんだけど、オリバーさんは、ローリー家の使用人達をすぐにこの屋敷で雇ってくれたんだって?」
「ええ。旦那様はお優しい方です」
「でも、執事のあなたは大変だったでしょう? いきなり部下が増えたんだから」
ブレイクは足を止めて、振り返った。
「ローリー家の使用人は四人でした。ルビー・イヴリン様は紹介状も無く彼らを放り出した。紹介状の無い使用人の再就職は、極めて困難です。……我が身に置き換えれば、拒むことはできませんので」
「伯爵御一家も使用人の皆様も、このお屋敷の方々は良心的ですね」
エゴールの言葉に、当たり前だとブレイクは返す。
「ノブレス・オブリージュ。主人がそうあるのならば、我々、使用人一同もそれに恥じない働きをせねばなりません」
「かっこいいね」
邪気も裏もない、英雄を見るような瞳でが笑った。
手放しの賞賛に面食らったようで、ブレイクがたじろぎ、咳払いをする。
当のはその反応を見てきょとんと首を傾げていた。
「四人の使用人のうち、一人は捕まっちまったライラだろ? 一人は、家庭教師のサマンサ。料理人はここでは雇わなかったんさ?」
「シェフのディランさんは、旦那様が書かれた紹介状を持ってロンドンのホテルに就職されましたね。今から会いに行くアーロンさんは、ローリー家の執事を務めていらした方です」
先程までより、語り口が滑らかだ。
が褒めたのが効いたらしい。
「執事職は主人からの信頼も篤く、使用人を束ねる立場ですから、誇りもあります。執事を経験したものが余所でそれ以下の立場に甘んじることはそうそうありません。旦那様の身の回りを世話する『従者』であれば……まあ妥協もできましょう。あの時はタイミングもよかったのです。ちょうどこのお屋敷では新しい従者を探していたところで」
すっと背筋を伸ばしたブレイクに上段から見下ろされると、迫力がある。
他の部屋が広すぎるので感覚が狂わされるが、階段室も階段自体も狭いわけではない。
大柄な男が二人、余裕を持ってすれ違うことのできる広さだ。
「その穴に、アーロンさんをお迎えしたということです」
「家庭教師にも空きが出ていた?」
「こちらも、……残念ながらお坊っちゃま達が亡くなられて。お二人のお世話係はやむを得ず解雇いたしましたが、新たにお嬢様の家庭教師を探していたところでした。そこで、テイラーさんに入って頂いたのです」
再び階段を登り、扉を開けると地上四階の廊下に出た。
ブレイクは先程この階を「屋根裏」と表現したが、屋根裏として想像される暗くて狭い秘密基地のような、もしくは蜘蛛の巣や鼠の巣があるような場所ではない。
吹き抜け越しに屋敷の北側を見渡せるようなはめ殺しのガラス窓もあり、明るい廊下だ。
むしろ、ラビ達が普段過ごしている黒の教団本部の居住スペースの方がよほど暗い。
「従者や侍女、ハウスメイド達はこの階に部屋がございます。此方がアーロンさんの部屋です」
オリバーから呼びつけられればすぐに駆けつける役目だからか、示された部屋は階段から最も近い部屋だった。
素早く、けれどはっきりとした執事熟練のノック。
応じた男もまた背筋がしゃっきりとして、風格のある人物だった。
「どうされました、旦那様はまだ休憩中のはずでは?」
「別件です。昨日話した『黒の教団』の方が、あなたの話を聞きたいと」
かつてのローリー家の執事、トマス・アーロンは、扉の隙間からエゴールとラビ達を見て頷き、扉を開いた。
ラビ達を迎え、一方で、ブレイクへは頭を下げて階段を示す。
「ブレイクさんは、どうぞ休憩なさっていてください」
ブレイクが眉を上げて首を振る。
「いや、私は……」
「このお屋敷に不利益を与えることは話しませんが、今から私はかつての主人の恥を語ろうと思うのですよ。……聖職者様にならお話しできるが、他家の執事には聞かせられません」
二人は一瞬睨み合った。
使用人を束ねる存在として働いてきた執事達のプライドが、ぶつかり合う。
ラビはごくりと唾を飲んで見守る。
エゴールも緊張した視線を両者に走らせ、はじっとアーロンを見つめそれからブレイクに視線を移した。
先に折れたのはブレイクだ。
「分かりました。では私は執事室にいますから、ディナーまでには済ませてください」
立ち去ろうとする執事に、が微笑みかける。
「大丈夫、俺達もディナーの時間にはローリー家に到着していたいから」
その言葉に、アーロンが目を見開いてエゴールを、ラビを見た。
「……本当に?」
「まあ、行かないってなるとオレらここに来た意味がねェし」
「折りよく雨も降り始めましたから」
窓ガラスの外側に雨粒が垂れている。
