燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
神
判
の
綻
び
12
引き起こされる結果が同じであっても動機が崇高ならば許されるのか。
私欲に塗れていなければ裁けないのか。
彼らブローカーが動いた結果リナリーの「世界」が脅かされたら、果たして拳ひとつで怒りを抑え込むことが出来るだろうか。
否、仮定の話ではない。
アクマを破壊するのも一般人を守るのも、リナリーや、「世界」を構成する人々の役目なのだ。
望んだ役目ではない、しかしリナリーたちが動かなければ皆死んでしまう。
その恐怖や危険や怯え、苦しみや痛みや悲しみを、拳ひとつで抑え込むことが出来るだろうか。
そう思う一方で、彼の言う「神がやりすぎた」ことこそ、ブルーナの死の有様なのだろうと分かる。
リナリーだって、確かにその死に様は聞いただけであまりにも凄絶で理不尽だと感じた。
自分が拳ひとつで相手を許せるかは直面してみないと分からないけれど、因果応報と口にしてしまうのは恐ろしい。
「(……お兄ちゃんは、神様の方が気に食わないんだ)」
神に物申すことは「いけないこと」だと思っていた。
リナリーたちは、神の使徒と呼ばれているから。
神様は正しくて、憎らしいほど正しいらしくて、だから、憎らしいなんて、嫌いだなんて、言ってはいけないのだと。
けれど、は躊躇わない。
微笑みを浮かべたまま神を詰ることだってある。
中央庁の目が、神様の目が、咎落ちが、怖くはないのだろうか。
「(そんなことよりも、ブローカーの所業よりもずっと、もっと、神様の勝手な振る舞いの方が嫌なんだ)」
彼の真似なんてとても出来ないけれど。
彼のように振る舞うのはとても難しいけれど。
中央庁の目も、神様の目も、咎落ちも、この人の傍にいると不思議と怖くない。
憤ったり、居た堪れなくなったり、悲しくなったり、切なくなったり。
そんな気持ちが膨れ上がって神様に大きな声で叫びたくなった時に、声を押し殺して泣かなくていい。
リナリーを否定した金色の「お兄ちゃん」の傍にいれば、リナリーは自分を偽ったり、自分を抑え込んだりしなくていい。
だから、自分を否定した彼の傍に、いたくなる。
「二人とも、明るいところに出るわよ」
アデラの声に、が顔を上げた。
リナリーもつられて視線を前に向ける。
小さく開けた場所に出た巡礼者たちは、周囲の木を見回して先に繋がる赤い石を探している。
巡礼路の続きはすぐに見つかった。
励まし合って、さあ行こう、と彼らは気合いを入れ直す。
僅かな月明かりでも、の黄金はそれを受けて光の粒子を纏ったように輝く。
白磁の横顔は淡くぼんやりとして曖昧な輪郭を描くけれど、それがいっそう幻想的でつい見惚れてしまう。
黄金色の眩い輝きが印象深い彼だが、不思議と陽光よりも月光を受ける方が似合っている気がした。
穏やかな時間は、唐突に終わる。
く、と彼が眉を顰めた。
「リナリー、〈黒い靴〉を」
の手には既に〈福音〉が握られ、光を放っている。
いつもながらこの人はどうやってアクマの存在を察知しているのだろう。
リナリーは驚くと同時に、言われた通り〈黒い靴〉を発動させた。
〈黒い靴〉の緑の光に、アデラが振り返る。
巡礼者が足を止める。
「……数は?」
「八……いや、十一!」
リナリーは、ギッと闇を睨んだ。
昨日の夫婦の話と同じこの開けた場所で、がアクマの存在を察知した。
ということは、恐らくアクマたちは、この森に定期的に人が通るということを理解しているのだ。
アデラたちの巡礼を、絶対に守りたい。
