燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  






6









異様に落ち着かない夜だった。
 
久し振りに別の寝台で寝ることになったクロスとだったが、これがとにかく落ち着かない。

添い寝は、夢が怖くて眠れないのためにやっていた筈だった。
これでは、いつの間にかクロスの方があの子供なしで寝付けなくなったのかと錯覚する。
実際、子供にしては低いあの体温を抱えていないと布団の中が少し寒い。
 
そう、落ち着かない原因は、そのだ。
隣の寝台でこちらに背を向けて微動だにせず、なんとフードを被ったまま横たわっている。

あれは間違いなく起きている。
せめてコートくらいは脱いだらどうかと言ってはみたものの、「師匠だって団服のまま寝るときあるし」と言い返された。
野宿する時の話だ、と言い返せばよかったが、その言葉は咄嗟には出てこなかった。
不覚だ。
 
そしてクロス自身も、やはり今日は団服を着たまま寝ているのだ。

どうにも落ち着かない。
奇跡が起きるのは確かな事だという。
そんな中で、信用のおけない巡礼者たちと同室で眠るということも不快だった。
 
こんな状況でもし戦闘が発生したならば、クロスは弟子と巡礼者を天秤にかけて確実にの生命を優先する。
イノセンスを扱える人間には限りがあるからだ。
一つ、一人とて失うわけにはいかないからだ。
けれど、巡礼者たちを見殺しにしたら弟子が許さないだろうということも不愉快だった。
自分たちの安全を確保するために巡礼者を見捨てるのなら、クロスはまたもの心情を縛り付けることになる。
必要なことだと思っているから叩き込んでいるわけだが、立て続けともなるとそこそこ疲れる。

何も知らない巡礼者たちも、せめて連日の巡礼の疲れから安眠してくれればいいものを。
これまた、そうではない。
 
この地へ到達した者は、奇跡でもなければとうてい叶わない願いを抱えているのだ。
どんなに不可能に思えても、どんなに非科学的な事象でも、一縷の望みがあれば縋ってしまうのが人の性だ。
だからこそ千年伯爵のアクマは増えていく。
 
巡礼者たちは、ぐったり眠っている者もあれば、眠ろうと努力している者もいる。
中には手元に小さなランプを灯して聖書を読んでいる者もいる。
絶え間なくぶつぶつと何かを呟いている者さえいた。
巡礼を終えた者がこの宿に泊まらずすぐ村を出ていくのも分かる気がする。
肩の荷が下りた夜に、この宿ではまったく気が休まらない。
 
時間が経つほどに苛ついてきて、クロスは遂にむくりと起き上がった。
狸寝入りをしている弟子より先に、反対隣で布団を何度も直していた男が驚いたように体を震わせた。


 
声を掛ける。

「ついて来い」
 
小声でそれだけ言えば十分だ。
 
はすぐに振り返り、寝台を下りた。
結局二人とも靴さえ脱いでいなかった。

「(これじゃあオレも人のことは言えねェな)」
 
宿の前には月明かりが落ちているが、すぐ隣の森の方は真っ暗だった。
 
背後から、砂の擦れる小さな音が聞こえる。

「どうしたの?」
 
煙草に火をつけて煙をたっぷり吸い込み、はー、と声を出しながら吐き出すと少しは苛立ちが紛れる気もした。
をしばらく放置して煙草を楽しむ。
賑やかな飲み屋もなければクロスが好むような酒場もない。
けれど夜のうちにここへ到着する巡礼者のために、宿屋も料理屋もどこも夜通し店を開けているようだ。
南側を見ると、広場にもちらほらと人通りがあるし、店の明かりも絶えない。
 
だから、此処で二人が話し込んでいたって、きっと目立ちはしないのだ。


 
クロスは振り返り、膝をつく。
彼が身動ぐ前にフードを両手で掴み、下ろした。

「――っ」

――彼だ。
 
――彼だ。
 
――黄金色。
 
空気の支配者が世界に出現し、降り立ったかのように。
 
空気がざわめく。
 
彼を見つけた空気が、歓喜に湧き立つ。
 
たとえ夜でも、彼の黄金色は少ない明かりを受けて増幅し、光の粒子を纏っているように感じさせた。

、何が嫌なんだ。言ってみろ」
 
クロスは強い声で問い詰める。

「今なら分かるだろう。何が嫌なんだ」
 
見開かれた漆黒が、恐怖に歪む。
両肩に手を置いてやると、もクロスの腕を握った。

「……みんな、狙われてる。……みんな、殺されちゃう」
「誰に」
 
がぎゅ、と目を瞑る。

「目を開けろ」
 
肩を掴み、揺さぶった。
黄金色の睫毛が震える。

「戦場で目を瞑るな」
 
眉に力を込めて目を開けたは、クロスの手を振り切って逃げだした。
 
クロスはチッ、とこの数日で何度目になるか分からない舌打ちを零す。
力比べではあんな華奢な子供に負けはしない。
しかし彼は力の使い方がとにかく上手いのだ。
辺鄙な村の子供であるだけならば、不必要で持て余してしまうだろうというくらいに。
 