ブレイクが階段を下りていったのを見て、アーロンは頷いた。
「御三方、中に入りますか、それとも廊下で?」
ラビはと顔を見合わせる。
「廊下でいいさ。オレはラビ、こっちは、よろしく」
「そうですか。事件のあらましは、そちらのエゴール様より既にあらかたお聞きになっていると思われますが……私はアーロン、ローリー家では執事を仰せつかっておりました」
「初めまして。あなたから直接聞きたいんだ。当事者の印象って、大事だから」
アーロンはジャケットの裾を引き、生地をピンと伸ばす。
きっと執事時代からの癖なのだろう。
「では、何からお話いたしましょうか」
***
「――ローリー家に雨宿りしにくる客って、実際どれくらいいたんさ?」
話の大筋は、サマンサが話していたものと大差ない。
大広間でローリー夫妻や招待客への給仕に専念していたアーロンも、ライラが階段を上って上階へ向かう姿は見ていないという。
しかし、伯爵家と似た使用人専用の階段があり、そちらを使った可能性はある。
「私は先代の頃から小間使いとして勤めておりましたが、……あの屋敷で働いていた三十年、そうですね、一年のうちに一度あれば多い方です」
「ん? ……俺が思ったより少ない」
「だな。家の大事なルールだっていうから、もっと頻繁にあることなのかと思ったさ」
アーロンは小さく笑った。
「そんなに頻繁にあることではありません。ローリー家を実際にご覧になったことは?」
ラビとは素直に首を振る。
エゴールが納得したように「なるほど」と呟き顎に手を当てた。
「ローリー邸の門前には綺麗な湖があります。雨宿りに立ち寄るには、往来のある道から少し奥まった位置にあるのです」
ラビとへの説明だ。アーロンが頷く。
「さようでございます。気軽に立ち寄ることのできる場所ではございません。とはいえ、あの家の家訓は有名な話でしたから。湖で釣りをしたり、散歩をするこの町の方々は『雨が降ったらローリー家で雨宿りをしよう』といった具合に気軽に考えておりました。ですので、一年に一、二度そういった雨宿りの方々がいらっしゃるというわけです」
ふうん、と頷いて、が首を傾げる。
「じゃあ、やっぱり不思議な話だ。家訓を知ってる地元民ならまだしも、余所者がふらっと立ち寄る場所じゃない」
ラビがライラに拘っていたのと同じように、は雨宿りの客イスラ・フィーネに拘っている。
それを指摘すれば、彼は眉を下げて笑った。
「だって、いくらまだ暗くはないっていったって、女の人が一人でふらふら歩くような時間じゃないだろう。しかも、こんな縁もゆかりもない土地で。近くに宿屋もない」
「それもそうだ。……イスラはどこに泊まるつもりだったんさ?」
「宿帳に彼女の名前はなかったはずです」
「それはそうでしょう」
三人の掛け合いに口を挟んだアーロンが呆れた顔で笑った。
「あの方は最初からお屋敷に泊まるおつもりでしたからね」
「は? どういうこと、」
言いかけて、ラビはふと思いついてしまう。
「……え、知り合い?」
が勢いよくラビに顔を向けた。
それから、アーロンを振り向く。
執事だった男は、秘密ですよ、と前置きした。
「イスラ・フィーネは、旦那様の愛人でした」
もしここが本部の食堂だったら、或いは科学班だったら、ラビは遠慮なしに大声で「マジで!?」と叫んだだろう。
は真ん丸に目を見開いた。
こういう顔を見るとたまに思うが、彼は目が大きい。
けれど普段あまりそう感じないのは、伏し目にしていることと、長い睫毛が瞳に被さっているからだろう。
「旦那様は、ルビー様の舞台を見るといってロンドンに行くたびにイスラ様とお会いになっていらっしゃいました」
「……アーロンさんは、それを知ってたの?」
「勿論です。お聞き及びでしょうが、ローリー家の使用人は四人。このお屋敷のように潤沢に人を雇っていれば、ブレイクさんと今の私のように執事と従者を分けることもできますが、あのお屋敷では、一人で何役もこなす必要がありました」
「知ってて、……当然アンタは、そのことをルビーさんには言わなかったんさね」
「それは当然、ご夫婦の仲を平穏に保つよう努めておりましたから。……私は独り身ではございますが、夫婦とはいえ所詮は他人。たまには羽目を外すということが必要なのでしょう」
もし、アダムズとイスラが結婚を望んでいたとするならば、ルビーは邪魔者だ。
二人が彼女を殺害するなら動機はある。
けれど、ルビーは生き残っているのだ。
「そういや、ルビーは? アンタ達はどうしてクビになったんだ? 忙しい舞台女優なんだから、家庭教師は必要ないにしても、アンタとシェフを雇っておくくらい出来たはずさ」
