燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  






 04









 食堂の大きな窓からは、庭の噴水が見える。

 結局この時間まで雨は降らなかった。
 この様子では、今夜は奇怪も起こらないだろう。

「(貴族の屋敷ってのは、どこもこんなに広いのかね)」

 ラビはローストビーフを頬張りながらふと庭を眺めた。
 今日はラビ達三人が来ているし、客を招いて晩餐会をすることもあるのだから、食堂にもこの広さがあって然るべきなのだろう。
 けれど、ラビが人の多い教団での生活に慣れているからか。
 この広い屋敷、この広い部屋で、たった三人きりで夕食をとる日を思うと、少し物悲しい。

「今日は普段より少々軽めのディナーなのだが、足りなければ遠慮なくお代わりしてください」
「ありがとう。気を遣わせてしまってすみません」
「なに、お客様の好みを伺っておくのは当然のことなのでね」

 の前には、肉の代わりに潰した大豆を使った創作料理が出されていた。
 盛り付けも巧みで、他の皿との見た目も大差ない。
 一品目から驚いていたは、今はラビと同じようにローストビーフ風豆料理を遠慮なく頬張っている。

 噂の教団の神様を正面に座らせ、オリバーはまだ少し緊張するらしい。
 先程の居間での様子と随分違っていて、ラビは小さく笑ってしまった。
 の隣席にいるティアラに緊張している様子がないのが逆に新鮮に見える。
 探索部隊員だって、よほど親しくなければ「神様」の隣席で食事など、喉も通らないだろうに。
 ナプキンで軽く口を拭いた少女が笑う。

「男の子って、たくさん召し上がるのね。ラビ様も、様も」
「同い年なんだから、『様』なんてつけなくたって、なぁ?」
「うん。気にしなくていいのに」
「ちっともよろしくないのですわ。学校ではお友達のことも丁寧にお呼びしますの。そうしなければ、罰則ですのよ。お行儀が悪いって」

 ぷん、と頬を膨らませるのはお行儀の面から見て良いのだろうか。
 ふとが訊ねた。

「学校ってどんなところ?」
「そういや、オレも知らねェさ。まともに行ったことないもんな」

 エクソシストの中に、就学経験のある者はどれほどいるのだろう。
 たとえばマリは音楽家でもあることだし、ひょっとすると故郷で学業に励んだかもしれない。
 否、彼も十代の頃には既に教団に関わっていたはずだ。
 或いは、スーマン。
 彼なんかは結婚して子供が生まれるまで教団とは関わりのない生活をしていた。

 ティアラは口を開けたまま固まっている。
 ラビの隣席で、ペネロペも「まあ」と呟いたきりだ。

 「こんな席で食事なんて本当におこがましい」と言ってひっそり座っていたエゴールが、普段通りの冷静さでフォークを置いた。

「黒の教団には様々な国籍や身分の人間が集まっておりますので、学校に通ったことのない団員も多いのですよ」
「では、あの、お二人はお勉強はなさらないの?」
「お勉強は俺達の仕事じゃないから……でも、色んな分野の学者がいるんだ」

 丁寧ながら興味深く見上げるティアラに、が誇らしげに微笑む。

「科学班っていうサポーター達なんだけど、そこの学者さん達が専門分野を教えてくれることもあるよ」

 デザートのアイスクリームが運ばれてくる。

「わたくしの学校より、よっぽど『お勉強』らしいことをしていらっしゃいますのね……」
「学校って勉強する所じゃないの?」
「いたしますわ。けれど、わたくしの学校は花嫁修行の学校なのです」
「……行儀作法の勉強をするってことさ?」

 ティアラが頷いた。ペネロペがアイスクリームを勧める。

「さあさ、溶ける前に召し上がって。――学校にも色々なものがございますの、音楽やバレエを習う学校なんかもあるのですよ」
「私が通った学校は、大きな教室で授業を受けたなぁ。丸い教室で、座席は階段状に並べられていてね」
「……何で階段の形? 勉強するには机と椅子を並べれば十分だと思うんだけど」
「授業によっては生徒が数十人集まり、一人の教授から講義を受けるのだよ」

 オリバーの経験にエゴールが補足すると、伯爵は機嫌よく頷いた。

「そうそう。教授が黒板にかいた授業内容を後ろの席から見るには、その形が適しているのだ。エゴールくんは学校に通ったことが?」
「幼い頃にスイスで暮らしておりましたので、そちらで少々」
「スイスといえば、有名な寄宿学校があるな。もしかして……?」
「お話中失礼いたします」

