燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
06
は、階段を上がるティアラを呼び止める。
「わたくしに御用ですか?」
「ちょっと、話を聞かせてもらってもいいかな」
「お話なら食堂でいたしましたわ」
「あれはきみのお父さんが主役だったろう。ティアラだって、お父さんの話を聞きたいって言ってたじゃないか」
大広間を横切るのに随分な時間が必要だった。
広すぎるし、駆け抜けるには豪華な物が多すぎる。
まったく、階段の両脇に置かれた花瓶だって、片方だけでクロスの借用書何枚分の値打ちがあるのだろう。
絶対に粗相は出来ない。
「わたくしは事件を見てもいませんのよ。話せることなんて、ございませんわ」
「でも、話したいことがあったよね」
ティアラが小さく息を呑む。
こういう反応は、にとって馴染み深いものだ。
「ティアラ、俺と内緒話をしよう。ご両親にも、学校の友達にも絶対言えないような……例えば、犯人についての話とかさ」
階上で追いつくと、彼女は一歩身を引いた。
空気が嘆く。
もよく知る悔恨の念が渦巻いている。
ティアラはまだ父親ほど貴族らしく割り切ることができていない。
けれど、割り切って令嬢らしくあるべきだと思っている気丈な少女だ。
そうあるが故に、彼女は滲み出る苦しみを口に上らせることが出来ない。
「俺はきみの家族でもお友達でも、この土地の人間でもないからさ」
向ける先のない後悔と、助けを必要とする手があるのなら、それを取って安心させてやるべきだ。
「――大丈夫、教会で懺悔するようなものだと思えばいい」
桜色の唇を噛み締めたティアラは、泣きそうな目を伏せて少し俯いた。
「……侍女を呼ぶから、少しだけお待ちいただける? 男の子と二人きりなんて、スキャンダルだもの……」
責任感の強い子だな。
内心で呟いて、はしばらく階段の傍で待つことにした。
階段は屋敷の西側にあるが、ティアラの部屋は向かいの東側に面している。
吹き抜け越しに廊下を眺める。
この階の廊下は、吹き抜けを囲むように設計されているが、完全な回廊ではない。
玄関ホールの上部にあたる南の部屋に突き当たるように、西、北、東の廊下がアルファベットのUに似た形で繋がっている。
西の廊下の突き当たりは、ラビに割り当てられた部屋だ。
ティアラが部屋に入って少しすると、エゴールに割り当てられた部屋の隣の扉、使用人の階段室から盆と茶器を持った一人の少女が出てきた。
栗色の髪を一つに束ねた少女はに気付くと軽い会釈をし、足早にティアラの部屋へ向かう。
ノックをして中に入ったところを見ると、彼女が侍女なのだろう。
見たところ、達と同じくらいの年頃のようだった。
侍女を伴って部屋から出てきたティアラの目配せに従い、は廊下を進んだ。
「わたくしの侍女のポピーですわ。ポピー、彼は教団のエクソシストの・様よ」
「ポピー・パーソンと申します。お嬢様のお世話をしております」
「初めまして、俺は。よろしく」
学校でもティアラの供をしているというポピーは、よりも身長は低いが、姿勢が良いために実際よりも背が高く見える。
ティアラはポピーとを伴って、東の突き当たりの部屋へ進む。
ポピーが進み出て、その部屋の鍵を開けた。
「ここは?」
「ヘンリーお兄様のお部屋ですわ。お入りになって」
「勝手に入って大丈夫?」
「ポピーが鍵を持ち出せるお部屋は、わたくしの入室も認められておりますの。さあ、どうぞ」
ポピーが扉を押さえている。
ティアラに続いて、は部屋の中に入った。
自分に割り当てられた客室と同じ広さの部屋だが、こちらは生活感がある。
蓋を上部に巻き込んで仕舞う形のデスクが、開かれたままになっている。
デスクの天板には栞の挟まった本が置かれているし、ペンが一本出しっ放しになっている。
部屋の主がもう六年も戻っていないはずなのに、まるで今朝までこの部屋にヘンリー・ストーンが寝起きしていたようだ。
「お兄様は机の上を触られるのがお嫌いだったの。だからそのままなのよ」
の視線を辿ったティアラが、砕けた口調でそう言った。
彼女はにデスク脇の椅子を勧め、自分は火の入っていない暖炉の前の安楽椅子に座る。
は団服を着込んでいるのであまり感じなかったが、七月とはいえ、夜はドレス一枚では冷えるのだろう。
