燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
神
判
の
綻
び
3
――メリークリスマス!――
もう二度と、この子の声であの言葉を聞くことはできないかもしれない。
「(いや……どうだろうか)」
一時期は、もう二度と声をあげて笑うことなどないとさえ思った。
けれど、「あの日」から一年。
ようやく対アクマ武器〈福音〉を直視できるようになり、扱うことさえできるようになった。
笑顔を零す日も増えてきた。
「(……いや、どうだろうな)」
焦ってはいけない。
マザーには律儀だの甲斐甲斐しいだのと言われた。
自分らしくないとも思う。
けれど、クロスには出来ない。
目の前でフードに隠れ、大人しく本を読み耽っている少年。
「彼」の忘れ形見。
クロスの心を射抜き、虜にした黄金。
あの村の、唯一の生き残り。
恨み言なんか、何一つ言わなかった。
何一つ言われたことなど無い。
今に至るまで、一度もだ。
クロスを恨めばいいのに。
お前のせいで僕の幸せは壊されたのだ、と。
恨んだって、罵ったって、呪ったって、構いやしないのに。
暗い目を過去に向けて、この子供は、ずっとずっと自分自身を呪い続けているから。
クロスには、これ以上この子の中身を蹂躙するようなことは、出来ない。
たとえそれが、長い目で見たら本人のためにならないのだとしても。
「」
声を掛けるが、顔を上げる気配がない。
集中しているならばそれでも良いが、どうやら、今回はそうではない様子だった。
万が一にも聞き取らせないように溜息をひとつそっと漏らして、クロスは前に屈み、身を乗り出す。
手を伸ばしてフードの中の少年の頬に触れる。
「」
子供の両手から本が滑り落ちた。
硬い表紙の本が立てた音に、通路を挟んで隣り合う壮年の男が此方を窺う。
それを目の端で捉え、クロスは少年の頬を撫でる。
「、聞こえるか」
こっちだ。
こっちに来い。
お前が見ている「ソレ」は、とうに戻らない景色なんだ。
念じながら数回呼び掛けると、ふるりと指先が震えを感じ取った。
思い出したように息を吸って、少年が身動ぐ。
顔を動かしたのか、掌に頬が押しつけられる。
やがて、彼はその掌から辿るようにぼんやりとクロスを見上げた。
「……ししょう」
不思議そうな声で、しかし問いかけにもならないような声色で呟いた言葉に、クロスは安堵の息を零す。
手を離し、ようやく本を拾って手に持たせてやれば、は渡された本にきょとんと視線を落とした。
彼の中では、本を読んでいた時間と今は直接繋がっているのだ。
自分の意識が過去に飛んでいた記憶は、あまりない。
本人が自覚していないことをクロスが知っているのは、彼との触れ合い方を心得てきたからだ。
夜中に聞き出せばいい。
ぐちゃぐちゃな中身が鎧の隙間から溢れ出して、本人には手が付けられない恐慌が起こっているとき。
鎧が機能していないその時が分かれば、事の真相を探るのは容易かった。
は首を傾げながら本を開き直す。
「面白いか?」
問いかければ素直に見上げてくるので、クロスは顎で本を示した。
が頷く。
「うん。まあ、だいたいは……」
は村中を駆け回っては木によじ登って遊んでいたような活発な子供である。
その一方で、読書という行為に特別な執着と愛着を抱いていた。
父親との大切なつながりで、思い出で、教えだ。
「彼」と初めて会った時からそのことは承知しているので、クロスも求められればすぐに本屋に立ち寄る。
新たな地方、あるいは新たな国に入る時には積極的に本を買い与えることにしていた。
その本は、汽車に乗る前にファイガの町の本屋で購入したものだ。
梯子を借り、手の届かない上の方の棚まで様々な本を手に取っては戻しを繰り返し、厳選していた。
店仕舞いをしたいという雰囲気を醸す不愛想な店主さえ根負けさせる熱心さである。
あんなに執拗に吟味していたのは、夕暮れ時だったということも関係していただろう。
夕焼けを目にしない、外の光がほぼ差し込まない本屋の中に留まっていたかったというのもあるだろう。
狭い店内を隈なく物色し、やっと「これがいい」と言ったときには入店してから二時間は経過していた。