 扉の方に顔を向けると、ブレイクが一礼してペネロペに向き直った。

「スーザン・エレジー様、ご到着です」
「まあ、まあ!」

 歓声を上げてペネロペは立ち上がる。
 おっと、とラビは彼女のために自分の椅子を引いたが、考えてみたらこの部屋は広いのだ。
 そんなことをしなくとも、十分にドレスが通り過ぎる余地はある。

「お客さんか?」

 背中に声をかけると、くるりと振り返ったペネロペは少女のように笑った。

「最近ロンドンで話題の霊能者の方よ。この後、応接間で交霊会を行う予定ですの。ラビ様達も、ぜひいらっしゃって!」

 そちらから持ちかけてもらえるとは。ラビとは顔を見合わせて大きく頷いた。

「んじゃ、隅っこで参加させてもらうさ」
「是非お邪魔させてください」
「もちろんよ! あなた、わたくしはご挨拶に参りますけれど」
「きみに任せるよ。私はエクソシスト様方と少し話をしてから行く」

 踊るように部屋を出ていったペネロペの後ろ姿に、ティアラが小さな溜息をつく。
 すぐに取り澄まして淑女らしく口元を引き上げた。

「ごめんあそばせ」
「いや、……ちょうど良かった」

 そう応じたの声からも微笑からも温かさは消えていないのに、空気がきりりと引き締まる。
 ティアラは目を丸くしてスプーンを置き、オリバーは再び気圧されたように背筋を伸ばした。
 ラビも膝に置いていたナプキンを取り払い、テーブルに乗せた。

「そうさな。食事中にこんな話もどうかと思ったし」
「改めまして、過去の事件のお話を伺ってもよろしいでしょうか」

 すっかり仕事モードのエゴールも、手帳を持って身を乗り出した。



 ***



 運ばれてきた紅茶を一口舐めるように飲んで、オリバーは注意深く視線を彷徨わせた。

「ティアラ、お前はお母様と一緒に……」
「いいえ。わたくしだって詳しいことは存じませんのよ、この機会にお聞かせくださいな、お父様」

 娘の方がよほど肝が据わっている。

 ラビは椅子に座り直し、体ごと右隣のオリバーに注目した。

「えーっと? オリバーさんが警察を呼んで、説明したっていうふうに聞いてるけど」
「ああ、そうだ、私が。……どのように説明したらいいだろうか」
「お好きなように。俺は、貴方から事件がどう見えていたのか知りたいな」
「どう見えるも、何も、……事実しかないんだ。ローリー家のパーティーに出席したら、子供達が亡くなって、屋敷の中から次々に死体が見つかったという……それだけなんだ」

 肩を落としたオリバーは、小さく見える。

「あの日は、アダムズ……アダムズ・ローリーの誕生日祝いをするために屋敷に行ったんだ。雨の晩だ。最初は雨だったが、夜が深まるにつれて嵐になっていた」

 エゴールが手帳からローリー邸の見取り図を取り出して立ち上がると、心得たようにブレイクや下僕がテーブルの食器を片付けた。
 広げた図面を見渡すオリバーの顔は、険しい。

「嫌な思い出だ……」
「何度も掘り返してすみません」
「いや、依頼したのはこちらだ。構わんよ」

 玄関の大広間をオリバーの指が示す。

「ローリー家は資産家だが、屋敷は我が家ほどの広さはではないのだ。玄関ホールが大広間を兼ねていて、我々はこの大広間で食事会をしていた。私と妻、アダムズの部下の夫婦が……二組。アダムズの妻ルビーの客で、脚本家のオスカー。ルビーは有名な女優だったんだ、ご存知かな?」

 舞台女優ルビー・イヴリン。

 ラビは幼い頃にその名を何度か新聞で目にしている。
 当時イギリス中の舞台を席巻した人気女優だ。

 とエゴールはきっぱりと首を振った。
 は興味がなさそうだし、エゴールはその頃にはもう教団に入団してアクマへの復讐に燃えていた頃だ。

「オスカーはルビーの舞台の脚本を何度か書いていたんだよ。彼も若いが将来有望な、才能ある脚本家だったね。それと、私達家族が到着したすぐ後に、女性が一人訪ねてきた」
「この女性……イスラ・フィーネですね」

 そう言いながらエゴールが見取り図の隣に広げたのは、関係者リストだ。

 ローリー家当主のアダムズ、妻のルビー、アダムズの部下のマックス夫妻とハーヴィー夫妻、脚本家のオスカー・メイソン。
 そして、突然の来訪者イスラ・フィーネが大広間の客だ。
 一方で、リストには他にローリー家の使用人が四人と、子供達の名前も記されている。