ティアラの肩に、ポピーがそっとショールを掛けた。
丸テーブルで手際よく淹れられた紅茶がティアラとの前に静かに置かれた。
「どうぞ召し上がって。……それで、わたくしは何を話せばよろしいのかしら」
つんと澄ました顔を背けて言うティアラはいじらしくて、それこそ「普通」の少女のようだ。
「(……いや、別に俺も「普通」に詳しいわけじゃないけど)」
自分で考えたことに自分で笑ってしまう。
当然、ティアラからすれば自分の言葉に対して笑われたように見えたことだろう。
彼女が鼻白むのはもっともだ。
ごめん、と謝ってから記憶を辿る。
ティアラは、食堂で三度、感情を昂らせた。
一度目は、あの日の自分が家で留守番をしていたことを思い返した時。
三度目は、幽霊騒動を解決する必要性について語った時。
そのどちらもが本人に直接関係することなので、は特に疑問には思わなかった。
「きみが話したいことを話してくれればいいんだけど」
ただし、二度目の話題は他のふたつと理由が異なると感じた。
「ローリー家のメイド、……ライラって言ったっけ。彼女に会ったことはある?」
首を傾けた拍子に彼女のプラチナブロンドが肩をするりと流れる。
きっとまったく癖がつかない髪質なのだろう。
は、そういう少女を知っていた。
「もちろんですわ。ローリー家とは家族ぐるみのお付き合いがございましたのよ。わたくしは、あの日行けなかっただけだもの」
「じゃあ、きみから見てライラはどんなメイドだった? ……違うな。きみは、ライラがお兄さん達を殺した犯人だと思ってる?」
深い夜を思わせる濃い紫のドレスは、まるで子供の頃に読んだ物語の中の影の妖精のようで、とてもよく似合っている。
このドレスは、「あの子」にもきっと似合っただろう。
「――いいえ、断じて」
「きっぱり言い切ったね」
ティアラはソーサーを持ち上げ、一度紅茶を口に含んだ。
「ライラは、アニーお姉さまのことを大切に思っていましたもの」
話題にしたメイドではなく、死んだ令嬢の名前が出てきた。
伯爵家の跡取りと婚約関係にあった少女のことだ。
も紅茶を一口飲む。
ダージリンだ。
さっぱりとした香りが鼻を抜け、集中を欠いていたことを自覚させた。
「わたくしもお姉さまが大好きでした。あんな事件がなければ、きっと今頃はヘンリーお兄様と結婚して、この屋敷でわたくしの本当のお姉さまになってくださっていたはずです」
「アニーは優しい人だったの?」
「……わたくしの憧れでした」
ショールの端についた房を、彼女はくるくると指で弄ぶ。
「お姉さまは、ルビー様と違って純粋で正直な方。お父様はきっと知らなかったのだわ、……ルビー様はライラを虐めていたのです。お姉さまはいつもライラを庇って、明るく慰めていらして。お母様であるルビー様には表立って反発することは出来なかったのですけれど、かと言って、お姉さまはルビー様と一緒になってライラを嘲笑ったりはしませんでしたわ」
ルビー・イヴリン。
アニーの母、ローリー家の夫人で、人気の舞台女優だった人物のことだ。
一夜にして子供達と夫を亡くしたルビーの消息は、エゴールでも掴めなかったという。
事件当夜、彼女がライラを犯人と名指ししたこと。
そして、翌朝警察が訪れてライラを逮捕し、来客が全て引き上げていくなり執事と料理人、家庭教師を解雇して屋敷から追い出したこと。
それ以降忽然と姿を消したことだけが分かっている。
ティアラは顔を顰めた。
「あの女優には、母もかなり入れ込んでおりました」
ねえ? と見上げられたポピーは、眉を寄せて複雑に口元を曲げ、同意した。
「お嬢様がアニー様に憧れる以上に、奥様はイヴリン様を崇拝していらっしゃいましたね」
「あの方は、心の底から女優でした。外で見せる顔と、お家の中で見せる顔が全く違うのですわ。アニーお姉さまもおっしゃっていました。ご自分を着飾ることばかり考えているんですって。お姉さまやライアンお兄様のご教育に力を入れるのも、我が家との婚約も、ルビー様にとってはご自分を飾るアクセサリーに過ぎないのですわ」
「……じゃあ、メイドのライラもアクセサリー扱いってこと?」
「違うわ」
ティアラがショールの房を握り締める。
「ライラを見すぼらしくさせて隣に置いておけば、ルビー様の美しさが際立つから」
