燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
神
判
の
綻
び
10
帰ってきたに、アナはもう過剰な反応はしなかった。
が安心したように微笑んで、リナリーの隣に座る。
リナリーは少し窓側に詰めて、彼のためのスペースを開けた。
それから、向かい合った状態でないと折角のリップに気付いて貰うまでに時間がかかるのでは、と思い至った。
アナと目を見交わし、ちょっぴり肩を落とす。
「ところで、アナ。もうヴィドスの奇跡は起こってないのかな?」
二人の思惑など知らないは、資料を捲る。
真面目な表情でアナが頷いた。
「はい。五年ほど前、いわゆるブームが起きていた時は噂されていましたが、それ以降鳴かず飛ばずですね。
結局、巡礼者数は以前の状態に逆戻りしまして、皆さん三つ目の魔女の爪で巡礼を終えてしまわれるようです」
改めて聞くと、やはり不思議で独特な巡礼だと感じる。
一人だけ事前知識のないリナリーも、改めて資料を捲ってみた。
「三つ目のところまでは、皆しっかり巡礼するのね……どうして四つ目だけ蔑ろにされるのかな?」
「それはね、三つ目までは奇跡が『起こった』からなの」
アナが肩を竦める。
「『目を治す』『傷を癒す』、それと『恋愛成就』の三つは、願いが叶うと昔から言われているの。
けど、流石に『死者蘇生』の奇跡は確認されていないんだって」
「例のブームの時だって、奇跡の正体はブローカーと千年伯爵とアクマ、って結末だったんだよ。……それに、俺と師匠は村人と巡礼者の前でその種明かしをしてしまった」
「ああ、それでブームが一気に下火になってしまったのですね……」
「四つ目を願わないなら、全部を回る必要はないってこと?」
「そう。だけど、四つ目を願うなら最初から順に回ってくる必要があるんだ……って確か駅の弁当屋が言ってたな」
「そんなわけで、今から行くヴィドス村はあまり栄えていないの。
こう言ったら悪いけど、途中で乗り継いだファイガの町より格段に田舎って雰囲気だから、びっくりしないでね、リナリー」
「う、うん、そんなことでは驚かないよ」
車窓の風景は非常に長閑だ。
吹き込む風に、髪の毛が煽られる。
唇に毛先が貼りついて、少し困った。
「此処の巡礼といえば、夜にやるっていう特徴もあるんだよね」
が確認するようにアナに顔を向けた。
「はい。とは言いましても、基本的にはあまり厳格に守られてはいないようです」
「ああ、前に来た時もそれ、聞いたな……だんだん適当になってるんだ、って」
「特に恋愛成就に関してはおまじないみたいなものですからね。地域の少年少女が初恋のおまじないに行ったりするそうですよ。
しかし、一度評判の落ちた魔女の手拭いの巡礼は、逆に厳格化されたそうです」
車内放送が、次の停車駅を知らせてくる。
イヴォナ駅。
目指すヴィドス村への最寄り駅だ。
「『死者の蘇生』を願う人は、厳格に、日が落ちている時間帯にだけ巡礼を行うようになりました。
……ですから今では逆に、巡礼者ひとりひとりの願い自体は強くなったのかもしれませんね」
立ち上がって降車準備をしながら、リナリーはちら、とと話すアナを見た。
リナリーに両親の記憶はない。
の家族のことは聞いたことがない。
けれどアナは、こんな任務に出向いて関わって、恋人を蘇らせたくはならないのだろうか。
教団に所属する人の多くが、そうだ。
アクマに大切な人を奪われた経験を持って、それでいて伯爵の誘惑にも屈さず、こうして生きている。
本当は、誘いの手を取りたいのかもしれない。
ぎりぎりで踏ん張っているのかもしれない。
叶わないと知っていてもなお諦められないような思いだ。