「パーティーって、飛び入り参加できるものなの?」
「いいや、普通はしない。ただ、ローリー家と我が家にはある因縁があってね。私の父が少年だった頃、ローリー家の前の湖で釣りをしていたんだ。そうしたら、急にひどい雨に降られてしまった。困っていたところにアダムズの祖父が声をかけて、雨宿りをさせてくれたのだよ。それが、領主の息子とも知らないで」
「それがきっかけで、ローリー家と親しくなったんですね」
「ああ。私の祖父も父もあの家には感謝していてね。アダムズの父が銀行を起こすと聞いたときには一番に援助をしたのさ。それからローリー家は『雨宿りにきた客を決して断らない』ことにしていたんだよ」

 ラビはなるほど、と下唇を摘まむ。

「つまりそのイスラって人は、『雨宿りに来た』ってワケ」
「そう、そうなんだ」

 が腕を組んだ。

「……パーティーが始まったのって、夜だよな。湖で釣りをしている男の子なら分かるよ。でも女性がそんな時間に一人で出歩くか?」

 目を丸くしたアダムズは、テーブルに身を乗り出した。

「確かにそうだ。……フィーネ……イスラ・フィーネ……領内でも特に名前を聞いたことがない。そうだ、彼女はこの町の人ではないと言っていた」

 隣の空席に置いていた警察資料を手に取り、エゴールが確認をする。

「イスラ・フィーネはロンドン在住だったようです。あの日はこの地域に旅行に来ていたとか?」
「ああ、確かそうだ。なんでも、湖が綺麗だと噂を聞いたとかで。……自分の領地を褒められて、悪い気はしないからね。覚えている。そんな訳で、彼女の飛び入り参加が許されたのだ」
「飛び入りの客は大広間に通されてるってのに、子供達は隣の居間で事件に遭ってんだよな。何で別の部屋にいたんさ?」
「普通、パーティーには子供を同席させないものなのさ。ただ、あの日は無礼講だったからね。我が家の長男と、ローリー家の長女は婚約する予定でもあったので、子供達もと招かれていたのだ」
「ヘンリー・ストーン様と、アニー・ローリー様のことですね」

 伯爵家の長男はヘンリー、次男がフィナス。ローリー家の長女はアニー、弟の長男はライアンという。

「四人は居間の方で食事をしたり、楽しんでいた。……せめて楽しんでいたのだと思いたい」
「その時ティアラはどこにいたの?」

 が訊ねると、彼女は硬い声で答えた。

「わたくしはその日、風邪をひいていましたの。屋敷で侍女のポピーと一緒にお留守番でした」
「そうか。……それは、つらかったね」

 言葉が持つ力は大きい。それがの言葉なら、なおさら。

 叱られた子供のような表情をしていたティアラは、付け足された一言でふ、と体の力を抜いた。
 それまで背筋を伸ばして姿勢良く座っていた彼女の肩が下がり、安堵したように丸くなる。

 ラビにだって分かる。
 恐らくエゴールの方がラビよりも彼女の気持ちを理解できるだろう。
 三人の子供のうち、ひとり生き残った少女のやり切れない気持ちは、黒の教団に所属する者なら身に覚えがあるものだ。
 当然、この部屋の空気を引き締め掌握したには難なくその思いを捕捉されている。
 彼の眼差しを直に受け止めたならば、当然、言葉と微笑に込められた赦しも彼女に届いているだろう。

 けれど、ティアラはすぐに気を引き締めて姿勢を戻し、黙って頷いた。

 隣の居間から大広間に繋がる扉が開けられているからか、来客達の声が聞こえてくる。

「……食事の間は、特に事件は起きなかったのですよね」

 エゴールが話を続けると、オリバーがすぐに応じた。

「ああ。突然の来客だったイスラも含めて、子供達も大人達も十分にディナーを楽しんだ。その後だ……人の出入りが激しく、私も詳細に覚えているわけではないのだが」
「大まかでオッケーさ」
「女性陣は化粧を直すと言って席を外した。アダムズも、それからオスカーも、いつの間にかいなくなっていた。それから……すまない、それからは本当に記憶が曖昧なんだ……」

 ぐい、と紅茶を飲み干して、オリバーは頭を抱える。
 ティアラが父親の顔を覗き込み、助けを求めるようにエゴールを見上げた。
 視線を受けたエゴールは手帳をめくる。

「ベリル卿、貴方はこのように証言されています。――アニー様が居間を出ていき、駆け戻ってきたのを見たと。それから程なくして、メイドのライラさんが運んだ紅茶を口にし、お子様方が突然食事を吐き戻されたと」
「……そうだ」