奇跡が起ころうが起こるまいが、それに挑む機会や自由や希望、諦めるための大切な時間を奪わせてなるものか。
「お兄ちゃんは後ろをお願い!」
言いながら強く地面を蹴る。
樹上へ躍り出れば、真っ直ぐ北の方向に小さな教会の屋根と十字架が見えた。
そして木々の隙間から覗くアクマの砲口も。
そうだ、教会だ。
考えてみれば、アクマに狙われたこの森の中で、何故か教会は無事なのだ。
リナリーは前方のレベル1を蹴り壊してから、巡礼者たちの先頭に降り立った。
突如空から降ってきたリナリーに、先頭の兄弟は驚いて足を止める。
「きみ、いったいどこから?」
「い、今の音はまさか、出がけに言ってた例の噂の……」
「そう。でも話は後です、今は逃げて! 教会まで、急いで!」
後ろの方から銃声が聞こえる。
アデラたち、後の五人が悲鳴をあげながら全速力で駆けてくる。
リナリーが私についてきて、と言おうとした矢先、彼の声が空気を切り裂いた。
「リナリー、足元!」
反射的に右足を上げ、足元の影を踏みつける。
見れば、オオトカゲのようなボディのアクマが〈黒い靴〉の下で藻掻いている。
こんな見た目のアクマは初めて見た。
力を込めて踏み込めば、ギャア、と鳴いてボディが潰れた。
最後の力か、がばりと開けた口から銃口が剥き出しになる。
アデラの悲鳴が聞こえる。
トカゲの頭をもう一度踏みつけて道の脇に吹き飛ばす。
振り返ると、座り込んだアデラをが片手で引っ張り起こしていた。
彼女の隣を歩いていた巡礼者の女性にアデラを引き渡して、が後方へ二発、銃弾を放つ。
その間にも彼の左手が滑らかに腰のナイフを手に取り、手首に刃を走らせた。
教会へ向かう道を守るように、道の左右と上空を黒い霧が囲んだ。
「霧の中を走れ! 早く!」
彼の声が、空気を縛る。
戸惑いや怯えを抱えたままの巡礼者たちは、それでも弾かれたように駆けた。
リナリーは再び上空に上がる。
前方のアクマは、あと三体。
後方も同じくらいの数だろうか。
〈聖典〉の黒い霧は、イノセンスの力を受けた彼の血液で作られたものだ。
アクマにとっては毒でしかない。
あの霧に守られている間は、巡礼者をアクマが直接殺すということは無いだろう。
だからリナリーがやることは、アクマが無闇矢鱈に発砲する前に全て破壊すること。
風を起こすと、折角の霧を晴らしてしまう。
だから空気を蹴り、空を跳ぶ。
人間を殺す、人間を殺す、とアクマは叫んでいるけれど。
「絶対、邪魔なんかさせない!」
リナリーだって、絶対に殺させない。
放たれた弾丸を掻い潜り、その銃口をへし折る。
水車のようにぐるりと回転し、ボディに大穴を開ける。
間髪入れずに振り返る。
髪が視界の端を横切る。
霧の道を狙うアクマを蹴り飛ばして遠ざける。
そのアクマが瞬時に凍り付き、砕けた。
〈福音〉の凍結弾だ。
木に火がつかないように、火炎弾を使わないのだろうとすぐに分かった。
「(あと一体は、どこにいるの)」
〈聖典〉の霧は薄れている。
リナリーは周囲を警戒しながら教会の傍へ降り立ち、先頭の兄弟を手招いた。
「さあ、入って!」
「きみたちは!?」
「私たちは大丈夫!」
にっこり笑いかけ、彼らを扉の中に押し込む。
急いで! そう声を掛けながら、残りの巡礼者を促す。
教会の扉が見えて安心してしまったのだろう、アデラを引きずるように支えていた女性が彼女の手を離してしまった。
アデラがその場にへたり込んだ。
彼女の頭上に影が差す。
「(見付けた!)」
リナリーは女性を教会へ押し遣って、地面を蹴った。
風を切る。
上昇の勢いのまま、ブーツに覆われた膝をアクマに蹴り込む。