一縷の可能性に懸けて巡礼に臨んでいる間はまだいい。
けれど、その末にやはり叶わないと確信してしまったら、その後、思いはどこへいってしまうのだろう。
どうなってしまうのだろう
汽車が減速を始める。
アナが準備を整えて、荷物と通信機を背負い直す。
が棚から荷物を下ろした。
「はい、リナリーの分」
「あ、ありがとう」
ぼうっとしていたリナリーは、慌てて顔を上げて鞄を受け取る。
がふと手を止めて、まじまじとリナリーを見つめた。
彼の漆黒に、リナリーだけが映っている。
「あれ? ねぇ、リナリー、唇……」
「えっ、……あ、その、これは……」
そんな風に突然真正面から見つめられたら、どこを見ていいのか分からなくなってしまう。
彼のきょとんとしているときの表情は、普段より少し幼く思えて可愛いのだ。
あたふたしていると、彼が眩しそうに眼を細めて笑った。
「……似合ってる。可愛いよ」
ぼ、と耳が熱くなる。
熱い湯気を耳から頭の中まで一息に吹きかけられたみたい。
きちんと返事を出来たかな。
可愛らしく、ありがとう、と言えていたかな。
その辺りの記憶が曖昧なまま、リナリーはふらふらと彼の後について、汽車を降りたのだった。
イヴォナの駅は聞いた通り寂れていて、リナリーたち三人の他に降車した客はいなかった。
外の風に当たったらリナリーも流石に冷静になってきて、前を歩くが弁当屋の屋台を眺めているのに気が付いた。
何か買うのかと思ったが、彼はすぐに視線を逸らして駅を出た。
「様はご存知かと思いますが、此処から少し歩きます。途中で巡礼路と合流するのですが、今の時間だと巡礼者がいるかどうかは五分五分でしょうね」
「そうだね。今夜の巡礼には間に合うかな」
「ええ、夕暮れ時には到着できるかと」
リナリーは二人に追い付いて、首を傾げた。
「今回の任務は、ヴィドス村の宿屋から依頼を受けたのよね」
アナが頷く。
「そう。以前のブームの火付け役でもあり原因でもあった、森の入り口の宿屋さんから依頼されたの。
最近、宿屋の利用者が、森の中で仲間が消えたと訴えてくる、って」
「仲間? 巡礼って、一人で行くんじゃないんだ?」
「個人で行くこともあれば、集団で巡礼をすることもあるんだって。歩いている間に意気投合したりね。
今は大して気にされてはいないとは言っても、ここの巡礼はおおよその時間帯が決まっているでしょ? だから余計に、人が固まって動くことも多いんだろうと思う」
途中少し蛇行しながらもほぼ真っ直ぐ北へ向かう道は、駅と同じで人通りが少ない。
「巡礼者が、同行していた仲間が森の中で消えて、服だけが残っていたと訴えるようになったんですって。
村人にも突然失踪する人が出てきたりして……宿屋の女将は、以前のこともあるからこれ以上の悪評を避けたかったみたい。
それで、巡礼を調べていた私たちに接触してきたってわけね」
「アナはその女将に会ったことがある?」
が訝しそうに訊ねる。
アナは、そこに関心を持たれるとは思わなかった、という調子で慌てて頷いた。
「は、はい。クラーラさんとおっしゃる、目の不自由な方です。感じの良い女将さんでした」
「そっか……」」
彼は、少し表情を緩めてほ、と息をつく。
リナリーの視線に、が眉を下げた。
「五年前のブローカーが、クラーラさんの娘だったから。結局その娘さんは騒動の中で死んでしまって……ちょっと心配だったんだ」
「クラーラさんは、その時のことで『アクマという化け物を破壊できる存在がいる』ということに思い至ったそうですよ。
我々のローズクロスで、恐らくマリアン元帥の事を思い出したんじゃないでしょうか」
は通りかかった墓にもアクマの事情にも心を傾ける人だ。偶然でも関わりがあり、尚且つ悲劇に見舞われた人のその後に思いを馳せないわけがない。
