燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  






11









「ヴィドス」と書かれた看板の下をくぐった時には、既に夕陽が一面を橙色に照らしていた。
あの後、夫婦は互いを支え合いながらイヴォナ駅を目指してまた歩き出した。
リナリーたちはそれを見送って決意も新たにヴィドスへ辿り着いたのだ。

「もう今日の巡礼が始まっちゃうかな」
「早い人はもう出てしまったかも……お二人とも、少し急ぎましょう」

村の中心の広場周辺と北の方角に面した建物は、村の南側や、小道の先の風景に比べて異質に見えるほど新しい。
けれど、新しい建物に限って人の気配が窺えない。

「新しい建物は、ブームが起きた時に建てられたお店なんだそうよ」
「新しいお店ほど、なんていうか……潰れちゃってない? 古い建物には明かりがついてるよね」
「古くからやってるお店の方が、体力があったみたいね。ブームが過ぎたら新設店は立ち行かなくなったんだって」
「そういうものなんだ……ブームっていい事ばっかじゃないのね」

古くからの巡礼者のための商店や料理屋、宿屋などには村人や利用者の姿がある。
人はそれなりにいるのに、賑わっているという雰囲気はなく、村全体に活気はなかった。

「さっきの夫婦が言ってた昨日の夜のことを、村の住人は知ってるのかな。アクマが弾丸を撃ったなら、それなりに音がしただろうけど」

早足で歩きながら、が言う。
森の方角は明らかだからか、一度来ただけの場所なのに、の足取りには迷いがなかった。

「そうだよね、あの二人、銃声みたいなものを聞いたって言ってたもの……アクマはレベル1なのかしら」

リナリーが呟くと、アナが悩ましく首を振った。

「村人はなかなか口を割らないんですよねぇ。流石に、過去のこともありますし。
けれど、住民も音くらいは聞いていると思います。住民の中にも被害者がいるそうですから……此処を離れた人も多いとか」

が難しい顔をする。

「アクマのレベルもだけど、全体の数も読めないね。五年前も相当な数のアクマが生まれていた筈なんだ」
「お兄ちゃんと元帥は、その時何体くらいを相手にしたの?」
「うーん……ごめん、全然覚えてない。師匠がすぐに倒してくれてたと思うんだけど……あの時は火事が、」
「火事?」

言い過ぎた、と少し後悔するように彼は目を泳がせた。

「……うん、火事が、あって。だから戦闘の事はあんまり覚えてないんだ」

苦笑したは、リナリーの関心を別のところに向けようとしたのだろう。
道の先を指差した。

「あそこが、探索部隊にコンタクトをとった宿だよね」
「ええ、そうです。あ、よかった、まだ巡礼者がいますね。行きましょう」

率先して先を歩くアナと、行こう、とリナリーの手を取る
彼と繋いだ手を見ながら、リナリーは小さく溜め息をつく。

「(話してくれればいいのに)」

のことなら、何でも知りたいのに。

「(話せないって、言えばいいのに)」

話したくないなら、そう言ってくれていいのに。

「ごめんください! クラーラさん、いらっしゃいますか、黒の教団です!」

アナの大きな声に、リナリーはふるりと首を振る。
今は任務中だ。
余計なことを考えてはいけない。

出立の準備をしていた数人の巡礼者が振り返った。
その中に、際立って美しい女性がいた。
短髪なのに、黒髪の艶がよく分かる。
がハッとしたように彼女に声を掛けた。

「あの! あなたは、『シシィの赤い石』のアデラさんですか?」

声を掛けられた方は、彼を見た誰もがそうなるように一瞬釘付けになる。
それから彼女は怪訝そうに頷いた。

「そうだけど……あなた、誰?」

リナリーはを見た。
彼の漆黒はひどく不安げに見える。
が話し出す前に、彼女の方が団服に目を留めた。

「あっ、待って、その服……オットーの話を聞いてくれた赤髪の旅人さんと、知り合いかしら……?」

が慌てて頷く。

「その隣にいた弟子です」
「フードの! 金髪の!」
「そう、それです。といいます」
「大きくなったわね! ああ、全然分からなかった」

アデラと呼ばれた女性は快活に笑った。
この村で見かけた人の中で最も活き活きとしている。

「お兄ちゃん、知り合い?」
「知り合いというか……前に来た時、シシィの巡礼の話を詳しく教えてくれた人なんだ。ファイガの料理屋さんの、看板娘さんだよ」
「やだもう、お店以外で言われるとちょっと恥ずかしいわ。それにしても奇遇ね……。またケレンを旅しているの?」
「そんなところです。ヴィドスの巡礼で人が消えるって噂を調べに。……いや、アデラさんこそ何で此処に? 此処の噂を知らない筈はないでしょう、お店はどうしたんですか?」

