燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  






5









「ヴィドス村へようこそ。今晩出られますか? それとも、今夜は休まれますか?」
 
女将のクラーラがエプロンで手を拭いながら訊ねた。
目元に皴のある優しげな表情の老婆だ。

「今夜は休ませてくれ。オレと、こいつの分の寝床を頼む」
 
駅の弁当屋で気付かれなかったので、クロスはフードに埋もれるの肩を叩いて示す。
身長差のせいか、どうにも女将と視線が合わない。

「ああ、」
 
クラーラが少し笑った。

「ごめんなさいね、ちょっと目が悪くって。あら、お子さんもいらっしゃったのね」
 
そういうことだったか、とクロスも相手に分かるよう大きく頷く。

「二人分、空いてるか?」
「ええ、ええ。空いていますよ。娘に案内させましょう」
 
彼女が声をあげる前に、クロスはそっとクラーラの手に触れた。

「少し聞きたいことがある。二年前の、春の話だ」
「奇跡が偽りなのでは、とお疑いなの? 
そういう方は多いわ……でも皆さん、信じたり、納得したり、或いは思いを遂げて帰っていかれます」
「疑ってるわけじゃねェんだ。ただ、気になってな。初めて奇跡が起きた、あの時の男は、結局どうなった?」
 
訊ねるクロスの横を、出立の準備を済ませた巡礼者が幾人も通り過ぎる。
十人ほどのその集団は、クラーラに軽く会釈をした。

「お世話になりました。これから出発します」
 
先頭の男は立派な顎髭を蓄えている。
クラーラが深々と頭を下げた。

「ご丁寧に。いってらっしゃい、あなた方がシシィの奇跡に辿り着けますよう」
「どうもありがとう。帰りにまた休ませていただきます」
 
手を振り歩き出した巡礼者たちは、森の入り口にぶら下がる赤い石を確認して、奥へ進んでいく。
誰もが少なからずくたびれた足運びをしているのに、顎髭の男の足取りはとても軽やかで溌溂としていた。
 
クラーラがクロスに向き直る。

「最初の奇跡の彼は……ええ、他の方々と同じです。同じように、ご自分の故郷へ帰っていかれた筈ですよ」
「筈、だと」
「私はこの宿の女将ですよ。巡礼を済ませた方々を見送ったら、次の方をお迎えするのが役目です。
何度か通って下されば馴染みのお客様にもなりましょうが……」
 
クラーラは穏やかな笑みを湛えたまま答える。

「思いを遂げてしまったならば。シシィの最後の奇跡を起こしてしまったならば、もう各地を巡る必要もないのですよ」
 
ずっと心此処に在らずだったが、ふらつくように身動いだ。
顔も上げずに呟くように問う。

「……奇跡は、迷惑だった……?」
 
老婆はゆったりと首を横に振った。

「……いいえ。喜ばしいことよ。だれもが百年以上、それを望んで歩いていらしたのですから」
 
ブルーナ! 女将が宿の奥へ声を掛けると、栗色の髪の中年の女がひょっこり顔を覗かせる。

「巡礼の方、今日は休まれるそうよ」
「分かったわ。こっちへどうぞ!」
 
クロスとは、暗く狭い通路を通って手招かれるままに奥へ向かう。
 
その部屋は、通路よりも数段低く掘り下げられていた。
小さな村の小さな教会、その聖堂ほどの規模がある部屋の中には、簡易な寝台がざっと三十並べられている。
旅の荷を解いている者や、食事に出ようとする者たちなど、今晩の利用者は十二、三人といったところだろうか。

「ようこそ。あなた方は……奥の端の方でいいかしら」
 
ブルーナは右隅を指さす。

「構わない。此処で食事は出来るか?」
「出来るわよ。調理台は部屋を出て左側にあるから、好きに使って。勿論、外で食べてきてもいいわ。洗濯は裏でやって。
あとは……此処を出る前に、シーツとかは交換していってね」
「ああ。……ブルーナ、聞きたいことがある」
 
首を傾げながらブルーナが近寄ってきた。
間近で見ると、彼女は随分な長身ですらっとしている。
クラーラとはあまり似ていない。

「奇跡を起こした巡礼者か、目撃者に話が聞きたい。会えるか?」
「……なあに、お客さん、もしかして変な雑誌の記者さんか何か? 魔女シシィの巡礼の秘密を暴く! とか?」
「何だ、暴かれちゃマズイようなことでもあんのか?」
「無いわよ! 失礼な人……冷やかしなら出ていってちょうだいね。此処までくる巡礼者のみなさんは、真剣な願いを込めて奇跡に縋りに来るんだから」
 
そんなつもりはない、と軽く手を振った。

「奇跡を信じたからわざわざここまで来たに決まってんだろ。経験者の話でも聞いて、気合い入れようかと思ってな」
「あら、そういうことね」
 
ブルーナは寝台の間を通って部屋を出ていこうとする。
 
声を掛けると、着いてくるように促された。
がほんの少しフードをずらした。

「どうした。……此処で待っててもいいぞ」
 
クロスの言葉は聞こえていないのだろうか、聞いていないのだろうか。
青ざめた顔で周囲を見回し、は再びフードを被る。
離れる気は無いようなので、彼を伴ってブルーナの後を追った。
 