恐らく司令室でこの任務を伝えられた時から気に掛かっていたのだろう。
アナの言葉に、彼は安心したように微笑んだ。
が笑うと、リナリーも嬉しくなる。
「よかったね、お兄ちゃん」
「うん。……よかった」
しばらく行くと、話の通り巡礼路が見えてきた。
向かい側からすれ違った馬車が巡礼路の方へ曲がっていくので、リナリーはついとそちらに目を向けた。
「あれは道沿いの宿とか料理屋さんに物を届ける商人の馬車ね」
「じゃあ巡礼した人が乗ってるわけじゃないのね」
「お願いして乗せてもらった人はいるかもしれないけどね。巡礼を終えた人はたいてい歩いて帰るか、汽車で帰ってしまうらしいから」
「……ん、あっちの人たちは巡礼帰りかな」
の小さな声に、リナリーとアナは道の先を見た。
確かに、全身に疲労を抱え、特に足元がくたびれたような雰囲気の二人組がいる。
二人はたびたび背後を振り返っていて、どこか落ち着かない様子だ。
声を掛けてみよう、三人は目を見交わして頷いた。
「すみません! 少し伺いたいのですが、あなた方は巡礼の帰り道でいらっしゃいますか?」
胸を張って気合いを入れたアナが、二人組に声を掛ける。
スキンヘッドの背の高い男性と、丸い眼鏡を掛けた女性の二人組だ。
女性の方が顔を傾けて怪訝そうに三人を見た。
彼女は痩せているというよりげっそりとやつれているように見えた。
男性の方が一歩前に出て女性を体の陰に隠す。
「ええ、そうです。あなた方は?」
「我々は黒の教団の者です。ヴィドス村の宿から要請を受け、巡礼の護衛役として参りました」
「……嗚呼、なんてこと……」
男性の陰に隠れた女性は、そう呻くとふらついて蹲ってしまった。
リナリーは慌てて彼女の体を支える。
「だ、大丈夫ですか? 顔色が悪いわ」
「あなたたちが、あと一日早く、来てくれていたら……」
そのまま泣き崩れてしまう。
リナリーは困惑しながら女性の背を擦った。
が男性を見上げる。
「ヴィドスの巡礼で人が消えると聞いています。昨晩の巡礼でも、何か事件があったんですか?」
男性は険しい顔で眉を顰めた。
「消えるだなんて……いや、言っても信じないだろう」
アナが何かを言う前に、がそれを制する。
「人が砂になった姿を見ましたか?」
女性の体がビクッと震えた。男性は目を見開く。
「信じて、くれるのか?」
「俺たちは、ソレから巡礼の方々を守るために来ましたから」
の声は淀みない。
夕陽に照らされる金色を迷子のような瞳で見下ろして、男性は少年の華奢な肩に手を置き、縋るように項垂れた。
「……オレたちは、息子のために巡礼に参加したんです。昨晩、他の巡礼者と一緒に宿を出て、森に入りました……」
彼が言うには、こうだ。
昨晩、二人は他の巡礼者と共に宿を出て、森の中の教会を目指した。
シシィの巡礼では、目的地の近くの樹木に赤い石が吊るしてあり、それを道標として歩いていくらしい。
これまでの巡礼と同じように、二人はヴィドスの森へと足を踏み入れた。
森の中には小川が流れていて、ヴァラの小川と繋がっているという話だった。
慣れたとはいえ、夜の森をランプ一つで歩くのはかなり勇気が要る。
此処が巡礼の最終地点ということもあり、三つ目の巡礼地を懐かしがりながら人々は互いに励まし合って歩いていたという。
道なりに歩いて、大きな切り株を左に曲がった少し開けた場所で、事件は起こった。
「ギャッ」
男性は最初、眠りを妨げられた動物の鳴き声だと思ったそうだ。
しかし、すぐに異変に気が付いた。
木々で羽を休めていたはずの鳥たちが、ギャアギャアと鳴き喚きながら一斉に飛び立ったからだ。
誰かが叫ぶ。
「あの人がいない!」
見れば、最後尾を歩いていた男性の姿が無くなっている。
