燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  






9









地下水路で二人を待っていた探索部隊員は、リナリーの知り合いだ。
彼女は目をぱちぱちと瞬かせて、むん、と唇を引き結んだ。
ビシリと背筋を伸ばし、それから勢いよくお辞儀をする。

「今回、お二人を現地にご案内します! アナとお呼びください!」
そんな堅苦しい言葉遣いは、聞き慣れなかったけれど。

リナリーは、少し驚いて彼女を見上げた。

「アナ、久し振り。確か今あなたの隊って、他の任務に出ていなかった?」
「久し振り、リナリー。そうなの……それがちょうど、ケレン地方なのよ」

女性探索部隊員のアナが、いつも通りの砕けた口調で言う。
そういえば彼女は昨年入団した団員で、とは初対面だ。
先程、普段とは違った異様な緊張ぶりを見せていたのはそのせいかもしれない。

「あのね、お兄ちゃん。彼女は去年入団した人なの」

そう言ってアナを手で示すと、きょとんとしていたが微笑んだ。

「ああ、どうりで見覚えがないわけだ……俺は。よろしく、アナ」
「よろしくお願いいたしますっ」

アナはまたも電流が走ったように背筋を伸ばして、お辞儀をする。
大袈裟だなぁと苦笑したが、振り返った。

「それじゃあ、兄貴。行ってくるよ」
「ああ、いってらっしゃい。無理するんじゃないぞ」
「それは兄貴でしょ。早く寝てね、ほんと隈ひっどいよ……見送りありがとう」

二人をにこにこ見上げたリナリーの上に、影がかかる。
コムイがぎゅっと強く抱き締めてくれた。

「いってらっしゃい、リナリー」

こうして抱き締められるたびに、こうして言葉をかけられるたびに、嬉しくて、切ない。
コムイは、兄さんは、当たり前にいてくれる存在ではない。
リナリーのために、彼の持つ自由を全て捨てて此処にいてくれる。

この温もりを、失いたくない。

リナリーはコムイの背に手を回して、強く抱き締め返した。

「いってきます、兄さん」









」といえば、黒の教団では「教団の神様」としてよく知られる人物である。

どうしてそう呼ばれるようになったのかは知らないが、その呼び名は急速に広まり、気付いた頃には周知の事柄だった。
リナリー自身はそういった側面で彼を捉えることは少ないけれども、言われてみればすぐに納得できてしまう気はする。

とりわけ探索部隊は、彼への信仰がとにかく篤い。

任務に行けば、最優先されるのはエクソシストの生命と、イノセンスだ。
エクソシストの数がこの聖戦にダイレクトに影響するのは、団員であれば誰でも知っている。
一般人の安全だって勿論考慮される。
アクマの襲来なんてものは、事情を知らない人々からすれば災厄以外の何物でもない。
新たな悲劇を生まないためにも、彼らの生命を散らしてはならないのだ。
しかし、アクマを破壊できるエクソシストの数には限りがある。
そうなると、一般人を守るためにアクマの前に立ちはだかってエクソシストの到着を待つのは、必然的に探索部隊の役目だ。
対アクマ武器を持たない彼らの死亡率は他の部隊に比べて格段に高くなる。
そういうものだった。

けれど、が同行する任務では違う。
彼は生命を諦めない。
「諦めたくない」と「諦めない」では、咄嗟の行動が大きく変わる。
いざという瞬間に、彼は一切自分を守らずに探索部隊を優先するのだ。
の同行する任務では、部隊全体の生存率が格段に上がるという。

――寄生型のイノセンスを持っているから、アクマの血の弾丸を恐れないのか?

――それとも、身体の使い方が上手くて致命傷を避ける自信があるから、進んで盾になれるのか? 

答えは絶対に、否だ。

「(あんな戦い方は、真似できない)」

リナリーは、絶対にの戦い方を真似してはならないと思う。
コムイが、リーバー班長が、ジェリーが、婦長が、ジョニーが、皆が悲しむと分かっているから。
だって本部を「大きな家族」と呼んでいるのに。
皆を大切に想っていることは明らかなのに、どうしてあんな戦い方が出来るのだろう。

は探索部隊を絶対に見捨てない。
味方に背中を見せながら先頭きって戦場へ駆け出していく。

驚くほど身軽で器用な立ち回りで二つの対アクマ武器を同時に操り、一人で二人分以上の戦闘をする彼は。
そこまでしても取り零してしまった命を、丁重に弔って、祈りを捧げてくれる彼は。
相手が誰であっても生を肯定して、生き残った罪悪感を打ち消すように微笑んで赦しを与えてくれる彼は。

