燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  






 14









 ローリー邸の鉄の門を出ると、既に夜が明けていた。
 中と外では、時間の進み方が異なっていたのだろう。
 朝日の中で町の消防団へ連絡を取り、そこから伯爵邸に一報を入れ、そこで燃料が切れたように倒れ込んだのがだ。
 上階のアクマを一掃するのに<聖典>を発動したらしい。

「僕とアニー様を守るためでしょうか……」
「それは無関係さ。<聖典>の方が小回りも利くからな」
「……ラビ様の火判より、ですか」
「それはマジでごめんっっっ!」

 ふふふ、と口を開けずにエゴールが笑った。

「冗談ですよ」

 生真面目の代名詞ともいえる探索部隊員と気楽な冗談を交わすなんて。
 任務での絆が生んだ奇跡だ。

 を背負って帰るつもりでいたら、伯爵家の馬車にあっさり拾われた。
 屋敷に戻っているように伝えた筈だが、主人であるオリバーからの指示を受けて町で待機してくれていたらしい。
 ――そうして、ラビ達が伯爵邸に帰ってきたのがちょうど午前のティータイムの頃だ。
 もうとっくに日も傾き、間も無く夕食の時間になる。

 依頼人でもあるオリバーに碌な報告もしないまま宛てがわれた客間で半日も眠っていられたのは、ひとえに、がぐったりと意識を手放していたからだ。
 本人は気を遣わせたことを嫌がるだろうが、ラビとしては休息を得られて助かった。

 の部屋に集合すれば、気怠げで多少ぼんやりとしているが、彼もしっかりベッドの上に身を起こしていた。
 エゴールの通信機を使い、本部に連絡をとる。
 知らせを待ち侘びていたらしいコムイが、ラビ達以上に疲れ切った声で三人を労ってくれた。

『それで、具合はどうかな? 
「どうってことないよ。こうして起きてるでしょ」
『はいはい。帰ってきたらすぐ医療班のところに顔を出してね』
「コムイこそ何日寝てないの?」
『あは、あはははは! 聞いちゃう? なんと! リーバーくんが、四日も寝かせてくれないんだよぅぅぅぅぅ』
「班長の方は何日寝てないんさ?」
『今朝で七日目だって』

 そんな話を聞いてしまっては、ラビだって疲れたとは言えない。

「組織の運営方法として間違ってると思うんさ、オレは」

 唇や目元に色味の戻らないままのも、苦笑いを返す。

「コムイ。今回の件はアクマと本物の幽霊の合わせ技だったよ」
『と、いうと?』
「人が消えるのも、事件が再現されるのも、アクマの仕業だったんだけど……」
「その中に一人、幽霊が混じってたんさ!」
『へぇ! それは興味深いね。あとで科学班にも検証に行かせようかな……分かってる、分かってるよリーバーくん、僕は我慢するよ、うん。エゴールも幽霊に会ったの?』
「はい。僕も幽霊と話しました」
『これは、三人の報告書が楽しみだなぁ!』

 ウキウキと声が弾んでいるのは、研究狂だからか、それとも寝不足のハイテンションなのか、判断に苦しむ。
 ラビは持ちかけるつもりでいた交渉を引っ込めようと思った。

「コムイ、それでね、」
『うん、説明はあとで報告書と一緒に……』

 それなのに、心得たように頷いたが通信機越しにコムイを牽制する。

「待って」

 まるで、水面に落ちた雫。

「今話したいことがあるんだ」

 彼にしては低い声が、空気に波紋を広げていく。

 静かに、広げて、広がって、広がった波紋が、ラビに辿り着く。
 ラビの心を静かに波立たせる。
 ゆっくり押し揺らし、見ないふりをしていた、目を逸らしたかった、けれど出来なくて持て余していた気持ちを押し開いていく。

