燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  






8









人はその強烈な存在感を印象深く語るが、リナリーにとって、まだ名前しか知らない金色の輪郭はひどく曖昧だった。

けれど。

「お、にい……ちゃん……?」

――違う

彼の激情は、一瞬にしてリナリーに襲い掛かったのだ。

――違う

違う。
違う。
違う。
違う。
違う。
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う

――ちがう

それまで曖昧だった輪郭を突然明瞭にした金色。
その漆黒に強制的に捕らえられ、囚われたあの瞬間。

心のど真ん中に叩きつけられ、突き付けられたのは、鮮烈な「否定」だった。

金色は、漆黒の瞳にリナリーを映すなり唐突にその存在を否定し、それでいて突き飛ばすでもなくぎゅっと抱き締めた。
耳元で、少年の嗚咽が聞こえる。

苦しかった。

体を締め付けられたからではない。
ただただ、胸が苦しくて。
この金色の「お兄ちゃん」の嘆きが、リナリーを締め付ける。

手が届かない、もういない、と。

リナリーに確かに触れて、抱き締めているのに、嘆くのだ。

手が届かない、もういない、もういない、と。

苦しかった。

こんなに苦しい理由がさっぱり分からないのに、否定されたこと自体は悲しくない。

「(……かなしいね)」

寧ろリナリーは、何も分からないのに、その否定を理解できるような気さえした。
不思議だけれど。

「(かなしいよね……)」 

何も分からないのに、分かってしまった。
だから、自然と涙が溢れ、零れた。

「ぅ……ふ、えっ……」

涙に滲む視界の中で敏感になった聴覚は、彼の深呼吸を捉える。

コムイと同じか、それ以上に優しい手つきで頬を撫でられる。

誘われるままに顔を上げたら、彼はふわりと温かく微笑んだ。

「怖がらせてごめんね、」

大きな瞳にまだたくさんの涙を抱えて、長い睫毛を細かな水滴で輝かせて。

「――リナリー」

愛おしそうに、愛おしそうに、宝物のように。

彼が呼びたかったのは、きっと、違う名前だった。









「あっ、ちょっと待って! リナリー!」

トレイを返却したリナリーは振り返った。

朝食とブランチの境目にあたる時間、人の並んでいないカウンターから上半身を乗り出して、ジェリーがこちらに腕を振っている。

「どうしたの? そうだ、オススメしてくれた朝ご飯美味しかったよ。ベイクドビーンズも美味しかったし、ベーコンの焼き加減がもう最高!」
「あらんっ、それはよかった! 研究しに行った甲斐があったわね!」
「研究?」

料理長の食事は美味しすぎて、ジェリーはなかなか休暇を取れない。
そんなジェリーが昨日は珍しく休みだったので、体調でも悪いのかとリナリーは慌てて兄コムイに聞いたのだ。
心配は杞憂だったそうで、外出届を提出して明け方に意気揚々と教団を出たと知らされた。

「昨日はねぇ、ちょっと有名な食堂にご飯食べに行ってたのよ。考えてみたらアタシ、イングリッシュ・ブレックファストの本場モノって食べたことなかったのよねぇ」
「それで昨日お休みだったの?」
「そ。ウチはみんな働きづめなんだから、ガッツリ系メニューも刷新しないとって思ってね」

もう既に十分すぎるくらい料理上手なのに、さらに上を目指すって、凄いなぁ。
リナリーは感じ入って頷く。
カウンターでジェリーが勧めるので、今日の食堂では大多数がリナリーと同じトレイを持っていたし、皆がリナリーのように夢中になって食べていた。

「お休みまで料理の研究してるなんて、凄いね、ジェリー。私、すごく尊敬しているの」
「んもー、嬉しいこと言ってくれるわね! リナリーにもおいっしいご飯食べてもらいたいもの、いくらでも頑張っちゃうわよ!
……でも、昨日はお喋りも出来なくってごめんなさいね。アタシがいなくて、淋しかった?」

聞かれて、リナリーは少しだけ答えに迷った。
本部に常駐しているジェリーとは、任務中は会えない。
昨日も一昨日もリナリーは本部で待機していたけれど、だからこそ顔を見たかったし、以前教わりかけていた珈琲の淹れ方口座の続きをしてほしかった。

「(けど、そんなの、私の我儘だもの)」

とはいえ、淋しくないと言われるのも多分ショックだ。

結局、リナリーは笑って「ちょっとね」と答えた。

大人というものは不思議なもので、リナリーのそんな思考回路なんか簡単に見透かしたみたいに微笑んでくる。
ジェリーは「ごめんね」と、髪型が崩れない程度の優しさでリナリーの頭を撫でてくれた。