は言葉を探して瞬きをした。
「は、……何それ?」
「子供みたいで馬鹿げているって、お思いになるでしょ? でも、お姉さまはそうおっしゃっていた。わたくしも、やっぱり、そう思う」
興奮のせいか、ティアラの口調はすっかり乱れている。
「ルビー様は確かにお美しい方だったわ。隣に引き立て役なんていなくても、誰もその美しさを損なわないのに。ライラには、顔に大きな傷があったのよ。彼女はそれを化粧で隠したいとお願いしたそうなのだけれど、それをルビー様は跳ね除けたの! ましてやその傷を人前で嘲るなんて、あんまりな仕打ちだわ。気味が悪いと言うのなら、傍に置かず屋敷を追い出してしまえばいいのに。それなのに、そうしないのは……。わたくし、それを聞いてから、ルビー様のこと……嫌いになりました」
ふうっ、と溜め息をついたティアラはティーカップを取り、その縁越しにを見上げた。
この少女はお綺麗な言葉よりも、目で、表情で、仕草で、雄弁に語る。
彼女の躊躇いを払拭するために、は微笑んでみせる。
彼女の瞳を捕らえて、彼女とは反対にすうっと空気を吸い込めば、この場は簡単に小さな教会になった。
「……あの朝は、起きたら何もかも変わっていたわ」
空気に引きずられるように口を開いて、ティアラは呟く。
「ベルを鳴らして呼んでも誰も部屋に来ないから、寝巻きのまま部屋を出たのよ。下の広間が騒がしくて。お母様が床に座り込むところも、お父様が当たり構わず怒鳴り散らしているところも、わたくし、初めて見たわ」
ポピーがティアラの肩にそっと手を添えた。
椅子に座り直して、は先を促す。
ティアラは、六年前の事件を知らない代わりに、事件に関わった者達を一番近くで見ていた。
「お兄様達は、一緒には帰ってこなかったの。検証のために警察が遺体を預かったのですけれど、……それに何の意味があったと言うのかしら。警察はとっくにルビー様の証言を容れて、ライラを犯人だと決めつけていたのよ。形だけの検証なんてするくらいなら、お姉さまと、ライアン様と、お兄様達を生き返らせてくださればよかったのに」
「……ティアラ、それは、」
「分かっていますわ。冗談よ。本気になんて、なさらないで」
零れた涙を指で拭って隠し、彼女は微笑む。
「なら、いいんだけど。……確認していいかな、ライラを告発したのがルビーさんだというのは、確かなのか?」
涙を拭うので精一杯のティアラに代わり、彼女の背を宥めるポピーが頷いた。
「発言をお許しくださいませ。この屋敷の者達はみな、旦那様からそのように伺いました」
「ライラを告発して、それ以降、誰かルビー・イヴリンを見かけた人はいる?」
「覚えがありません」
答えてからポピーは細い目を見開き、口許に手を当てる。
「……ええ、そうですね、あの屋敷の使用人だった三人は、事件の後にすぐさま解雇されてしまったのです」
「余所の家の事なのに、よく知ってるね」
「紹介状も持たされず放り出された三人の就職を手助けしたのが、旦那様なのですから。あの時は階下の私共も大騒ぎでございました」
「そのうちの二人は、いま我が家で働いてもらっているわ」
ティアラが鼻を啜る。
ポピーがハンカチを差し出すと、片手でそれを受け取った。
「明日にでも話を聞いてみたらどうかしら。わたくしの家庭教師のテイラーさんと、お父様の従者のアーロンさんよ」
「そうしてみるよ」
頭の中で、明日の予定を組み上げる。
別に、誰がどのような経緯でアクマになっていようが、とラビのやることは変わらない。
けれど成り行きを分かっていた方が奇怪の中で動きやすくなるはずだし、状況の変化を察知するのも容易いだろう。
それを思うと、元ローリー家の使用人達の話も、懲役中のライラの話も聞いておきたい。
任務は天気次第だろうが、明日は夕暮れまで忙しそうだ。
はふと顔を上げた。
ティアラが目を上げて、宙を見ていた。
「わたくし……、分かったわ」
小さな声で呟いたティアラは、ハンカチを頬に当てながら微笑む。
「様。わたくしが、一人生き残ったから辛く思っている、なんて、思っていたでしょ?」
は一度口を結んだ。
そして、頷く。
「うん、そう感じた」
「そうだったの。食堂でお話ししていた時は、わたくし、確かにそう思っていた。あなた、不思議な方ね。どうしてお分かりになったのかしら?」