 真面目な話だと悟ったのか、コムイは背後から仕事をせっつくリーバーを制した。

『何かな?』
「屋敷の事件を体験して分かったんだけど、この、六年前の事件の犯人はメイドじゃないんだよ」
『……詳しく説明して』

 ここまでお膳立てされては、ラビももう腹を括るしかない。

「あのな、コムイ――」

 ラビは冤罪で収監されているライラの話をコムイに訴えた。
 嗚呼、感情に流されてこんなことを口走るなんて、ブックマン失格だとじじいに叱られる。
 言い訳なんて、できないと思っていた。

 けれど、言い訳を許してくれる神様が其処にいるのだ。
 此処に、いるのだ。
 赦してくれるのだ。

 彼の微笑みがラビに向けられる。

 微笑みの意味が分かる? そんなわけない。
 本当は分かるはずがないのだ。
 ラビ達が、弱い人間達が都合よく解釈しているだけなんだ。
 それでも今、ラビは都合の良い自分になった。

『……なるほどね』

 相槌は、死刑宣告のようだ。

 ブックマンとしてのラビは、死んだのか?

「(――いいや)」

 今のラビには、神様のご加護というものがついている。

『いいだろう。エゴール、キミはベリルの町の件を片付けて。メイドの件について、裁判所には教団の方から釈放を掛け合おう。キミは現地での手配と調整を頼むよ』

 コムイの答えに、思わず息を飲んだ。
 拳を握った。

「サンキュー、コムイ!」

 顔を綻ばせたエゴールが、通信機に向かって礼をする。

「承知いたしました、室長」
『どういたしまして。でもね、ラビ、……ベリル伯爵にはキミ達から話をすること。これが条件だ。彼らは事件の被害者遺族だ。気持ちの整理をつけて貰わないと、新たな悲劇を生みかねないし……現実的な話をすれば、寄付にも繋がらないからね』
「オッケー! まっかせろ!」

 神様から人間に戻った彼が、通信機の向こうに軽やかに問いかけた。

「ありがと、コムイ。それで――今度は俺達、本部に戻っていいんだよね?」
『うん。は帰ってから医務室と、それが済んだら僕と一緒に中央庁に行ってもらう。お偉方に今回のベリル伯爵の依頼を達成しましたよーって報告をしてもらいたいしね』
「ああ……ああ、うん。オッケー」
「コムイ、オレはー?」
『うん! それなんだけどね!』
「まっ、待て、コムイ!」

 その枕詞、嫌な予感しかしない。

「待て、ちょっと待って、何も言わないで、待って!」
『ラビには次の任務に行ってもらいたいんだ』
「ウソだろぉぉおおおー!?」

 テンポよく決まった掛け合いにとエゴールが大笑いしてくれた。
 気持ちだけが救われた。

「なんでオレだけ!?」
『大丈夫、一人じゃないから! 次はブックマンと一緒だよ』
「そーゆーコトじゃねェんさ!」

 不満をぶつけてみたところで指令に逆らえないことは分かっている。
 けれど、立て続けに任務に尽力したのだから、少しくらいごねてもバチは当たらないはずだ。

『やっぱりブックマンと一番息が合うのはラビだからね。明日の朝一番でドーバー海峡を越えて欲しいんだ』
「ってことは今夜中に港まで着かなきゃなんねェじゃん、急ぎだな。なんさ、次はフランス?」
『うん、ルーアンに向かってくれ。あーあー、羨ましい、今フランスはバカンスの時期だよ、ボクも行きたい……いや、違う、待ってリーバーくん、本当、サボってる訳じゃない! 真面目な話をっ……と、とにかく全員無事でよかったよ。それじゃあ、よろしくね!』

 背後からのリーバーの怒鳴り声を受けて、コムイが泣く泣く通信を切った。
 ラビは通信機に繋いでいたゴーレムをツンツンと突く。

「このままリーバーに監禁されちまえばいいんさ……」

 まあまあ、とラビを宥めようとするは帰還を許可されているのだ。
 恨みがましい視線を向けていると、見計らったように扉をノックされる。
 エゴールが応対すると、外に立っていたのは執事のブレイクだった。
 事実、タイミングを見計らっていたのだろう。