大股で後を追う。
裏手の洗濯場に回ったが、宿の母娘の居住スペースにあたる裏口の扉を背にしてしゃがみこんだ。
井戸の向こうに深い森がある。
 
おい、声を上げようとしたクロスの服の裾を、はグイと引っ張った。
彼は素早く口許に人差し指を立てた。

「しっ!」
 
声は、限りなく小さい。

「……ここか」
 
金色がこくん、と頷く。
唇を引き結び、瞠った目は怯えを隠しきれていないのに。
叫び出すまいと。
クロスにそれを悟らせまいと、全身に力が込められている。
 
クロスは〈断罪者〉に弾を込め、それからへ顎をしゃくった。
が肩を震わせ、不慣れな手つきで〈福音〉を取り出し、握り締める。
 
窓がある。

「――それはよかったです。やはり、彼はよい材料を持っていると思いました」
 
誰かが、電話をしている。

「――ええ、ええ。それはもう。ところで、千年伯爵様……お耳に入れたいことがあるのです」
「(そういうことか)」
「――黒の教団というのは、胸にローズクロスを掲げた黒服の者の事でしょうか?」
 
立ち上がる。
 
銃床で横の窓ガラスを派手に割り、裏口の扉を思い切り蹴破る。

「その電話、代わってやってもいいぜ」
 
口許に笑みを浮かべつつ提案すると、受話器を握っていたブルーナが振り返り、だらりと腕を降ろした。

「その方が話が早ェだろ。なぁ?」
「……伯爵様のおっしゃる通り、したたかな人たち」
 
ブルーナはにっこりと笑う。

「でもまあ、あなた達は本当に幸運ね。今しがた奇跡が起こったそうよ……じきに分かるわ」
 
〈断罪者〉の安全装置を操作する音を聞いて、が息を飲んだ。

「師匠っ、この人は、」
「アクマじゃねェっつーんだろ。分かってるよ、ンなことは!」
 
人が起き出したか、宿の中からも声が聞こえる。
 
クロスは吐き捨てるように言った。

「いいか、。世の中には、千年伯爵に協力する人間もいる。
不幸のどん底にいるような奴を見つけては、伯爵に斡旋して金を貰う……『ブローカー』ってのがいるんだ」
「あらやだ、この子、ブローカーも知らないの」
「どうせなら初体験はもっと優しくて慎ましい娘にさせたかったんだがな」
 
殺すわけにはいかない。
この近辺にクロスの愛人はいないから、近場のサポーターを頼るか、最悪匿名で教団に連絡を取る必要があるだろう。
 
段取りを組む思考の流れのなかに、戸惑った空気が割り込んだ。

「どういう、こと」
 
が愕然と、問う。

「悲劇を売って金を儲けるってことだよ」
「……は?」
 
剥き出しの声が地面に落ち、――村全体から音が消えた。
 
ぞわり、首筋を冷たくざらついた舌に舐められたような不快感。
背筋を切っ先で撫で上げられたように、生命を脅かされる恐怖を覚える。
足の指の先から、悪寒が這い上がってくる。
体の中心を、或いは脳そのものを、素手で触れられているような逼迫した危険を感じる。
 
クロスも例外ではない。
誰もが、呼吸さえ憚られる、鼓動さえ憚られる緊張に雁字搦めにされている。
その中でがじり、と土を踏みしめた音が大きく響いた。
 
――どうして。
 
――そんな馬鹿な。
 
――何でそんなことが出来たの。
 
――嗚呼、あってはならない。
 
――どうして。
 
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。

「どうして」

少年は低い声で問うた。

「どうして、そんなこと、できるの」
 
瞬きも出来ない。

「……何が、悪いのよ」
 
瞠った目で黄金色を直視させられたまま、ブルーナが引きずり出されるように声を発する。

「何が悪いの。奇跡なんて、起きるわけないのに、馬鹿みたいにこんなところまで来る人がいるのよ。
奇跡なんて……母さんの眼だって、何度巡礼しても治りやしなかった!」
 
空気の束縛が、打ち破られる。
ブルーナの背後にはクラーラが立っている。

「可哀想じゃない、ありもしない奇跡に縋るなんて。その願いを叶えてやって、何が悪いの!」
 
こわごわと此方を覗き込む巡礼者たちが、クラーラを押さえて引き留めている。

「母さんの眼は治せなくても、手拭いの奇跡は起こせるって言うんだもの。千年伯爵様は、そうおっしゃったんだから! 
叶わないはずの願いを、叶える手助けをしてやったのよ。それの何が悪いのよ、言ってみなさいよ!」
「そのために、願った人が死ぬって、知ってて言ってるの?」
 