勢いが少し弱かったか、ボディは陥没しただけでまだ破壊には至っていない。
リナリーは高く空へ舞い上がる。
の作った霧は、とうに晴れている。
今なら憚ることはない。
――円舞「霧風」!――
起こした風がアクマを直撃した。
その断末魔が、アデラたちのものでなくて本当に良かった。
森は、先程までの騒動や轟音が嘘のように静まり返っている。
降下しきる前に教会の前に眩い金色が見えた。
彼がリナリーに手を振る。
「もう周囲に気配はないよ。巡礼の人も全員無事だ」
「ああ、よかった!」
降り立ったリナリーはほっと胸を撫で下ろし、思わず天を仰いだ。
の微笑も相俟って、自然と笑みが零れてくる。
彼の足元にはアデラが放心状態で座っていた。
放り出されたランプは、既に火が消えている。
リナリーは地面に膝をついて、アデラの肩に触れた。
「あの、アデラさん……大丈夫ですか?」
アデラがリナリーを見上げ、ぶるりと体を震わせる。
「オットーが、」
みるみるうちに綺麗な緑色の大きな瞳には涙が溢れ出した。
「あたしのところに来た化け物、仮面に……オットーの顔がっ……」
上擦る声。リナリーも堪らなくなって、しがみついてくる彼女をそのままぎゅっと抱き締めた。
静まった森の中で、アデラの泣き声だけがわんわんと響いた。
泣き声が啜り泣きに変わったころ、教会の中から巡礼者が心配そうに顔を覗かせた。
が先に彼らの元へ駆けていく。
「あの化け物は、どうなったんですか?」
「もう大丈夫、奴らは出てきません。俺たちを信じて走ってくれてありがとう。あなた方が無事でよかった」
「守ってくれてありがとう……でもキミ、手、怪我して……えっ、それ、血……?」
「ああ、……変なもの見せてすみません。気にしないで」
リナリーは自分の目に滲んだ涙をぐっと拭って、アデラの背を撫でた。
「……アデラさん。立てますか? 手拭いの巡礼、やり遂げましょう?」
彼女は腕の中でこくりと頷いた。
鼻を啜って、リナリーの手に縋り、立ち上がる。
「ありがとう……あたし、取り乱して、ごめんね……」
「そんな。アクマと遭遇するだけでもショックなのに、無理もないです」
「駄目だなぁ、あたし……オットーが、もう――だ、って……そう思ったから、此処に、来たのになぁ……」
涙に濡れた目を擦る手をそっと止める。
リナリーはポケットからハンカチを出した。
「どうぞ、使って」
「ありがと……あら、何か落ちてる……」
彼女が屈んで、地面に光る小さなものを拾い上げる。
それは、掌にすっぽり収まるサイズの貝殻のケースだ。
はっとして、リナリーはポケットに手を入れた。
無い。
「それっ、私のです、すみません」
くす、とアデラが小さく笑った。
「ポケットに入れてたら失くしちゃうよ」
「こ、こういうの持ったの、初めてで……」
どんなことであれ、彼女が笑ってくれたことが嬉しい。
アデラがリナリーの手にケースを握らせる。
「小さなポーチに鏡と一緒に入れておくといいわよ」
「次からそうします」
リナリーは苦笑し、アデラと手を繋いで教会の中に足を踏み入れた。
こじんまりとした教会だ。
椅子は三人掛けのものが二組ずつ五列並んでいる。
正面の祭壇には木の棒が十字に組んで立てられていて、そこに一枚の古い布が広げて留められていた。
既に、祭壇の前に跪く巡礼者がいる。
或いは椅子に座ってぼう、と祭壇を眺める者や、立ち尽くして布を見つめる者もいる。
アデラがリナリーの手を離れて、雲を踏むような覚束ない足取りで祭壇へと近付いていく。
その後を追いかけようとして、リナリーは思わず途中で足を止めた。
息を飲む。