 それこそ吐き気を抑えるようにオリバーが口許を手で押さえた。

「メイドのライラの声がした。テイラーさん……家庭教師のテイラーさんの声もした」

 ラビは念のためリストを確認した。
 サマンサ・テイラー、ローリー家の姉弟の家庭教師を務めた女性だ。

「尋常じゃない騒ぎだった。私は慌てて居間に駆け込んで、息子達が吐き戻しているのを見たんだ。血の色も見えて、ペネロペは自分も倒れそうになっていた。急いで医者を呼ぼうとしたが、その頃には外は嵐で。……この町には電話がなかったのだ。私は、そんなもの必要ないと思っていて……あの後すぐに政府に掛け合ったよ」

 自嘲する声だった。

「思いついたのが、我が家だ。ティアラの為に医者を家に呼んでいたから。仕方なしに馬車を走らせて、ドクターを連れてくるよう頼んだが、そうこうしている間にも、子供達はどんどんぐったりしていく。一番酷かったのがアニーでね……それなのに、どこを見てもアダムズがいないときた。男性陣で手分けして屋敷を見て回ると、二階のアダムズの寝室は、扉が半開きになっていた。中に入ると……そこに、アダムズとオスカーの死体があったのだ」
「犯人はメイドだってことになってんだよな、たしか」

 問いかけると、オリバーは畏まった顔で頷いた。

「ライラ。ヘンリーと同じ年齢の働き者のメイドだった。医者が到着して、けれど甲斐なく子供達が力尽きるまで、献身的に看病をしてくれたのだが……。まさか犯人だったとは、驚いたよ」

 六年前の事件の犯人として逮捕されたのは、ローリー家のメイドとして働いていたライラ・ジョンソンだ。
 ルビー・イヴリンの告発と、子供達が飲んだ紅茶のティーポットから毒物が検出されたということが決め手となり、居間へ食事や飲み物を運んだライラが逮捕、投獄された。

 犯人逮捕までが迅速だったのは、伯爵家が被害を受けた事件だからだ。

「このライラってメイドにアダムズやオスカーを殺してるヒマなんてあったと思うか?」
「思わない。……息子らの件は、ともかく」

 の目が不意にティアラに移り、それからオリバーを射抜くように見据える。

「ライラは絞首刑を免れていますね。伯爵であり、遺族でもある貴方が、そう口添えしたからだ。……どうして庇うんですか?」

 この神様は、怖い。
 ラビは時折そう思う。

 姿を見ることも声を聞くこともできない信仰上の神仏は、個人の心情次第でさまざまな姿に変化する。
 慈悲を感じる者もいれば、憎悪を覚える者もいる。
 当人の心の向きによって、都合のいい存在になってくれる。

 けれど、この神様は目の前に「在る」。
 しかも、彼は空気と感情を支配して、信者に考える隙を与えない。

 他者の心を直接揺さぶることが出来るその力量をはっきりと示し、また本人も自覚していながら、突然、自分の感情を綺麗さっぱり隠して微笑んでみせる。

「貴方の大切な息子を殺した女だ。ヘンリーは跡継ぎでもあったはず。憎いでしょう?」

 微笑んで信者の解釈を揺さぶり、本心を試すのだ。

「憎いに決まっている」

 真正面からその微笑みを受けたオリバーは、しかし、初めて「教団の神様」を跳ね返した。

「ただ、あり得ない罪を人になすりつけるほど、私は恥知らずではない。彼女に二階に上がるような時間はなかったはずだ」

 胸を張って強い声で言い切った姿には、好感が持てる。

「すみません、無礼な質問でしたね」

 も穏やかに謝罪する。

 オリバーが真っ直ぐな心根の持ち主であることは分かったが、残念ながらそれだけではラビ達の疑問は解決しない。

「メイドのこと、見張ってた訳じゃないんだろ? どうしてそんなにキッパリ言い切れんのかな。オレからしたら疑問さ。それにそもそも――いや、待って、言わせてもらう」

 答えようとするオリバーを遮る。
 一番聞きたいところを、誤魔化される訳にはいかない。

 通された客室で風呂に入りながら、ラビは自分なりに考えた。

 此処はイギリス。
 幽霊屋敷自体は特に珍しいものでもない。
 放置した所でこの領地に悪評が立つ恐れはないし、住人が逃げ出し税収が減るような危険もない。
 むしろ、観光地に仕立てて集客を狙うこともできる。