彼女は苦笑して、それから髪を落ちてきた前髪をかき上げた。
右手の薬指に、アナと同じような指輪がある。

は彼のこと覚えてるかな……あたし、うちの常連のハインツと婚約したんだけどね……」

リナリーは思わず「おめでとうございます」と口にした。
アデラは少し驚いた顔で「ありがとう」と控えめに笑った。
言葉を探すようにして、彼女は言う。

「結婚式の前に、どうしてもオットーのことに区切りをつけたいの。彼、やっぱりあれから行方知れずだから」

オットーというのは、恐らくアデラの大切な人だろう。
何も知らないリナリーだけれど、声色を聞けば、表情を見れば、それだけは分かった。
アデラは一度息をついて、唇に少し力を入れる。

「此処の奇跡は、事件だったんでしょう? ……私、やれることは全部やりたい、って思って」
「(諦めたいんだ、アデラさん)」

彼女は「行方知れず」と言ったけれど、オットーの生存をもう諦めているのだ。
だから、此処にいる。

奇跡を信じるとか、信じないとかではなく、心の整理をつけるために。
生存の望みも、彼への思いも、彼女の中で諦めてしまうために、此処に来たのだ。

が、微笑む。
ふうっと空気が軽くなる。

いつもの調子を取り戻して、彼がゆったりと頷いた。
空気が、光が、寄り添うようにアデラを包む。
今、彼の微笑みはリナリーには向けられていないのに。
彼はアデラのために微笑んでいるのに、リナリーまでもその慈愛の恩恵に与ったようで。

まるで、自分を肯定されたみたいで。

「……それなら、無事にやり遂げて、ハインツさんの所に帰らないとね」

まだ巡礼を終えていないのに、もう救われたような表情でアデラが細めた目から涙を零したのも、無理もないことだった。

「お二人とも!」

アナの声に、リナリーとは振り返る。
腰の曲がった老婆が宿の中から出てきた。
また後で、とアデラが準備に取り掛かり、二人はアナの方へ向かう。

「こちらが女将のクラーラさんです」
「ヴィドス村へ、ようこそ……どうか皆様を救って差し上げてください」

クラーラがあまりに深々と頭を下げるので、リナリーは恐縮してしまって少し慌てた。

「女将さん、そんな。頭を上げてください」
「いいえ……うちの娘のしたことが、今回の噂の原因かもしれないと聞きました……いくら謝っても、足りないわ」

が地面に膝をつき、クラーラの手を取る。

「クラーラさん、あれから、村の人に何か言われたんですか?」

話によれば女将は目が不自由な筈だ。
けれど彼女は何か思い当たるような顔で、顔を上げた。

「あなた……?」
「あなたはあの時、娘のブルーナさんが亡くなった日、彼女を庇ったでしょう。
なのに、どうして今はそんなことを言うの。どうしてそんな風に、あれは『悪いことだった』って言うんですか」

どういうつもりなんだ。
責めるわけでもなく、淡々とそう問い掛けるの声は硬く、冷たい。
道端の夫婦に向けたものとも、つい先程アデラに向けたものとも全く違っている。
クラーラが顔を顰めた。

「お隣の息子さんも、服だけ残して消えてしまったのよ」
「あの日、火を消してくれた若い人?」
「ええ。……私はもう、彼ら親子に申し訳なくて」
「――申し訳ない。だと。どの面下げて、そんなことが言えるんだ」

地を這うような声がした。
リナリーは驚いて飛び跳ね、振り返る。
薄汚れた格好の髭面の男が、片手に重そうなウィスキーの瓶を持ってそこに立っていた。

「隣家のおじさんだわ。……息子さんがアクマに殺されるまで、料理屋さんをやっていたの」

アナが小声で囁く。

男は千鳥足で此方へ近付いてくる。
彼が身動きするたびに、酒の匂いが鼻についた。
リナリーとアナは思わず身を引いた。
どうしよう、止めなくちゃ。
そう思ったのも束の間、男は一瞬前のリナリーと同じようにビクッと体を震わせ、立ち止まった。

「どうして、お前が、此処にいるんだ……!」

男の怯えた視線の先には、地面に膝をついたまま振り返ったがいる。
彼は、男を見上げて静かに呟いた。

「あなたは、本当に素直な人ですね」
「うるさい!!」

投げつけられた酒瓶をは難なく掴み取り、そっと地面に置く。
そうしている間に、男は叫びながら家の中に逃げ帰ってしまった。

「な、何だったの、今の……」
「分かんない……お兄ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫、問題ないよ」
「ねえ、あなた、」

クラーラがの手を引いた。

「あなた、ブルーナのために火を消してくれた、あの小さな子でしょう?」

彼は女将に視線を戻し、小さな声で「はい」と頷く。

クラーラは彼の手を握って額に押し当てた。

「ありがとう……ごめんなさいね、ありがとうね……」

五年前の火事というのは、ブローカーだったクラーラの娘ブルーナが死んだ「騒動」の事だとリナリーは思い至った。
ブローカーの存在を、とクロスは村人の目の前で明かしてしまった。
それがどうして火事に繋がるのかは分からない。
けれど、奇跡のカラクリを知ってなお、周囲を巻き込んだブルーナを隣家の息子とは助けようとしたのだ。