これが噂に聞いていたアレか、と全員が震え上がった。
既に、巡礼の道順は半ばを過ぎている。
「このまま教会まで行ってしまおう!」
また誰かが叫ぶ。
巡礼者たちは転がるように、叫びながら先へ先へと駆け出した。
男性は妻の手をしっかり握って死に物狂いで走るうちに、いつしか集団の先頭にいた。
背後からは悲鳴や喚き声、そして銃声のような音が聞こえる。
「皆さん頑張って!」
女性は後ろに向かって叫んだ。
男性は、道の先に教会の屋根に立てられた十字架を見付けた。
「あと少しだ!」
背後に声を掛けるも、それに対する反応は返ってこない。
振り返ると、すぐ後ろを走っていた男性が砂になって砕け散った。
目撃してしまった二人はパニックになった。
無我夢中で脇目も降らずに走り抜ける。
小さな教会の前に走り出る。
やっと目的地に辿り着いたという感慨に浸る間もなく教会の扉に手を掛け、中に駆け込んだ。
そして思わず、扉を閉めてしまった。
外からの悲鳴は、やがて聞こえなくなった。
二人はそのまま教会の椅子の陰に隠れて抱き合って震えていたのだそうだ。
時間の感覚がなくなったころ、外から朝の光が差し込んできた。
怯えながらも外に出てみたら、辺りには仲間の巡礼者が着ていた衣服が散らばって落ちていた。
それを見ながら歩くのが忍びなくて、赤い石の下がっている巡礼路を使わずに森を彷徨いながら村まで引き返したという。
「……オレたち以外の巡礼者は、皆、砂になってしまったかもしれない。誰に会うのも怖くて、荷物も持たずに逃げてきてしまいました」
「人が消えるかもしれないとは、私たちも聞いてはいました……けれどまさか、こんなことになるなんて……!」
女性は震えながら泣いている。
男性もここまで妻を支えていたから何とか気を張っていられたようなものだったのだろう。
ようやく人に事情を打ち明けられたことで気が抜けたのか、腰を抜かしてしまった。
大柄な男性だが、は苦も無く彼を支えて地面に座らせた。
「では、お二人は、手拭いの巡礼は行わなかったのですね」
夫婦は、アナに言われて初めてそこに思い至ったように瞬きをする。
「隠れることに、必死でした……人を見捨ててまで、走ったのに……」
男性が呆然と呟けば、女性が顔を覆う。
「あの子のことよりも、自分が生きることで精いっぱいだったなんて……」
あの子というのは、二人が蘇らせたい「息子」なのだろう。
嗚呼、二人は、奇跡は起こらないという確信さえ得られなかったのだ。
それを思うと、ぐぐ、と胸が苦しくなる。
思わず俯いたその時、リナリーの隣から別の手が伸びてきて、女性の肩に触れた。
だ。
夫婦の肩に両手を触れて、彼がそっと微笑んだ。
「生きていてくれて、ありがとう」
リナリーには聞き慣れた言葉だ。
彼は生き残った人すべてに、必ずこう言ってくれる。
「大丈夫、――赦すよ」
ただ繰り返しているのではない。
言葉は同じなのに、その人、一人ひとりに思いと祈りと祝福を込めてくれているのだと、不思議と分かる。
声色なのか、笑顔なのか、それともやはりこの不思議な空気のせいなのか。
夫婦も、初めて彼のその姿を見るアナも、理想の神様のような微笑に心を奪われている。
心を奪われるから、ほんのひと時でも、悲しみや苦しみから目を離すことが出来るのだ。
「打ち明けてくれて、ありがとう。……いつか気持ちが落ち着いたら、また此処まで来てあげてください。
次の巡礼では息子さんのことだけ考えていられるように、俺たちも手を尽くしますから」
リナリーは、涙の止まらない女性をしばらくの間抱き締めていた。
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200410