笑顔を返して答えをはぐらかす。
ふふ、と笑みを零すのに合わせて、彼女の目から涙が溢れる。
人の悲しみは、比べるものではない。
けれど、今目の前で開かれたのは、最も新しく、深い傷だった。
それは、弟を亡くして間もないアマリエよりも新しく、たった今切り裂かれた生々しい傷。
あまりにも新しい傷口からは、真っ赤な血が溢れるまでにまだ時間がかかる。
「今話していて、気付いたの……わたくし、お兄様のことよりもずっとずっと、お姉さまを失ったことが悲しかったんだわ」
わっと声を上げてティアラは泣き出した。
「……大好きだった。お姉さまのようになりたかった。わたし、昔はこんなふうにお喋りなんて出来なかった。初対面の人とだけじゃない、誰とでもよ。お姉さまはわたしにお喋りをさせるのが得意だったの」
しゃくり上げる彼女の背をポピーがさする。
「あの方のようになりたくて頑張ったの、頑張っている、今も! 勇敢な方だった。学校には、身分を上げようという野心を嫌がるお友達もいるけど……わたし、そうは思わない。お姉さまは、少しも卑しくなんかなかったわ。お姉さまが今のわたしと同じ立場に置かれたなら、きっと、ご自分で家督を継ぐ覚悟をお持ちになったはず。だから、わたし、……頑張っているの! どうしてお姉さまが、殺されなければならなかったの……!」
捲し立て、ティアラはハンカチとドレスをくしゃくしゃに握り締めた。
ポピーが狼狽えているのは、彼女の主人があまりにも激しく泣いているからだろうか。
は席を立って彼女の前に膝をついた。
せっかくのドレスを皺にする傷一つない手に、そっと手を添える。
「内緒話をしようと、言ったのは、あなたよっ……」
「ああ、そうだよ。だから、いいんだ」
「わたしは薄情だわ、こんな……薄情だわ、ヘンリーの部屋で、こんなこと、気付いてはいけなかった」
「きみは決して薄情なんかじゃない」
ぐっと手を握ると、彼女は唇を噛んだ。
「薄情よ」
「いいや。食堂で思っていた気持ちは、嘘なんかじゃなかった」
「嘘だったかもしれないわ。自分の本当の気持ちを知らなかっただけ」
「嘘じゃない」
「何であなたに分かるの!? わたしにもわたしの気持ちが分からなかったのに!」
「分かるよ」
は首を振り、ゆっくりと息を吸い込む。
ティアラとポピーの周囲の空気を引き寄せる。
「お兄さん達が死んだことは悲しくて、一人生き残ったことが申し訳なくて、それが誰に対する申し訳なさかも分からなくって。それに……お兄さんに、何か後悔をしている」
鼻を啜るティアラの目を、一度見上げる。
「けれど、だからといってきみが薄情だということにはならない。悲しみに違いはないんだ。アニーについて、今、これまで以上に苦しく感じているのは、それが六年も閉じ込められてきた気持ちだからだ」
彼女は細く唇を開き、声を震わせた。
「わ、わたし……ヘンリーとフィナスに、ずるい、大っ嫌い、って……言って、見送ったの」
「そうだね。ティアラだってパーティーに行きたかったんだから。具合も悪い時に感情が昂ったら、つい口から強い言葉が出ちゃうこともある」
「うん……」
「お嬢様は、アニー様とお喋りするのを、楽しみにしていらっしゃいました」
ポピーの声も震えている。
「アニー様とお喋りしているときのお嬢様は、本当に楽しそうで。私は、今に至るまで、あれ以上に楽しそうなお嬢様を見たことがございません」
は頷く。
「ティアラ、きみの気持ちに何ひとつ嘘はない。大丈夫、許される。大丈夫だ。――赦すよ」
「彼女」とよく似た、けれど全く違う淡い紫の瞳が、瞼に隠されて雫を零した。
彼女は頷く。
「お姉さまを、何度もお辛い目に遭わせたくない」
銀色の睫毛に涙の粒を乗せて、ティアラがを見据えた。
「幽霊だろうが、アクマだろうが、どちらでもいいから……お姉さまを、あの屋敷から解放して」
「彼女」に泣かれるのは、苦手だった。
ありのままを手放しで受け入れてくれる夢みたいな優しさを、自分で、自分が、壊してしまったみたいで。
この子が「あの子」でなくとも、やっぱり、泣かれるのは辛い。
だから。
「分かったよ」
柄にもなく、叶えられるかも分からない約束をしてしまったのだ。
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