ならブローカーだろうがその生命を見捨てないだろう、リナリーは疑いもなくそう思う。
けれど同時にそれは彼にとって苦渋の判断だったのではないだろうか、とも思う。
はブローカーに出くわすたび、彼にしては苛烈な怒りを見せ、そして必ず拳で殴り飛ばすのだから。









アデラたち七人の巡礼者の最後尾について、リナリーとは森の中に足を踏み入れた。
夜の森というシチュエーションは任務で何度も経験しているが、ヴィドスの森は非常に穏やかな印象を受ける。
巡礼者たちが和やかにしているからだろうか。

巡礼者は各々が手に持った人数分のランプを頼りに歩いている。
昨晩の巡礼をしたあの夫婦が話していた通り、彼らはここまでの道程で随分親しくなったらしい。
互いの足元を気遣い合ったり、此処までの巡礼を振り返ったりと和気藹々としていた。
いっそ、村の中の様子よりよほど活気がある。

森の樹木に掛けられた赤い石を頼りに歩くのだと聞いていたが、それがなくとも、過去の巡礼者たちが踏み固めた道があった。
話によると、今日の七人の巡礼者は皆、巡礼の経験はあるものの、ヴィドスまでやって来たのは初めてなのだという。
先頭を歩く兄弟が、時折ランプを掲げて赤い石を照らしながら、小川を横目に歩いていく。

「お兄ちゃんは、この村のことをよく覚えてるんだね。此処に来たのって、五年も前なんでしょ?」

アナはクラーラの宿に残してきた。
万一、巡礼者でなく村の方が襲撃された場合、彼女が持つ結界装置が村人を守る唯一の手段になる。

「何でもかんでも覚えてるわけじゃないんだけどさ……此処の場合は少し特別だったっていうか、」

の苦笑が、すぐ前を歩くアデラのランプから零れるぼんやりとした明かりに照らされた。

「あの時初めてブローカーの存在を知ったんだ。だから、印象深くて」

リナリーたちは闇に眼を慣らすため、明かりを持っていない。
先を行くランプの光が、大きな切り株を照らしている。
一同はそのまま道なりに左折する。

「そうなんだ……えっと、クラーラさんの娘の?」
「うん。ブルーナさん……あの日、火事で亡くなったんだけどね」

何で助けられなかったんだろうなぁ……、が遠くを見つめてそう呟いた。

「……アクマの弾丸がさ、宿の、住居の部分に直撃したんだよ。運悪くブルーナさんはその真下にいて、崩れた屋根と壁の下敷きになったんだ」

リナリーは少し驚いた。
彼が過去の話をすることは、あまり無い。
今は、リナリーに聞かせているつもりもないのかもしれない。
明かりが乏しいので彼の漆黒の表情を窺う事が出来ず、少し不安になる。
リナリーはなんとか相槌を打とうと思った。

「家が崩れただけで……ううん、だけ、って言うのも変だけど、それで火がついちゃったの? 料理でもしてたのかな」
「いや、台所の火じゃなくて……確か、ランプの火だったかな……崩れた瓦礫が窯みたいな形になっちゃって、火が回るのも早かった」

窯のような形の瓦礫の中で、身動きの取れない女性が横たわっている様子を、リナリーは想像してしまった。
蒸し焼きのような状況だったのだろうか。
熱くて、痛くて、きっと苦しかっただろう。
思わず顔を顰める。

「はは……分かるよ、師匠もあれからしばらくピザは食べようとしなかったから」

具体的な言葉を出されると、リナリーの脳内の想像図も刷新される。
がリナリーの頭をそっと撫でた。

「ごめん、変なこと想像させちゃったね」
「う、ううん……気にしないで、私も気になってた話だから」

リナリーは無理やり笑顔を作ってみせたけれど、彼は申し訳なさそうに微笑んだ。

「お兄ちゃんは、ブルーナさんを助けたかったんだね」
「うん。……彼女は、巡礼者のために奇跡を起こしたかったって、言ったんだよね。……俺からすれば本末転倒じゃないかって思うんだけどさ」
「……だから、助けたかったの? 人のためにブローカーになった人だから、ブルーナさんのことは許せたの?」
「いいや。彼女が借金まみれだったとしても助けたかった」

彼が。

そう、きっぱりと言うから。

「どうして? お兄ちゃんはいつもブローカーを殴るし、絶対に許さないじゃない」

どういうつもりだったの。
リナリーは先程彼が女将にしたように訊ねたのだけれど。

はきょとんとリナリーを見つめ、それから微笑んだ。

「神様になんか任せておけないからな」

そっと視線を落して、微笑んだ。

「……神様はやりすぎちゃうから、俺が殴っておくくらいでちょうどいいんだよ」






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200410