「お具合はいかがですか? よろしければ、ディナーはこちらにお運びいたしますが」
「ご配慮ありがとうございます。……どうされますか、様?」
「ディナーより先に報告だろ。……俺が寝てる間にした?」
「いいや、オレもがっつり寝てたし。下行くよ、ブレイクさん。そんで、悪いけどなる早で出発したいんさ。あー、でも夕飯食べ逃すのは惜しい気持ちが……」

 そう言うと、ブレイクは口元に拳を当てて咳払いをし、笑顔を誤魔化した。

「んんっ、畏まりました。それでは、軽いご夕食にいたしましょう。任務のご報告は是非、その席で」
「シェフには悪いんだけど、俺はスープだけで良いって伝えて貰える?」
「フルーツはいかがですか? 桃やベリーなどすぐにご用意できますが」

 は微笑みながらも断固として首を振った。
 引き下がったブレイクが退出するのを見送って、ラビはをちらりと見る。
 立て続けの負荷が堪えているのだろうと慮ったが、ふと視線を落としたその表情が一切の追及を拒んでいるので、口を出すことはやめておいた。
 藪蛇だ。



 ***



 食堂に集まった伯爵一家と、教団の一行。
 時間を短縮するためにあらかじめ全ての料理が一人ずつの皿で並べられた食卓で席についたのは六人だが、ブレイクだけでなく、アーロンとサマンサも窓際に立って話を聞いている。
 ラビとはオリバー・ストーンから問われるままに事件について報告をした。

 報告すべきことは二種類だ。
 ひとつは今回の奇怪はアクマの能力によるものだったということ。
 生存者だったルビーがメイソンを喚んでアクマになり、「雨」という舞台設定が整うと六年前の夜の事件を再現して上演していた。

 もうひとつは六年前の事件だ。
 メイソンが持ち込んだ毒薬の使用目的は何だったのか、想像することしかできないが、アダムズを殺害するためのものだった可能性は高い。
 そして、それぞれに愛人と逢引をしようとしていたローリー夫妻が鉢合わせ、結果として二階の殺し合いが発生したこと。
 その現場をアニーが目撃した。
 ルビーは毒薬を紅茶に仕込み、それを子供達に運ぶよう指示を出したのだ。

「最後に、アダムズから逃されたイスラ・フィーネが警察に二階の真相を話そうとしていたんじゃねェかな。それを察して、ルビーはイスラを殺したんさ。現場がパニクってたんなら、相手を呼び出すくらいはわけない筈だ」

 ラビの説明がもたらした反響は大きい。

 アーロンは天を仰いで唇を噛み締める、その背にブレイクが手を当てて同情を示した。
 主人の醜聞が明らかになり、その死の真相が明らかになり、さらに部下の一人が無実の罪で六年も捕まっていたのだ。
 同じ執事だからこそ共感できる辛さがあるのだろう。

 サマンサはボロボロと涙を零すティアラの肩を抱きながら、泣いている。
 アニーへの愛情が深い二人は、偶然が生んだ彼女の不幸に想いを馳せているのだ。

 オリバーは苦々しく顎を上げて苦々しく息をつき、ナイフの柄をテーブルに突き立てる。
 六年間信じてきた息子の死の真相を今更になって蒸し返され、引っくり返されたのだから、ラビにだってその憤りは理解できる。

「では、……あの事件の犯人は、私の息子達を殺したのは、ルビー・イヴリン。そういうことなのだな?」

 苛立った伯爵の瞳をまっすぐ見つめ返しながら、が紅茶を飲んだ。
 結局はスープも一口も飲んでいない。
 スープというよりポタージュだったのが、食欲を失わせたのだろう。
 ラビが見る限り、彼は澄んだスープの方が好きなのだ。
 食に興味のない本人には、その自覚はなさそうだが。