がブルーナを睨み上げる。

「彼らがそれから何人も人を殺して、また悲しむ人が生まれるって、知っててやってるの!?」
「そうしたら、此処に来ればいいじゃない」
 
ブルーナが笑った。

「巡礼に来ればいいのよ……そうしたら蘇る。魔女シシィの手拭いは、本当に奇跡を起こすんだから」
「――ッ!」
 
鋭く息を吸い込んだが振り返る。
ちょうど弟子の肩を引こうとしていたクロスは一瞬驚いて、すぐに背後の森を見た。
 
気配がある。
 
ゆらり、夜の闇が動く。
 
土を踏む音。
左右に揺れる影。
月明りに、立派な顎髭の男が照らされる。
夕刻出立した一団の、先頭にいた男だ。
あの軽い足取りは、森の中で千年伯爵と落ち合い、奇跡が起きることを知らされていた故のものだったのだろう。
奇跡を確信したが故の、希望に満ちた歩みだったのだ。
 
共に出立した他の巡礼者は、森の中で最初の食事にされてしまったのかもしれない。
そうか、それなら奇跡の瞬間を目撃した人物がなかなか見つからなかったのも頷ける。

「ローズクロス……エクソシ、スト……」

あの溌溂さは微塵もない。
機械音の混ざったような声色で、男は人体では不可能な角度まで首を曲げた。
巡礼者たちから悲鳴があがる。
喧噪を聞きつけて宿の周りに集まってきた村人や、他の巡礼者たちがざわつき始める。
 
クロスは〈断罪者〉を構える。
アクマの皮が剥けた瞬間、転換のタイミングで、弾丸を放った。

「有毒な死臭が出る、ここから離れろ!」
 
野次馬に向けて怒鳴っても、群衆にはあまり効果が無いのは分かっていた。
クロスは毒づいて、室内にどかどかと踏み込んだ。

「何よ、触らないで!」
 
ブルーナを拘束するために腕を掴もうとすると、牽制するように彼女はランプを振り回した。
巡礼者に引き留められたままのクラーラが叫ぶ。

「待って! やめて、娘が何をしたと言うんです、何の話をしているの!?」
「此処の奇跡は人工的なものだ。人は蘇るが、代わりに巡礼者本人が死ぬ。蘇った奴は他の巡礼者を殺す兵器になる。
悲劇を広めるそのシステムに、ブルーナが加担してる……そういう話だ」
「そんな……!」
 
クラーラは衝撃を受けたようだが、それでもすぐに藻掻いた。

「でも、言っていたじゃない、巡礼者のためだって!」
「だからと言って、他人を巻き込んでいい理由にはならないだろう。安心しろ、殺しはしねェよ。然るべき場所に預けるだけだ」
「師匠っ!」
 
外からの声がする。群衆の悲鳴が聞こえる。
〈福音〉でも〈断罪者〉でもない銃声が聞こえる。
 
クロスが駆け出ると、黄金色が野次馬に突っ込んでいくのが見えた。

「どいて!」
 
クロスの怒声が群衆を動かさなくても、空気を巻き込むの声は他人を動かす。
野次馬たちが弾かれたように道を開けた。
 
空中に浮かぶアクマの姿は誰からでもよく見える。
視認できるアクマの姿は六体。
野次馬を、周囲の建物を、そして宿を狙って弾丸が放たれた。
 
宿の周りは恐慌状態だ。
人が入り乱れて、押し退けてもなかなか前に進めない。
破壊したばかりのアクマの残骸に寄ろうとする者もいて、クロスはその首根を掴んで反対側に放り投げた。

「離れろって言ってんだろうが!」
 
――はどこだ、慌てて目で探す。
やっと〈福音〉を握れるようになったとはいえ、まだ一人では戦いきれない。
 
黄金色の居場所は、すぐに知れた。
弾丸の隙を軽やかに掻い潜り、道の先で転んだ女に駆け寄っている。
走りながら、〈福音〉が正面のアクマを過たず破壊した。
女を助け起こして、振り返りざまにもう一体。
 
