燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  






 11









 ローリー邸に向かうことを告げると、オリバーは気前よく馬車を出してくれた。

「一日に二度もなんて、なんか悪い気もするな」
「昨日と合わせると、三回だぜ。贅沢さぁ」

 馬車の中にいるとエゴールは少しそわそわしている。
 彼は使用人として振る舞った方が気が楽なようだ。

 屋敷の玄関から、雨に濡れた芝生を眺めながら小道を走る。
 途中の小川には絵本に出てくるような可愛らしいアーチ状の橋が架かっていて、その橋を過ぎて果樹園に囲まれたエリアを通り抜けると、ようやく大きな門に辿り着く。

「さて、ここから一時間ほどでローリー邸に到着です」

 手順を話し合っておくべきというエゴールの発言に、ラビとは素直に賛成した。
 結局、昨日の夕食前に集まって以降、三人だけでまとまって話をするという機会は全く持てなかった。
 せいぜい朝食後にラビとが軽く話した程度だ。
 聞かれて困ることではないが、気兼ねなく忖度なく、気遣いも無しで話したいことだってある。

「伯爵夫人の交霊会は、ペネロペさんが息子を恋しがってやってるもんじゃねェんさ」

 昨日の交霊会の真相をに話すと、彼は特に驚きもせず穏やかに頷いた。
 なるほど、「分かっていた」から中座したのか。

「オレらにも言ってくれりゃ良かったのに」
「あれ? 俺、言わなかったっけ?」

 聞いてねェよと言おうとして、ふと思い返す。
 は「キリのいいところで引き上げていい」と確かに言っていた。
 いやいや、だからと言ってあれで分かってたまるか。

「あんなんじゃ分かんねェよ! 前から思ってたけど、ってちょっと言葉が足んねぇんだよな」
「そう?」

 意外だ、という顔で目をぱちくりとさせているので、人差し指で頬をぶすぶすと突いてやった。

「そうさ。思ってることは言ってくれないと伝わんねェの。なぁ?」

 同意を求めた相手は控えめに笑いながら小さく頷く。
 ええええ……と声を上げながら、の手がラビの人差し指を握った。

「それは、ごめん。善処するよ……多分」
「痛い痛い痛い痛いっ!」
「先にやったのはお前だろ?」

 の方からは、ティアラがアニーをとても慕っていたこととルビーがライラに辛く当たっていた話が報告された。

「使用人達の話からも分かってたけど、あんまりいい評判を聞かねェな、ルビーの方は」
「ルビーさんは、今は行方不明なんだっけ?」
「はい。事件以降は舞台での出演もなく、劇場スタッフにも音信不通のようです」
「となると、アクマ候補としては彼女かな」
「分かんないぜ、それは。……幽霊に呪い殺されたかもしんねェし!」
「正体のアタリがついたからといってどうなる訳でもないけど」
「呼称が分かるくらいですよね」
「華麗にスルーすんのはやめて欲しいんですけど……」

 大袈裟に落ち込んでみせれば、とエゴールが声を上げて笑う。

 こうしてふざけていると、辛気臭い屋敷の話ばかりで少し気も滅入っていたことを自覚する。
 任務の前にはリフレッシュも必要なのだと思いながらひとしきり笑ったところで、生真面目な探索部隊員がメモを捲った。

「肝試しに入った人々は皆『自分の意識はある』『口から勝手に台詞が出てくる』『行動は決められている』と証言しております。イノセンスの適合者の場合どのような反応が起きるのかは、不確かです」
「一般的に、アクマの術中にエクソシストが踏み込んだ場合、一般人より悪い状況になることはないよな。アクマの能力に一般的なんて言葉を使うのが適切かは分かんねェけど」
「でも俺達とエゴールが一緒に乗り込んだら、きっとエゴールが『イスラ・フィーネ』の役になる」

 真剣な顔で、が言う。
 ラビは頷いた。
 イノセンスによる奇怪であれ、アクマの能力であれ、基本的にエクソシストは自前のイノセンスによって何らかの守護や特殊な効果が発生する場合が多い。
 そうなれば、被害と呼ばれるようなものは抵抗力を持たない探索部隊員に集中するのが道理だ。

「エゴールは外で待ってた方がいいな。出来れば門の外で」
「そうさな。気になるだろうけど、オレらの帰りを待っててもらうっつーことで」
「……お力になれないのは悔しいですが、それが、良さそうですね」

 渋々といった顔をしてはいるが、エゴールは優秀な探索部隊員だ。
 エクソシストの任務遂行の邪魔になることは全て排除する。
 それがたとえ自分自身であっても。
 その意識の高さも、きっと彼の生存率を上げるのに役立ってきたのだろう。

 伯爵邸から出ると小さな村があり、それを超えると町へ出る道がある。
 その馬車道は、途中で二股に分かれている。
 西へ伸びる道を通りしばらく進むと、見えてきたのは例の湖だ。
 向こう岸の様子を肉眼で確認できる程度の規模だが、湖底には足がつかないくらい深い。