「それは、今でも我々こそが知りたいと思っていることですがね」
思いつくままに並べ立てるラビに、不満げに鼻を鳴らし顔を背けたアーロンだったが、そのまま雨空に視線を投げる。
「事件の翌日は警察の取り調べがありました。けれど、ライラが犯人として連れて行かれたお蔭でその日のうちには我々は解放されたのです。ご家族のご遺体は、伯爵家のお子様方と共に警察へ運ばれていきましたので、シェフのディランは軽い夕食などを作って……」
アーロンの拳が、自分の太ももを殴りつけた。
思わずといった調子でが手を浮かせ、引いた。
「夕食後のことでした。ルビー様は我々を集め、今すぐ荷物をまとめて出て行くように、と。――普通、そんな雑な解雇の仕方はありません。少なくとも朝を待ち、汽車の切符などを手配してから送り出すものです。それなのに、我々は着の身着のまま、小さな鞄一つで放り出されました」
「夕食後、夜にあんな人通りもない場所で放り出されて、それからどうされたのですか?」
エゴールが訊ねる。
「紹介状もない。そんな状況で町に行ってパブにでも入る? 当然、そんな馬鹿な真似は致しません。この地域で、ルビー様に上から物を言えるのはベリル伯爵家の皆様だけです。我々は仕方なく徒歩で、たいへん失礼な時間だとは思いましたが、このお屋敷の門を叩きました」
「伯爵は、気前よく迎え入れてくれたらしいな?」
「ええ。伯爵やブレイクさん達は、皆様も悲しみの最中であったというのに、私達のために憤ってくださいました。その夜は泊めていただいて、それから翌朝、ルビー様を説得するために伯爵と共にローリー家を訪ねたのです。しかし、……その時にはもう、ルビー様はお屋敷にいらっしゃらなかったのです」
腕を組んだが、アーロンの言葉を繰り返して時系列をなぞり、呟く。
「……ルビーさんは、どうして出て行け、なんて言ったんだろう? 解雇の理由は?」
きっぱりと首を振り、唇を噛み締めたアーロンは眉を顰めて息をついた。
「ルビー様おひとりに対して、世話係は必要ないとのことでした。料理は自分で出来る、仕事の調整も結婚前は自分でしていた、子供は死んだのだから家庭教師は必要ない、とそれぞれ理由を述べられて押し切られてしまったのです」
「まあ、……納得できない理由ではないけど」
「けどまだ家族の遺体も戻ってきていないのに、姿を消すなんて、」
が顔を上げて呆然と呟く。
「それじゃあ、ローリー家の人達は、誰に弔われたの……?」
ここが祈りの場なら、ラビだってあらかじめ覚悟を持っていられたのに。
不意に虚空を漂った声は、無防備なラビの心を簡単に貫いた。
否、ラビだけではない。
エゴールもアーロンも呼吸を奪われている。
「(そんな、顔も知らない人間の死までいちいち悼んでいたら、やってらんねェだろ)」
ブックマンを継ぐ者は、何者にも心を許さない。
そう叩き込まれてきたラビは、確かにそのように思うのに。
思っているのに。
思おうと、思っているのに。
黄金色の神様は容赦がない。
ラビの、ブックマンの信念など覚悟など意にも介さず目もくれず、彼の心情に構おうと構うまいと一切気にもとめず、神様の心はラビを蹂躙していく。
踏み荒らし、踏み分け、それでいて平らにならしていく。
彼の色に、染め上げていく。
途方もない悲しみが、染み込んでくる。
縋る先も失った迷子のような、頼りない気持ちにさせていく。
「大丈夫」
戸惑って何も言えないラビとエゴールの前で、アーロンは穏やかに頷いた。
「ローリー家の方々のことは、……今の旦那様が、ご家族と一緒に弔ってくださいました」
「……伯爵が?」
「ええ。アニーお嬢様なんて、ヘンリー坊ちゃまのお隣の場所に墓を立てて頂いたのですよ」
張り詰めていた空気が、ほっと弛んだ。
が微笑む。
「それなら、……よかった」
「はい。不幸中の幸いでございます」
心の主導権がようやくラビの元に帰ってきた。
「(甘いヤツさ)」
神田の言を借りるならば、そういうことだ。
馬鹿馬鹿しく、下らない、ブックマンどころかエクソシストにも不要な考えだ。
彼はラビとは違う。
その「違う」ところに「彼」が垣間見える。
「教団の神様」ではなく、「・」が。
柔らかそうに見える微笑みの裏側に、決して他人を寄せ付けない、彼が。
ラビが入り込むことが出来ないのなら、リナリーは勿論、神田やリーバー、コムイなんかも、が話さないことは何も知らないのだ。
黒の教団の仲間が、四十九番目の「ラビ」しか知らないのと同じように。
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