確かに、教団のための神様なのだ。

「ちょっとデッキで外の空気吸ってくるよ」

がそう言って席を立った。

「アナを中に入れてあげて。ずっと立ちっ放しで可哀想だから……俺が言うと何か緊張させちゃうみたいだし。リナリー、仲いいんだろ?」
「そうだね……気を遣わせちゃって、なんかごめんね」

小声で苦笑する彼に、何故だかリナリーの方が気まずくなってしまう。

教団を出て汽車と船を乗り継いで、大陸に渡ってまた汽車へ。
そこで一夜を明かし、更に延々と汽車に揺られている。
アナは初めて会った「教団の神様」に緊張しきりで、を見ると直立不動の姿勢をとっていた。
もう条件反射になってしまっているのではないかとリナリーは心配している。

謝らないで、と言い置いたがコンパートメントを出ると「お疲れ様です!」と威勢のいい声が外から聞こえた。
リナリーはドアの外を覗いて、アナを手招きする。
挙動不審になりながら中に入ったアナは、リナリーに促されるままに先程までが座っていた方の椅子に腰掛けた。

すぐに大きな溜め息をついて、しおしおと項垂れてしまう。

「はあああー……駄目、もーう駄目、緊張しちゃって……」
「そんなに硬くならなくっても大丈夫だよ、アナ。神田ともうまくやれたんだから!」

お世辞にも愛想がいいとは言えない同僚の名前を出して励ましてみるが、アナは首を横に振った。

「そうなんだけど……神田さんの方が無関心でいてくれるからまだ気が楽だなぁ……。
様はこっちに気を遣ってくれるでしょう、それが余計に緊張する」

数少ない女子団員仲間としてお茶会やお喋りを重ねた間柄だけれど、こんなに委縮しているアナの姿は初めてだ。

アナは、リナリーより四つほど年上の元気な人だ。
探索部隊員には、大事な人がアクマの被害に遭った過去から燃え滾る復讐心を勇気に変えて戦場に立つ人が多い。
入団当初はまだ心の傷を抱えた人もいる。
けれど、アナは最初からとにかく明るく溌溂とした。
人を元気にするような天真爛漫なタイプで、すぐにみんなの人気者になった。
リナリーも、ジェリー経由で仲良しになったのだ。

彼女は髪型や服装にもこだわりがあるそうで、リナリーも色々な髪型を教えてもらった。
リナリーが最初に人の化粧の違いに気付いてしまったきっかけも、アナだ。
ある日の彼女の唇の色が、朝と夜で違っていたから。
気付かれちゃった、とお茶目にウインクをされて、今度は瞼のグラデーションにも気付いた。

任務中の今だって彼女の明るい茶色の髪は丁寧に編み込まれているし、オレンジ色の頬紅がよく似合っている。
恐らく探索部隊用の丈夫な手袋を外せば、爪には綺麗な色が塗られているのだろうと思う。

「もっと肩の力抜かないと、怪我しちゃうよ」
「そうだよねぇ……分かってる、分かってるの……今も多分、彼、気を遣ってくれたんだもんね。相手は年下なのに情けないわ。しっかりしなくちゃ」
「そうそう、その意気よ!」

リナリーは握り拳で彼女を励ました。

コロン、その時足元で小さな音がした。
俯いていたアナが、リナリーの足元に手を伸ばす。

「あら、何か落としたよ、リナリー。……あっ! コレ!」

何かを拾い上げた彼女は、窓からの陽光にそれを翳した。

「あっ」

リナリーも思わず声を上げる。
ジェリーからもらったリップバームだ。
そういえば、司令室に向かう途中でポケットに入れたままだった。
気付いてしまうと、今更ながらに冷や汗ものである。
此処までの道のりで失くさなくて本当に良かった。

「これ、話題の新作じゃない!」

彼女が口にしたブランドは、世間のことに疎いリナリーでも聞き覚えのあるものだ。
驚いて聞き返す。

「そうなの?」
「そうよ! ほら、裏にロゴがあるでしょ」
「えっ、ほんとだ。全然気が付かなかった」
「一昨日発売の新作だったはずよ! 発売前に新聞でも雑誌でも散々特集組まれてたんだから。えっ、コレ、リナリーの?」
「う、うん。ジェリーがくれたの」
「料理長さっすが、よく分かってるわ……」

リップバームひとつで、アナはすっかりいつもの調子を取り戻したようだ。
しげしげと眺めてからリナリーの手に戻してくれた。

「これ一昨日発売だったって、本当?」
「ほんとほんと。このブランドはいつも朝から並ばないと新作は手に入らないって有名なの」
「てことは、ジェリーはわざわざこれを買いに行ってくれたってこと?」