通路を出て左手ヘ曲がると、束ねられた栗色の髪がさらに左へ曲がったのが見えた。
追いついてみれば、そこは調理場になっていて、ブルーナはやかんを火にかけていた。

「どうぞ座って。普通はセルフサービスだけど、珈琲淹れてあげるわ」
 
特別にね、と片目をつぶる姿は愛嬌がある。
 
クロスが椅子に腰を下ろすと、が困惑した表情でクロスを見た。
やがて躊躇いがちに椅子を引き、浅く座る。
 
ブルーナは肩越しに振り返った。

「それにしても、子供連れでヴィドスまで来るって、本当に珍しいのよ。冷やかしじゃないなら……よっぽど本気なのね」
「ああ。何としても奇跡を掴みたい」
「情熱的な人。……大切な人だったのね」
 
キミにとっても。
ブルーナがに、気遣わしげに微笑みかけた。
 
はフードの中からじり、と彼女を見上げる。

「この子のために、巡礼を?」
「……まあな。実を言うと、今回は下見なんだ。よく調べもしないで、汽車でイヴォナまで来ちまったもんだから」
「そうだったの」

焦げ茶の瞳をぱちりと瞬かせて、ブルーナは肩を竦めた。
彼女の手元から芳香が漂ってくる。
クロスの前には珈琲を、の前にはカフェオレを置いて、ブルーナがの正面に座った。
 
が椅子に座り直した。

「そうね、一度道を知っておくのもいいと思う。回数に制限なんかはないし、何度だって来ていいんだから。
……まあ、奇跡が起こってしまえばもう来る必要はないわけだけど」
「けど、オレたち以外は大抵がここまで真面目に歩いてきた奴らなんだろう? 
巡礼は夜の間と聞いたが、さっきはまだ明るいのに結構な人が歩いていた。あれじゃ奇跡は起こらないんじゃないか」
「本当は夜の間に進むのが望ましいけどね。実際にはシシィの遺物に祈りを捧げるのが夜であればいい、なんて言われてたりもするのよ」
「なんだ、案外適当なんだな」
「だんだん掟も緩くなったのよ。いいじゃないの、それでも奇跡は起きるんだから」
 
カップに口を付けると、パリの有名店で飲むような香りが立ち上る。

「いい豆つかってんな。これは相当値が張るだろう」
 
調理台の上の棚を見れば、同じ珈琲缶がずらりと並んでいた。
凝ったロゴだ。
 
巡礼者のための宿なんてものは、大体が慈善活動で、巡礼者が増えたところで大した儲けは出やしない。
せいぜい、奇跡があれば寄付が増えるという程度のものだろう。

ブルーナが口許で笑って首を振る。

「まあね。最近は多めにご寄付を頂くこともあるから……ちょっとしたご褒美を飲みたいときに淹れる、特別なやつなのよ」
「洒落た趣味してんじゃねぇか」
「気が合いそう? ……って、ごめんなさい、奥さんを蘇らせたいんだものね」

いつの間にか彼女の中ではそういう解釈になっていた。
となると、ブルーナにはがクロスの息子に見えているのだろうか。
 
得も言われぬ心持ちでいると、が膝の上できゅ、と手を握り締めていた。

「ちゃんと手順を踏めば……本当に、奇跡は起こるんだよね?」
 
おずおずと言葉を発したに、ブルーナが優しく笑った。

「あなた方は次回チャレンジするって話だから、特別に教えてあげるわ。ここだけの話ね……二、三日中に、見られると思うわ」
 
声を潜められると、ついつられて此方まで小声になってしまう。

「奇跡には前触れでもあんのか?」
「いいえ。でもまあ、見てればだいたい分かってくるものよ」
 
表から、クラーラが娘を呼ぶ声が聞こえる。
はいはい、と返事をして、ブルーナが立ち上がった。

「どうぞごゆっくり。……ちゃんと手順を踏んだ暁には、是非またうちに泊まってね。きっとあなた方にも奇跡は起こる筈だから」
 
彼女の背を見送って、クロスは黙って珈琲を啜る。
本当に美味い。
 
美味いぞ、と言ったが、は頑なにカップに手を伸ばさない。
握り締めていた手を開く。また拳を作っては開き、それを繰り返したのち、一度背後を振り返ってからようやくカップを手にとった。
 
他人に心配をかける事を嫌い、本人の思う「いつも通り」を徹底しようと心掛けている彼にしては珍しい挙動だ。

「どうかしたか」
 
そう聞いたところで答えを返しはしないと思ったが、予想に反しては顔を上げ、首を振った。

「ここ、……嫌だな」
「どんな風に」
 
彼はカフェオレをちまりと一口分飲み込み、それからもう少し大きくカップを傾ける。
大きく息をついて、もう一度首を横に振った。

「獲物みたい。……みんな、いなくなっちゃうんだ」






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200314