どこかでガラガラと大きな音がして、地面が震えた。
弾丸が命中して、建物が崩れた音だ。
 
女の悲鳴が聞こえる。
 
クロスは腕を上げて〈断罪者〉を構えると同時に発砲した。
の死角から迫るアクマを最初に破壊する。
それから続けて野次馬の頭上をうろつき無差別に発砲する残りの三体を撃ち壊す。

「宿が……!」
 
誰かの叫び声を耳にして、クロスは赤々とした光に気付いた。

「あつい、いたい、あつい、ああ、たすけて!」
 
ブルーナが電話をかけていた部屋、宿の居住スペースの石壁が崩れている。
崩れた石壁の隙間から、真っ赤に燃え上がって熱を持った内部が見て取れた。
先程耳にした女の悲鳴が、中から聞こえる。

「ブルーナ! どこなの!」
 
クラーラが叫ぶ。
彼女は宿泊者に引き留められていたために、助かったようだった。
まさに部屋の中にいたブルーナは逃げ遅れたか、或いは話を聞いていた宿泊者が見捨ててしまったのか。
不運にも石窯のような形状になった瓦礫の中に取り残されたのだ。

「ブルーナ!!」

ガラ、とまた壁が崩れた。
悲鳴は、既に明確な言葉ではない。

「火を消せ!」
 
クロスは声を上げる。
弾かれたように井戸へ駆け寄った人はほんの二人だけだった。
 
棒立ちになっている群衆をかき分けて、クロスも井戸へ駆け寄り、桶を放り込んだ。

「人を殺しているんだろう」
「壁が崩れる前に転んでいた」
「ああ、ブルーナが持っていたランプが」
「当然の報いだ」
 
背後から聞こえる声が、耳障りだ。
 
彼女が実現に導いた奇跡で、どれほどこの村が潤っただろう。
理由を知らなかったといえどもその恩恵に与った筈の村人からその言葉を聞くのは、流石に気分が悪い。

「師匠っ」
 
桶に繋がる縄を引き上げながら、こちらに駆け戻ったを見下ろす。

、あの瓦礫に穴を開けろ」
 
返事よりも素早く弟子は振り返り、〈福音〉とイノセンスに呼び掛けた。
 
――凍結弾――
 
銃声が一発、壁の一部が凍り付き、細かく砕ける。

「お前は其処にいろ、いいな」
 
クロスは頭から水を被って、が空けた穴に近付いた。

「師匠!」
 
少年の叫び声が。

「ブルーナ!!」
 
羽交い絞めにされた母親の悲鳴が。

「手を貸してくれ!」
「いいや、放っておけ!」
 
野次馬たちの怒号が。
 
明瞭に聞こえるのは、炎の中からの悲鳴が弱まって消えたからだと、果たして何人が気付けただろう。
 
瓦礫の石窯の内部に出来た空間は、ピザ窯のようにも見える。
桶に水を汲んできた男たちと穴の周りのレンガを少しずつ退けて中を覗く。
真っ先に、割れたランプシェードが目に入った。
壊れた電話機。
薪のように燃えるテーブルは、空気が入って、尚更強い火を纏い、赤く色づいていた。

ブルーナがいない。
 
若い方の男が、クロスの脇からテーブル目掛けて水を掛ける。
じゅう、という音はすれど、すぐに周囲から火が集まってくる。

「油か?」
 
年老いた方の男が呟いた。

「そうかもしれない」
 
クロスは言葉を返す。
ランプの油が広がって、この有様なのだろう。

「アレだ!」
 
若い男が指差した先に目を遣り、三人は揃って溜息をついた。

「(あれは、もう助からない)」
 
アクマの血の弾丸に破壊された壁と天井が崩壊し、瓦礫として高々と積み上がっている。
その下から、広がる血液と投げ出された手が見えた。
たとえ火を消せたとしても、あの瓦礫の山に押し潰された彼女を救出するのは困難と思われた。
火を消している間に失血死するか、焼死するかのどちらかだ。

けれど。
 
小さな足音がクロスの背後で立ち止まる。
 
石壁の一部が突然凍り付き、砕ける。
 
クロスは振り返った。

、」
 
黄金色が、赤い炎の光を受けて煌々と輝いている。
歯を食いしばって、少年はまた銃を構えた。
 
発砲音。
瓦礫が凍り、砕ける。
発砲音、凍る、砕ける。
発砲音、凍る、砕ける。
 
やがて、年老いた男が立ち上がった。
が作る細かな瓦礫に水を掛けていく。
若い男も井戸へ引き返して、瓦礫に水を掛けた。

クロスは泣き出しそうな横顔を見上げる。
それから、二人の男と同じように井戸へ引き返した。






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200314