だとしたら、ジェリーのあの休日は、料理研究だけでなくリナリーのためでもあったのか。
そんなのとても使えない。
リナリーは両手でぎゅっとケースを抱き締める。

「ぜったい大事にしなくっちゃ……」
「中身は見てみたの?」
「うん、すっごく可愛いピンク色だったよ。見て」

ケースを開けて中を見せてみると、アナはわあ、と歓声を上げた。

「写真で見るよりずっと可愛い! 使わないのは勿体無いわ」

アナが背筋を伸ばしてじっとリナリーを観察するので、リナリーはどぎまぎして目を逸らしたくなる。

「持ってきちゃったんだし、今、試しにつけてみたら?」
「えっ、今? 任務中なのに!?」

びっくりして目を瞠ると、アナが頷いてにっこり笑った。

「エクソシストがメイクしちゃダメなんてルールはないでしょ? ほら、あの女性元帥もばっちりメイクしていらっしゃるし」
「クラウド元帥のこと? それは、だって、ええ……確かにそうだけど……でも!」

声を大きくしたリナリーは、ケースを握り締めて俯いた。

「……いきなりメイクなんかしたら、……お兄ちゃんに、浮ついてるって思われちゃわない……?」

は、とても優しい。
誰にでも優しいけれど、特にリナリーには格別に優しい。

同時にリナリーは、彼が任務にとても誠実だと知っている。
亡くなった団員や一般人だけでなく、アクマのためにも神へ祈りを捧げていること。
生きている全員を諦めないために、少しも気を抜かずに任務に励んでいること。

嫌われたくない。

これ以上、嫌われたくない。

ただでさえリナリーは、彼にとって「違う」のだから。

彼が、自分を透かして誰かを見ていることを知っているからこそ、頑張らないとリナリーを見てもらえない。
リナリーを見てもらう前に、嫌われたくなんかない。

「……リナリー、本当は、様に見てもらいたいのね」

本当は、早く使ってみたい。
昨日ジェリーにお土産を貰ったとき、すごく嬉しかった。
使い方を教わるというのが、とても楽しみだった。
使ってみたい。

そしてに、可愛いね、と言ってもらいたい。

こっくり頷くと、優しく手を取られる感覚があった。

「じゃあ、見てもらお」

手袋を外したアナの綺麗な手がリナリーの手を包んでいた。
やはり彼女の爪には金色のマニキュアが綺麗に塗られていて、そして、右手の薬指には銀色の指輪。

「(――あ、)」

思い出した。
アナの婚約者は、アクマに殺されている。

彼女はもう、好きな人に「可愛い」と言ってもらえない。

大切な人は当たり前にいてくれる存在ではないのだ。
いついなくなっても、おかしくない。

「大丈夫。唇に色がついているからって、戦うのに不便があるわけじゃないでしょう?」

リナリーが顔を上げてもう一度頷くと、アナは嬉しそうに笑った。

「ていうか、様が女の子のリップ如きでぐだぐだ言うような人だったら、私、抗議するんだから!」

厳めしくファイティングポーズをとるので、リナリーも自然と笑ってしまう。

「出来るの? アナ」
「あ、うんー、勢いで言ってみたけどやっぱちょっと無理かも……」
「もうっ、うふふ」

掌の中にちょこんと収まっている真珠のケースを開けると、どことなく緊張した。
先程までのアナのように、自然と背筋が伸びて固まってしまう。

「やってあげよっか?」

その申し出に、一も二もなく頷いた。

「お願いします」

ケースを受け取ったアナは、難なく薬指で薄桃色を掬い取る。

「塗ってみると、案外控えめな色だと思う」
「そ、そうなの?」
「うん。少し口開けててね」

彼女の指が、リナリーの唇にとんとんと優しく触れた。

「……私ね、メイクして、今日の私は最高に輝いてる! って思うと、何でも出来ちゃうような気がするんだ」

もう一度色をとって、また唇に触れてくる。
リナリーの唇を見つめるアナの目が、愛おしそうに微笑んだ。

「きっとそういう私の方が可愛いから……だからいつ彼に会うとしても、最高に輝いてる私でいたいの。リナリーもきっと勇気が出てくるよ」

彼女がポケットから取り出した手鏡に、おずおずと顔を映してみる。
言われた通り、あまり目立つ色ではない。
けれど最近目が肥えてきたリナリーには、普段との違いが分かった。

鏡から目を離してアナを見つめると、彼女は満足げに頷いた。

様から一番に言われたいだろうし、私は何にも言わないからね」

そうは言うけれど、リナリーには十分に伝わった。

「……ありがと、アナ」
「どういたしまして。今度オフが被ったら、マニキュア買いに行きましょ」
「うんっ」






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200410