 もちろん、今生きている人間の過去の姿が幽霊屋敷に現れるというのは稀な例だし、複雑な気持ちだろう。
 子供を失う悲しみを掘り返されるのも当然苦痛なのだから、そんな現場で金稼ぎをするつもりがないのは理解する。

 そのまま悲しみには触れずにいる選択肢もあったはずだ。
 現に、幽霊屋敷で人が消える事件は五年半にわたって放置されてきた。

「幽霊屋敷をそのままにしておけない理由は何だ? 五年以上放っておいたクセに、なんで今更解決する気になったんさ?」

 痛いところを的確に突くことが出来れば、神様でもないラビの左目だって相手の動きを制することができる。
 オリバーの喉仏がごくりと上下した。

「……ローリー邸のメイドは、ライラひとりだった。ルビーは派手な仕事の割に倹約家だ。ライラは我が家のメイド達と違って家事も女主人の世話も一手に担っていた。あの日も、彼女に余計なことをしている暇なんてものはなかった筈なのだ。けれど、その忙しさに嫌気がさした可能性はあるかもしれないし……」
「では、幽霊屋敷をそのままにできない理由は? 見られては困るものでもあったんですか?」

 が訊ねると、オリバーは眉を下げて困り果てた顔で押し黙った。

 唇を噛んでいたティアラが代わって口を開く。

「わたくしの社交界デビューが近いからですわ」
「どゆこと?」

 全く関係のない話が差し挟まる。
 ラビが促すと、ティアラは薄い手袋に包まれた手を胸元に当てて深呼吸をした。
 拳を握り、決意したようにその手を膝に戻す。

「わたくしの兄は……フィナスは、妹のわたくしから見ましてもお気立てに難がおありでした。ええ、有り体に申しますと、とにかく意地悪でした」
「げ。そりゃあ、なんつーか、うん、大変だったな」
「遠い、良き思い出です。けれど、近頃あのお屋敷に忍び込み、生きて帰ってきた方々がおっしゃるのです。兄が、ローリー家のライアン様を虐めていたようだ、と」
「外聞は良くないね」
「この家の跡取りだったのは長兄のヘンリーです。彼が亡くなった今、爵位や資産はわたくしが継承します。良縁を求めるためには少しの瑕疵も許されないのですって。そうでしたよね、お父様」

 娘の告発に、神様の視線。

 裏切ることの出来ない重圧に、オリバーは小さく身を縮ませた。

「……ティアラの夫となる者は、共に家を盛り立てることのできる優秀な子息でなければならない。きみ達は知らないかもしれないが、貴族の社会では噂が広まるのなんて一瞬だ。難癖をつけて資産や土地を狙ってくる者もいる。我が家の評判を落とすような噂が立つのは困るのだ」

 低い声で淡々と述べたオリバーが、観念したように顔を歪める。

「家を継ぐヘンリーとも、他家に嫁ぐはずだったティアラとも違って、あの子は継承権のない次男坊だった。甘やかして育てた私の教育が悪かったのは認める。……くだらない理由だと、お笑いになりますか?」
「……呆れたのは認める」

 バンダナを下ろし、ラビは長い溜め息をついた。

 ――なんだ、たったそれだけの理由か。

 この男は中央庁との繋がりも持ち、黒の教団やアクマの存在も知った上で、犠牲を見過ごしていたのだ。

 見過ごせるのだ。
 自分の立場が脅かされることさえなければ、自分の領民さえ見捨てて、この広い屋敷で穏やかに過ごしていられる。

「アンタにとっては、家の噂が領民の命よりも大事だったってだけのことさ」

 もういい時間だ。
 とっくに交霊会は始まっているだろう。
 そちらも見ておかなくてはならない。
 ほら、さっさと部屋を移動しなくては。
 ムシャクシャとした気持ちを押さえ込もうと、冷静になろうと思えば思うほど苛立ちは高まる。

 ラビが乱暴に立ち上がると、も席を立ち、澄まし顔でオリバーを見下ろした。

「お話ありがとうございました。本当に良かった……貴方の領民が残らずアクマに殺される前に、声をかけて頂けて」
「もしそんなコトになったら、アンタ達一家もとっくにアクマに殺されてただろうな」

 国民のいない国は、国とは呼べない。
 領民も領主もいない領地は、ただ広いだけの土地だ。

 真っ青な顔で俯くオリバーとは対照的に、ティアラは白い頬に赤く血を上らせていた。






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