「……驚くよな」
扉を閉めて歩いてきたが、苦笑してリナリーの傍の長椅子に腰掛けた。
リナリーは彼に頷き、その隣に座る。
もう一度、祭壇の布を眺める。
草臥れた襤褸布には、人の顔らしき染みがついていた。
「伝説にあるんだ。シシィの涙が染み付いて顔を写し取った、って言われてるんだって」
アデラが床に膝をついて、祈るように俯く。
「じゃああれが、魔女の手拭い……?」
「そう。……初めて見たけど、思った以上に伝説の通りだ」
小声で呟いたは腰のポーチから包帯を取り出して端を口に銜えた。
利き手と逆の左手で、器用に手首を圧迫している。
リナリーは思わず手を伸ばした。
「手伝うよ」
「ああ、ごめん……じゃあ、結ぶとこだけ頼んでいい?」
「うん」
今は包帯を操っている左手の手首の方が傷が多いことを、リナリーは知っている。
彼は器用に両手で銃を扱うけれど、利き手に支障が出ないようにと普段は左腕にばかり傷をつけているからだ。
今日は銃を持ち替えるよりも巡礼者の保護を優先していた。
アクマの数が少なかったからだろう。
――痛くないの?
その言葉は、何度も飲み込んだ。
痛いに決まっている。
彼は躊躇いが無さすぎるから全くそうは見えないけれど、肌を刃が滑って切り裂くその痛みはその傷の数だけ彼を苛んだ筈だった。
それでもやっぱり、彼にとっては痛みよりも、神様への怒りが先に立つのだろうか。
怒りは痛みを凌駕するのか。
二人が座っているような教会の聖堂は「・」に似合いの背景だ。
彼の特異な存在感を「教団の神様」と捉える団員たちだってきっと同じことを言うだろう。
それでもリナリーは今、若干の違和感も感じている。
「(祈ってないからかな)」
リナリーにとって、聖堂にいるはいつも誰かのために祈っているのだ。
膝をついて、指を組んで、頭を垂れて、一心不乱に祈っている。
神様に見放された「誰か」のために、本人よりも熱心に。
見ている此方の呼吸を奪うほどの熱量で。
体中のエネルギーを全て使い尽くしてそのまま其処で倒れ込んでしまうのではないかと。
魂のすべてを吸い出されて空っぽになってしまうのではないかと、気がかりになる程に。
驚くほど苛烈に神様へ食って掛かるのに、誰よりも熱心に神様へ祈りを捧げる。
その様子は矛盾しているようだけれど、リナリーの好きな「・」は双方揃ってこそ成り立つのだ。
「ありがとう。自分でやるといっつもほどけるから、どうでもよくなるんだ……」
「片手でやるからじゃない? 両手でやればお兄ちゃんも綺麗に結べるよ」
「そうかな、リナリーが上手なんだよ」
にっこりと笑ったは、椅子の背に凭れてふーっと息をついた。
〈聖典〉を使うのにもやはり一瞬も躊躇しなかった彼だが、今のところ不調は窺えない。
目を細めて巡礼者たちの背中を見ている。
リナリーも膝に置いていた貝殻のケースを両手で包み持った。
「綺麗な教会だね。アクマは、此処には来なかったのね」
「そうだな。……それこそ、魔女の奇跡だったりしてね」
だったら、いいなぁ。
呟いたリナリーの頭を、彼の優しい手が撫でた。
「……いや? これが案外イノセンスだって可能性は?」
「巡礼者の通り道を分かってたなら、目的地も当然知ってたはず、……だよね?」
「そうだ……殺人衝動を満たすなら此処を襲った方が早かっただろうに」
「襲えない理由が……あった……?」
その可能性は、捨てきれないかもしれない。
二人は、空想を脇に追い遣って祭壇の襤褸布を凝視した。
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200410