 澄んだ湖越しに見えた赤レンガの屋敷。
 伯爵邸からすれば小ぶりに見えるが、十分立派な豪邸だ。
 湖を回り込んだところにある洒落た鉄の門の前で、馬車は静かに停まった。

「……この霧雨でも、屋敷の奇怪は起こるのかな」
「さぁな。ま、空振りだったらまた上手い飯を食ってひと休みさ」

 馬車の扉を開くと、扉の動きに合わせて雨水が滴った。
 外に出れば霧吹きを正面から浴びたように髪がしっとりと濡れる。
 ラビはバンダナからはみ出た前髪を親指と人差し指で摘み、軽く絞ってみた。
 屋敷に入る頃には水滴を絞りとることが出来そうだ。

「それでは、お二人共」

 改まった声に振り返る。
 同じように馬車から降りたエゴールが、直立不動で佇んでいた。

「僕は此方でお待ちしております。どうぞ、ご武運を」

 大きな信頼を寄せられている。

 同じくらい大きな期待と、誇りと、それを上回る憧れと、妬みや嫉み、自分への失望、やり切れない悔しさと、憤り――。

 自分はにでもなってしまったのだろうか。
 手に取るように、エゴールの心の裡が分かる。
 それほど雄弁に、彼の瞳はラビ達を真っ直ぐに見つめている。

 それに、ラビはどう答えてやればいいのか分からない。

 探索部隊員と触れ合うのは初めてではないのに。
 彼らが日頃は口に上らせない、複雑に絡み合った感情に気付いてしまっただけで。
 綺麗なだけではいられない心境に気付いてしまっただけで、どうして何も言葉が浮かばなくなるのだろう。

 どうして、はそこで微笑むことが出来るのだろう。

 言葉は要らなかった。
 彼がただ微笑んで頷くだけで良い。
 エゴールの瞳から迸る感情の飛沫を微笑みで受け止めたは、それを一滴残らず内側に飲み干した。

「ああ。いってきます」

 愚かな人間のドロドロと混じり合う感情を、ぶつけられ、擦り付けられて、その中から彼らが選び取った汚濁塗れの「願い」とやらを、掬い上げて浄め、目に見える形にする。
 そんな存在を神と呼ぶのなら、この黄金色は確かに「神」なのだ。

 もしも、彼が、歴史の中にいたならば?

 エジプトの女王の鼻の高さひとつで大地の全表面が変わるというのなら、「神様」が呼吸をしたらどうなるだろう?
 ブックマンが見てきたこれまでの記録の何れかに、もし「」が存在したならば、歴史は変わっていたのだろうか。
 愚かな人間達の無益な争いは、無くなっただろうか――。

「ラビ?」

 不意に鼻の奥がツンと痛んだ。

 の声に返事をしながら、鼻を摘んで軽く捻る。

「おう。……んじゃ、行ってくるさぁ」

 鉄の門を押し開け、草の伸び切った庭に足を踏み入れる。

 エゴールが外にいるのだから万が一にも危険がないように、と門扉を閉めるために振り返ったラビは、口をあんぐり開けた。

「おい、……門が閉まってる」
「うん、ラビ……屋敷に明かりがついてる」

 声を上げて屋敷を見れば、呆然としたの言葉通り窓に明かりがついているのが見えた。
 振り返って門扉を確認したが呟く。

「始まったか」
「無事に、って言うべき?」 
「まあ、……うん、そうだろうな」

 行こうか。

 どちらともなく声をかけ、二人は屋敷の玄関を目指す。
 門から玄関まではごくなだらかな上り坂だ。
 おそらく、門の外にある湖を屋敷の窓から眺めることの出来るように設計されているのだろう。
 エゴールが書いた間取りによれば、湖があるのは屋敷の西側で、湖に面した位置には家族それぞれの部屋がある。
 メインの庭は大広間に面した屋敷の東側、つまり裏手に広がっている。
 かつては薔薇やハーブが植えられていたが、現在では無秩序な空き地と化していたという。

 ラビとは背の低い草木に囲まれた石畳の小道を歩く。
 小道といえど、伯爵家の馬車も問題なく通り抜けられる広さがある。
 道の両脇には芝生の代わりにクローバーが敷き詰められているが、敷地の端に向かうにつれ徐々に紫色のハーブが混ざっていく。
 爽やかな香りも相俟って上品な色彩に心奪われる客も多いだろう。

 玄関には二段の階段がついたポーチがあり、それと一体化したデッキが南と西の外壁を取り囲む形で取り付けられている。

「思い付いたんだけど、手、繋いで行ってみねェ?」
「なんで? 怖いの?」
「違ェし!」

 からかうような声にムキになって返す。
 楽しそうに笑うを肘で小突いて手を差し出した。

「お互い何の役を振られるか、分かんねェだろ。手を繋いでたら、二人一役にカウントされるかも」
「それはそれで動きにくそうな気もするけどね」

 そう言いながらもはラビの手を素直に握る。
 二人一役にカウントされれば話もしやすい。
 もし、一人一役の原則ならば、手が離れた瞬間が完全に配役された瞬間ということで報告書に記す内容が増えるだろう。