黄昏なんかとっくに過ぎ去って外にはすっかり夜の闇が訪れていた。
「ちょっと見せてみろ」
そこまでして手に入れた本が何なのか、聞いていなかった。
童話集などではなく小難しそうな表紙に見える。
差し出された本を手に取りぱらぱらとページを捲ってみた。
辞書もなしにすらすらと読み進められはしないが、大まかな内容は把握できたように思う。
背表紙をじっと見てみる。
「『ノルデンおじさんの昔話』か」
「『――を振り返る』だよ」
「あん? 童話か?」
「童話の解説書、みたいな感じ?」
「感じ? って何だ。お前、読んだんだろうが」
唇を尖らせたが手を伸ばして本を取り返し、滑らかにページを捲った。
目当ての箇所はすぐに見つかったようで、改めてクロスに本を差し出す。
「ここ、シシィの伝説が載ってる」
だからこれにしたの、と少年は椅子に座り直した。
ほう、と頷き目を通してみる。
「どんな話だった」
「ん……ええー……のんびり屋さんで丁寧なシシィって子の話……」
眉が下がっているので、良い結末では無いらしいということはすぐに分かった。
先を促すと、唇をむんとひん曲げてから躊躇いがちに口を開く。
「キツネが持ってた赤い石の首かざりを手に入れるの。
シシィはキスで目の病気を治したり、怪我を治す薬を作ってくれたりするんだ。
小指を赤くしてお祈りすると恋も叶うんだけど、魔女だって言われて……。
結婚した木こりさんを殺されたり、シシィも火炙りにされたりする……話……。最後は木こりさんが生き返ったって書いてある……」
喋りながらだんだんと声量が乏しくなっていき、やがて完全に俯いてしまった。
その姿を見下ろすクロスはわざと、チッと舌打ちを零した。
弾かれたようにが顔を上げた。
フードは辛うじて頭頂に引っかかっている。
怯えた漆黒が車内のランプに照らされた。
村での教育の賜物であり、本人の気性でもあるのだろうが、とにかくは他人の死に敏感だった。
通りがかりの見知らぬ人の墓にさえ立ち止まって渾身の弔いを捧げているほどだ。
命あるものはいずれ死を迎えるのだということはいやというほど知っているだろうに。
とりわけ老衰でなく何かしらの理由で断ち切られた生命へ激しい執着と同情を向ける。
悪いとは言わない。
いくら弟子とはいえ、個人の思想にまで口を挟む気はない。
けれど、その過激な執着は時として判断を鈍らせ、彼自身を危険に晒すことになる。
だからクロスは戦い方よりもただひたすらに、彼の意識を戦闘仕様に整えさせるように接している。
そのためにはまず、そんな自分自身に気付かせてやらねばなるまい。
「……ごめんなさい」
望まれる姿であろうとすることは、彼の習性のひとつでもあった。
視線を彷徨わせ、或いは上目遣いにクロスを窺って、「迷惑をかけた相手」が死んでしまわないかを確認するのだ。
しおらしく謝罪を口にしながら、彼の漆黒は必死にクロスの魂を刈り取る死神を探していた。
「伝説だぞ。昔話だぞ。本の中の人間がそんなに大事か」
は下唇を噛んで答えない。
「いつも言ってんだろ。優先順位を考えろ。お前が守りたい奴は、そいつなのか」
分かっているくせに。
この子が守りたかったものなんて、もうこの世には無いことを、分かっているくせに口にするのだ。
そうでもしないと、彼は自分を守らない。
守りたいものを守るために自分が存在しなければならない、そこまでいかないと、彼は自分を守ることが出来ない。
「……ごめんなさい」
「謝るだけじゃなくてそう動け」
分かっているくせに。
分かっているくせに、クロスは毎日のようにこうして金色に言葉を刷り込んでいる。
「慣れろ。……いいな」
が力なく頷いたのを見て、クロスは知らず詰めていた息を長く吐き出した。
自分が嫌になる。
椅子の背に凭れ視線を下げると、小さな膝小僧を握り締める指先が震えているのが見えた。
爪が真っ白になるほど力を込めて、震えている。
こんなことで怒る師匠なんか嫌いだ、とか。
師匠はいきなり怒って怖い、だとか。
そんな理由で震えてくれたらいいのに。
そうではないのだから。
クロスは本を閉じて、軽くの手にぶつけた。
おずおずと目を上げた彼が、本の端を掴む。