「お土産があるのよ。手出して」

素直に手を差し出すと、真珠の貝殻に似た白いケースを渡された。
指先をかけて開いてみる。
中には、透き通った薄桃色の軟膏のようなものが入っていた。

「これ、なあに?」
「リップバームよん」
「えっ!」

リナリーはバッと顔を上げてジェリーを見上げた。
それからまじまじと手の中を見つめる。

「可愛いでしょう?」
「う、うんっ、可愛い……!」

よく見れば貝殻のケースは真珠のように煌めいている。
サイズも片方の掌にすっぽり収まってしまうくらい小ぶりで可愛らしい。
なによりリップバームの色合いに、リナリーの心は踊った。
ケースと同じく真珠のような輝きをもつ薄桃色は控えめな色合いだが、保湿用と言うより化粧品と言う方が合っている。

「本当はクリスマスのプレゼントにしようかと思ったんだけど、早く渡したくって」

気に入ってくれた? 小首を傾げるジェリーに、リナリーはぶんぶんと音が鳴る程大きく頷いた。

「すごい、ジェリー、私……本当に、こんなの貰っちゃっていいの?」
「勿論よー、あなたに似合うと思って買ったんだから! 調理場が落ち着いたら、使い方を教えてあげる。部屋で待ってて」

きゅ、と両手でケースを握り締める。

「うんっ……待ってる! ありがとう、ジェリー!」

ジェリーが来る前に、部屋を少し片づけなくっちゃ。
リナリーは軽い足取りで部屋へと向かう。
途中、階段を上りながら握った手を開いてみた。

「(私のリップ……私のリップだって……!)」

最近、数少ない女性団員たちとすれ違ったり話したりするときに、相手が化粧をしているか否かが少し分かってきた。
ばっちり分かるくらいに念入りなメイクをしている人もいれば、一見してそうとは分からないメイクの人もいる。
瞼や頬などにピンポイントで色をのせている人もいる。
あの人は唇だけ、あの人は眉毛だけ、などと分かってきたら楽しくて、つい人の顔を観察するようになっていた。
食堂は一番多くの人が集まるので、リナリーにとっては格好の観察場所だ。
ジェリーには、それがバレていたのかもしれない。

誰かの物を試しに借りてみるのとは違う、リナリーだけの化粧品だ。

「(どうしよう、すっごく嬉しい)」

今日はジェリーとお喋りをして、それからコムイと科学班にもう一度お茶を淹れに行って、鍛錬はそれからにしよう。
ジェリーの気合いの入ったイングリッシュ・ブレックファストは明らかにハイカロリーだった。
けれど美味しすぎて完食してしまったから、張り切って鍛錬しなくては。
それから、のんびりお風呂に入ろう。

素敵な休日が始まりそうで、心の真ん中が温かい。
るんるん、と鼻唄まで歌いたい気持ちになる。

それに水を差したのは、傍らのゴーレムだった。

『リナリー、、司令室に来てくれ』

リーバーのくたびれた声が聞こえた。

返事をして、リナリーは立ち止まる。
はあ、とため息をついた。

分かっていたことだ。
朝食の前に科学班へ行ったら、みんな数日は徹夜した顔だった。
すぐ次の任務が来そうだな、とリナリー自身も思ったのだから。
自分だけ平和なお休みを過ごそうなんて、間違っていたのかも。

ふるふると首を振って自分に気合いを入れる。

さあ、元気を出すのよ、リナリー。
食堂に戻って、ジェリーにごめんねを言わなくちゃ。
それから、コムイを起こして任務の話を聞くのだ。

それに、――嫌な事ばかりでは、ない。

「おはよう、リナリー」

声と共に頭上から光が降り注いだような。

その輝きはあまりにも眩いのに、操られるように見上げても目が痛まないからいつまでも見ていたくなる。
世界中の全てのものに染み渡るどこまでも柔らかな慈しみが、今はリナリーだけに向けられた。

「おはよ、お兄ちゃん」

がふうわりと微笑む。
彼と自分の身長差はあまり無いし、〈黒い靴〉のヒールがあるから寧ろリナリーの方がほんの少し目線が高い。
彼に見下ろされるという、或いは彼を見上げるという普段とは異なる珍しい構図に胸が高鳴る。

その状況は一瞬のことで、彼はあっさり隣に並び、そしてリナリーを抜かして先に下りていった。
リナリーはポケットに貝殻のケースを仕舞い込み、彼のあとを追って階段を下りる。

「一緒の任務っていつぶりだろう?」
「一年以上かなぁ。だって、お兄ちゃんが戻ってからは初めてだもんね」

弟弟子の修行を手伝いに行く、と宣言したが大元帥と交渉をして本部を離れた期間は約一年。
三か月ほど前に彼が帰還してすぐ、教団は大量の殉職者を出す大敗北を喫した。
あれからはイノセンス〈聖典〉の調子があまり良くないそうで、異例だが同調率を下げる修練をしているのだという。

リナリーが把握している限りの情報では、帰還後のと任務をしたのは神田と、マリ、スーマン。
それと最近入ったブックマンとラビだ。
入れ違いになったり別の任地に派遣されたりと、リナリーとはいつもタイミングが合わなかった。