 屋敷の南側にある玄関へ回り込むと、が小さく笑った。

「……人と手を繋ぐって、久し振りだ」
「え?」

 宝物を愛でるような、蕩けるような甘い表情に目を奪われる。
 彼はすぐに照れ笑いを浮かべて、首を振った。

「俺、こんな立派な屋敷を訪ねたことないんだけど、ベルを鳴らして開けてもらえばいいのかな?」

 話を逸らされたのが分かった。

「あ、ああ。多分な。オレが鳴らすよ」

 分かっても、それに拘る時間はない。
 ここはもう奇怪の只中だ。

 ラビはの手を引いてポーチの階段を上り、右手で紐を引く。

「扉の番をするやつが居てもいい気はするけど……こっちの屋敷は使用人が少ないんだっけ」
「うん。伯爵の方は凄いよな……家族の倍以上の人数がいるなんて」
「倍どころか、三倍以上さ。オレらが会えてない人もいるだろ」

 話しているうちに、扉が開く。

 少しの緊張と期待を持って見ると、執事の燕尾服を完璧に着こなしたアーロンがそこにいた。
 口笛を吹きそうになるのを何とかこらえて、親しみやすい笑顔を作る。

「どちら様でいらっしゃいますか?」
「(――ん?)」

 ラビは、握る手に力を込めて合図した。

 執事であるアーロンが「この訪問者」を知らないのであれば、ラビ達が振り分けられたのはあの日招待リストに入っていない「イスラ・フィーネ」だ。

「(いや、待て待て)」

 だとするとこの問いかけは尚更おかしい。
 アーロンはイスラを知っているはずだ。
 たとえ背後の大広間に集まった人々やルビーを欺くためとはいえ、目配せのひとつもしないものか。

 おそらく、ラビと同様にもこの状況を訝っている。
 それでも彼はなんとか朗らかに答えてみせた。

「こんな時間に申し訳ありません。修道会の仕事でこの町に来たのですが、湖に見惚れていたら雨に降られてしまって……ご迷惑でなければ、軒先で雨宿りをさせて頂けませんか?」

 奇怪に対して空気を操り丸め込もうとしているあたり、肝の据わった奴だ。
 ラビは変なところで感動した。
 の「設定」は理解した。
 ラビ達は、修道会所属の修道士。
 教団の名前は出さない、了解さ。

 丁寧な口調というだけでなく、は使う英語まで変えている。
 伯爵邸では見せなかった上流階級の話し言葉まで巧みに使って微笑む彼に、アーロンは迷惑そうな顔を微塵も見せなかった。

「それは災難でしたね。軒先と言わず、どうぞ中へお入りください」

 それどころか扉を大きく開いて、親切に中へ招き入れてくれる。

「本日は屋敷の主人の誕生日パーティーをしておりまして、少々賑やかなのですが……旦那様、少し宜しいですか」

 アーロンが振り返り声をかけた相手は、ワイングラスを手にした太鼓腹の紳士、アダムズ・ローリーだ。
 親指に嵌めた大ぶりのルビーの指輪が目を引く。

「おお、どうした。そちらの方々は?」
「『雨宿りのお客様』でございます」

 それを聞いて、屋敷の主人は目を輝かせ晴れやかな笑顔を浮かべた。

「それはいい! 誕生日に二組も『雨宿りのお客様』とは!」

 アダムズは招待客達をかき分けてラビ達のところまでやってきた。
 ラビはと繋いでいた手を離す。
 もう、こうしている意味もないだろう。

「さあさあ、こちらへ! 堅苦しいことは抜きだ。私はアダムズ。きみ達は?」
「オレはラビ、こっちは。中に入れてもらえて助かったさ」
「いいんだ、いいんだ。これも何かの縁だと思って、きみ達もパーティーに加わってくれ!」
「よろしいのですか?」
「もちろんだ! 我が家は『雨宿りのお客様』には特に親切なことで知られている。なあ?」

 彼が振り返れば、オーダーメイドではないスーツを着た若い男とその妻、季節に合わないフランネルのスーツを着た壮年の男とその妻が賛同した。

「アダムズの親切さに、乾杯!」

 陽気に音頭をとったのは脚本家のオスカー・メイソンは、イタリア風の洒落たしなやかなジャケットを着ている。
 その横でグラスを上げ微笑むのはオリバー・ストーンとペネロペの伯爵夫妻だ。

「――乾杯」

 ペネロペの隣で、真っ黒なドレスに緩く巻いた赤毛をひと房垂らしたつり目の美女がルビー・イヴリン。
 そしてその隣には、戸惑った表情でグラスを掲げるエゴールの姿があった。






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