「シシィは、人里に住んでんのか?」
「え……?」
「それとも森の中とか、民家から離れたところに暮らしてんのか? 書いてないか」
が本を抱えて、クロスを見上げた。
もう、指先は震えていない。
「えっと……森の中」
「そうか」
それが何なの、と漆黒が訴えてくる。
「お前、魔女が本当にいると思うか? そもそも魔女って何だろうな」
「……絵本なんかでは、悪いことする魔女といいことする魔女がいるけど。……本当にいたら、すごいなって思うよ」
「何をしてたら魔女だと思う?」
「何だろ……魔法? あれ、魔法って何だろう……猫とお喋りするのも魔法かなぁ」
「他には」
怪我を治しちゃうとか、なんか鍋をぐるぐるしてるイメージ。
指折り数えているは、いつの間にか背凭れに背をつけて足をぷらりと揺らしている。
「あっ、あと、空を飛ぶ」
あまり聞かないような明るい声だったので、クロスの口許も思わず緩む。
「そんなに飛びたいのかよ」
「師匠は飛びたくないの? ぴゅーんって飛べたら、遠くにいる人のところまですぐ助けに行ってあげられるよ」
「それなら瞬間移動の方がいいんじゃねェか」
「それも魔女っぽい……」
窓の外は昼下がりの陽光で明るいのだが、秋の暮れの陽は汽車の中まではぎりぎり届かなかった。
クロスは少し窓の外を窺ってから黄金色に目を戻した。
「魔女と言われて殺された奴の中には、社会からのはみ出し者も多かったっつう話だ。
シシィは村の中のコミュニティには属してもいねェんだろ。他の人には出来ないような手段で人の病気も怪我も治しちまう」
の漆黒がクロスを真っ直ぐ見上げる。
「恋も叶えられる……人の心だって好きに動かしてるってんなら、まさに適役じゃねぇか。
『普通じゃない人』そのものだ。そういう時代の被害を受けていても不思議じゃない」
「……でも、解説には、これは作り話だって書いてあったよ」
ならば本当に、本の中の人間だったというわけか。
若干呆れたクロスだったが、はぎゅっと本を握り締める。
「本当は、シシィって女の人が夫を殺したんだって書いてあった」
「本当に殺したかは、その本だけではオレ達には分かりっこないさ。記録なんてモンはいくらでも都合のいいように書き換えられるんだよ」
漆黒は悲しげに見開かれる。
けれど、それを露わにはすまいと必死に力を入れているのが見て取れた。
「本に書き残された記録やら歴史やらなんてのは、書いた奴の主観だの、権力者の思惑だのにいくらでも左右される。
書いてあること全部が真実ってわけじゃねェんだよ、」
残念ながら彼の努力に反して、フードから漏れ出た彼の独特な空気が支配者の心の激流を訴えてくる。
今はまだクロスしかそれに気付いてはいない。
けれど、フードを外しさえすれば、すぐにこの車両全員が同じ心持ちになることだろう。
訳も分からず心を支配され、揺さぶられてしまうだろう。
「確かなことは、シシィって女がその村で処刑されたこと。シシィの名を冠した魔女伝説がその地で生まれたこと。
で、今、その伝説がどうやら本当になったらしいって噂があるってことだ」
引き結んでいた唇を少し開いて、再び結び直したはひとつ頷いた。
汽笛が鳴る。
減速を始めた汽車のあちらこちらで乗客が身支度を始めた。
通路を挟んで反対側に座っていた男も立ち上がった。
クロスは窓際に置いていた帽子を手にとる。
が立ち上がった。
マントに似たコートを留める首元の赤いリボンを結び直している。
ふとその手を止めて、が呟いた。
「僕たちも、魔女みたい」
「……それを言うなら魔法使いじゃねェのか」
そうだね。
暗い瞳を瞼に隠してが微笑んだ。
クロスは団服の裾を整える。
「行くぞ」
黙って、遠慮がちにクロスの団服を握った手。
「(……お前だけだよ)」
空気を、人の心を操ってしまう世界の異端児は、お前だけだ。
それなら彼はいつか、人の世界から弾かれてしまうのか、或いはもう弾かれているのだろうか。
――頼むよ、クロス――
記憶の中の「彼」の声を思い出しながら、ぴたりと身を寄せてくる彼の頭を上からひと撫でした。
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200314