「そんなに経つんだっけ。久々だね」

はいつだってリナリーに笑顔を見せてくれるけれど、こんなに近くで直視するのは久し振りだ。
どきっとして、リナリーは慌てて頷いた。

「うんっ……ちょっと緊張するね」
「そう? 初めて一緒に行くみたいな?」
「えっ、あ、うん。そんな感じ」
「ふうん? よし、俺も初心に帰って気合いを入れよう」

そんなことを言いながらがしかつめらしい表情をする。
けれど声は相変わらず穏やかでふうわりとしているままだから、なんだかちぐはぐに感じてリナリーはふふ、と笑ってしまう。

「頑張ろうね。……あ、私ちょっと食堂に寄ってから行くね。ジェリーとお喋りする約束してたから、任務入ったって言ってこなくちゃ」
「分かった。じゃあ俺は先に行って、コムイを起こしておくよ」
「う、いつもごめんなさい、兄さんが……」

が肩を竦めた。

「リナリーと俺たちのために頑張ってくれてるんだから、それくらいどうってことないさ」

困ることは多々あれど、大好きなコムイ。
はいつも、コムイの事を悪く言わない。
それもとても嬉しくて、リナリーは「そうだね」と頷いた。

帰ったらまた珈琲講座をしてもらう。
お化粧の仕方も詳しく教えてもらう。
あと、昨日研究したというエッグベネディクトとニシンの燻製と新作のスイーツ四種類を食べさせてもらう。
ジェリーと三つも約束をして、いってらっしゃいと言ってもらったら脚に力が入ったような気がした。

ところで、ジェリーは昨日の休日の間にどれだけ沢山の料理を食べて研究してきたのだろうか。
少しだけ気になる。

「お待たせしました!」

急いで駆け込んだ司令室では、既にしっかり目の覚めているコムイがバズーカを椅子の後ろに仕舞おうとしているところだった。

「やあリナリー、いきなり悪いね」
「ううん、大丈夫。美味しい朝ごはんも食べたところだったし」
「そういえばジェリぽんが今日の朝ご飯は自信作よ! って、連絡寄越した気がするなぁ」
「昨日は朝ご飯研究のための休暇だったみたいよ。兄さんも絶対食べてあげて」

リーバー班長もね、と言うと、恐らく四徹目のリーバーが乾いた笑い声を漏らす。

「夕方まで提供されてたら、だな。あと少しで目途が……立ちそうなんだ……」
「ちょっと、兄貴、大丈夫? 俺はいいからソファ座りなよ」
「平気だ……座ったら、多分、寝る……」

話しながらも、彼はフラフラ揺れている。
大変心配になるが、本人がそうして固辞するので、リナリーとは苦い顔を見合わせて、仕方なくコムイに向き直った。

「さて、二人に行ってもらいたいのは、ドイツ北東部ケレン地方にあるヴィドスという村だよ」

咳払いをして立ち上がったコムイが、背後の地図を引き出してドイツ辺りを示す。
背後から、リーバーが資料を渡してくれた。
表紙には、「魔女の巡礼について」と書かれている。

「他の国ではあまり知られていない、ローカルな信仰なんだけどね。
この地方では、『魔女シシィの巡礼』というのが盛んに行われているらしいんだ。伝説になぞらえて四つの遺物を巡るものだそうでね」

リナリーはちら、と表紙を捲ってみた。

「報告を疑ってるわけじゃないんだけど、聖女じゃなくって、魔女の巡礼なの?」
「そうなんだよ。珍しいよねぇ」
「……ん? それ、」

が顔を上げた。

「コムイ、俺、多分それ知ってる……魔女の手拭いの村じゃない?」
「そう、それだよ。よく知ってたね。結構マイナーな地域信仰だと思うけど……」
「修行時代に師匠とそこに立ち寄ったことがあるんだ」
「なるほど。まあ、そうか、ドイツ生まれってわけじゃないもんね、

話についていけないリナリーは、コムイをじっと見る。

その視線に頷いて、コムイが椅子に腰を下ろした。

「ニクシー村では頭蓋骨、ピトニラの森ではミイラ、ヴァラの小川の爪、そしてヴィドス村の手拭い。この順で巡礼をすると、死者が蘇ると言われているんだ」

リーバーがふーっと息をついて資料の該当ページを教えてくれる。

「一時期ブームが起こったらしく巡礼者が急増したんだ。ブームが過ぎてからはそれまで通りの落ち着きを取り戻したんだが……」
「最近、ヴィドス村の宿屋から森の中の教会に至るまでの道程で、人が消えるという事件が続発している」

硬い表情でリーバーの言葉を引き取ったコムイが、肘をついて両手の指を組んだ。

「森の中には消えた人が着ていた服だけが残されているそうだ」
「(……アクマだ)」

リナリーは直感した。
ちらと隣を見ると、は少し強張った表情で眉を顰めていた。






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200410