「俺達が確認した事象は、そういう事件でした」
「核心部分は、聞いていた事件の経緯と変わりなかった。多分、オレらが見たままのことが現場では起きてたんさ。アンタ達の死角でな」
「あ、あなた達は! 本気で! ルビーが事件の犯人だったとおっしゃるの!?」

 立ち上がって叫んだのはペネロペだ。

「ルビーに限って、そんな……有り得ませんわ!」
「何度でも言ってやるさ。信じたくないのは分かるけどな」
「信じたくないなんて、違うわ! そうよ、あなた達は、ルビーを知らないんですものね、それでそんなことを信じてしまうのよ。きっとそう!」
「よしなさい、ペネロペ」
「あなた達にルビーの何が分かるっていうの!」
「ペネロペ!」

 オリバーが怒鳴ると、ペネロペはナプキンをテーブルに叩きつけ、立ち上がった。
 長いドレスの裾を引いて早足で歩き去ろうとする。

「わたくし、部屋に下がります」
「ペネロペさん、あなたはルビーさんの全てを知っていたの?」

 それを、が許さない。

「どんなに尊い人間であっても、どんなに価値のある人間であっても、人間である限り欠点のない人はいないよ」

 「教団の神様」が食堂全体の空気の重さを何倍にも増して威圧する。
 ティアラとサマンサの涙も止まり、執事達は姿勢を正してに注視している。

「どんな偶像だって、人間なら必ず欠点があるんだ」

 振り返ったペネロペは、顔をくしゃくしゃに歪めて空気を啜り上げた。

「わたくしの! ……っ、憧れの、すべてなのですっ!」

 金切り声で叫び、ついに声をあげて泣き崩れる。

「あの人が、わたくしの、ヘンリーとフィナスを……そんな理由で……!」

 オリバーが妻に駆け寄り、その背を抱いた。
 も席を立ち、夫婦の前に、否、ペネロペの前に膝をつく。

「信じたくない気持ちは分かります。あなた達の悲しみを掘り起こしたことも、申し訳ないと思ってる。悲しみに向き合って前を向こうと頑張ってくれている時に、もう一度、一から憎しみと悲しみをやり直せなんて」

 彼はペネロペの両手をとって、優しく包んだ。

「それでも、どうか。……どうかもう一度、今度こそ正しい方向を向いて、子供達を弔ってほしいんだ」

 ただの言葉だけならば、偽善者だと笑うのだけれど。
 彼と空間を共にすると分かる。
 全身から相手を想う熱意が立ち上っている。
 そのエネルギーは、いったいあの体のどこから生み出されているのだろう。

 ペネロペだけでなくオリバーまでもが涙を抑えきれずに体を震わせていた。

 ラビはチキンソテーの最後の一欠片を食べ終えて、ナイフを置く。
 付け合わせのニンジンのグラッセも美味かった。

「アンタ達の不幸には同情するさ。けど、手っ取り早く悲しみを収めるために犠牲にされたライラも、オレは不憫だと思う」

 この食事も食べ納めだ。

「……アイツは知らないけど、もう家族も死んでる。帰る家も、故郷の村も、もうない」

 ラビを見上げるオリバーに向かって、勢いよく頭を下げた。

「教団には、ライラを釈放するように頼んだ。でも、……アンタからも、アイツの釈放を許可してやって欲しいんさ!」

 ラビの斜向かいで、椅子を引く音がした。
 ティアラだ。
 ティアラが立ち上がり、父親に向かってラビと同じように頭を下げる。

「わたくしからも、お願いします、お父様。余所にはなかなか働きにも行きづらいわ、我が家で雇うわけには参りませんか?」

 手のひらで顔を覆ったオリバーが、鼻を啜って立ち上がる。
 ペネロペを支えて立たせ、自分の椅子に座らせてから、オリバーは大きく頷いた。

「いいだろう、考えてみよう」

 嗚呼、よかった。

 どっと汗が噴き出した。
 安堵の息が重たい。

 椅子に崩れ落ちたラビを、が振り返り、笑った。






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