燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  






2









至上の黄金。

空気を虜にする黄金色を初めて目にしたその時、その瞬間を、今でも鮮明に思い出せる。

酒場で知り合った友人。
とても美しい文字を綴る、口の悪い友人の故郷を訪ねた日の事だ。
あの村へ向かう汽車は限られている。
汽車に揺られること半日以上、目的の村へ辿り着いた時には、黄昏が丘を照らす頃合いだった。
ロンドンで買い込んだ酒は、とうに全て飲み尽くしていた。

鼻の下に短い髭を生やした駅長は、クロスの風体に一瞬たじろいだように見えた。

閉鎖的な村だから仕様のないことだ。
そもそも黒の教団の団服はこんな田舎の村には似つかわしくない華美な装飾が成されている。
それに加えて仮面に赤毛と、クロス自身の外見は特徴的だ。
怪訝な視線には慣れているので全く気にはならなかった。
いちいち気にしていたらこんな身なりはしていない。
それに、団服は役目のために欠かせないもので、所持品や装飾はクロスの美意識に適う最高の品なのだ。
他人の視線など、構う必要もない。

けれど、荷物を降ろしながら彼が言うのだ。

「ジョン、メリークリスマス。こいつはクロス、ロンドンで出来た友人なんだ」

紹介の仕方なんて「知り合い」でよかったのに。
「友人」なんて改まって言われると、どこかこそばゆい。

駅長は表情を緩めて朗らかに笑った。

「そうかそうか。プレイベルへようこそ、クロスさん。メリークリスマス!」

様々な掟を有する辺鄙な村。
聞いたところもない奇異な村だと思ってはいたが、気の好い駅長に迎えられて見た村の風景は長閑だった。
 
雪に覆われ暮れかけた陽光を受ける民家の窓や軒先には、ぽつりぽつりとランプの明かりが灯り始めている。
二階以上を有する建物は、村の中心にある教会だけ。
その教会さえも二階建てだ。
脇にそびえる鐘楼のような塔は、見たところ教会より一回り背が高く、ひときわ目立っていた。

「おい、こっちだ、クロス」

彼が手招く。
指の先、教会の更に向こう側には小高い丘があって、その頂上近くに一軒、そして頂上に一軒の小さな家が見えた。

「あの上にあるのが俺の家だよ」

小さな村だと改めて思う。
丘の上にたどり着くまで、そう時間はかからなかった。
時間が時間だからか、村を歩いている人もいなかった。
道中、駅員以外の誰にも会わぬまま辿り着いた家の扉を開けると、それはそれは美しい女性が二人を出迎えた。

「おかえりなさい、あなた」
「ただいま、グロリア。会いたかった」

そりゃあ会いたかったろう、とクロスは嘆息を禁じ得ない。
こんなに美しい女性を、久し振りに見た。

いや、なぜこんな田舎で埋もれているのか。下手な舞台女優より遥かに美しい。
灯りを受けて輝く黄金色の髪も、夫を見つめてうっとりと細められる濡れた漆黒の瞳も。
濡れた花弁のような美しさを溢れるほどに湛えていた。

そのグロリアは幸せそうに夫に抱きしめられ、夫の肩越しにクロスに目を留めた。
にこり、微笑みが向けられ、クロスは思わず帽子をとる。

「あなたが噂のクロスさんね。お待ちしてました」

花だ。
大輪の向日葵ではないが、楚々としてしかし堂々と佇む百合の女神のような。

クロスが感嘆し唸るように声を返すと、グロリアの夫は誇らしげに笑い、先に立って家の奥へ入っていった。

「さあ、どうぞ中へお入りください。寒かったでしょう?」

グロリアに促され、クロスは団服の雪を払って中へ進もうとした、その時だ。



 ――呼吸を奪われた。


理不尽に、暴力的に、もぎ取られた。
 
吸おうとしていた空気に顎を掴まれて無理に顔を動かされたように。
クロスの視線は強引に、グロリアの背後の壁へ固定された。

居間を背にして、トーテムポールのように積み重なった二つの金色。
そのうち下の方の金色が、将来有望な愛らしい少女だと気付いたのは、後だ。

クロスを釘付けにしたのは上の黄金色。
深い深い漆黒の瞳に、吸い込まれるような錯覚を覚えて、もう目が離せない。

そう、離せない。

――この子供を見よ、と姿のない何者かに命じられたように。

クロスが吸うべきだった空気を、魂ごと吸い込まれてしまった。
それなのに、不快ではない。
身体の芯を無遠慮に握り締められて、揺さ振られ、ぞくぞくがくがくと震えがあがってくる。
立っていることさえ困難だ。

他人に都合よく振り回されるのはクロスの好むところではない。
マザーや教団の人間などに言わせれば、クロスこそが周囲を都合よく振り回しているなどと評価するだろう。

けれど、この震えが感じさせるのは不快などではなく、この上ない快感だった。

「わーっ! かわいい!」

少女の声が耳に届いて、クロスはハッとする。
気付けば、ティムキャンピーがパタパタと羽ばたいてトーテムポールの下段に飛んでいっていた。

きゃあきゃあと声をあげてゴーレムと戯れる少女。
彼の娘のだ。
彼女が笑うと、そこだけ太陽に照らされて明るくなったように見える。

一方で、トーテムポールの上段――クロスを釘付けにした方の子供は、少女とゴーレムを優しい眼差しで見ている。
それから子供は再びクロスを見上げた。
その動きの一つ一つに、いちいち射抜かれたように呼吸が止まってしまう。

「あれ、何?」

まだ子供の声だったが、それで少年だと分かった。
クロスは我に返る。
一刻でも早く問いかけに応えなければならないという不思議な焦燥感に囚われて、声を出す。

「あ、ああ……ゴーレム。あれでも機械だ」

母親によく似た目元と鼻筋。
ふくっと子供らしい頬。
薔薇の花弁を透かしたような色合いの唇を少し開いて、少年が息を呑む。

空気が、驚いた。

「機械なの?」
「ああ。名前は、ティムキャンピー」

突き上げられるように答える。

すると、少年はきゅっと目を閉じてふふふ、と笑った。
ふっと緩んだ空気が、くすくすとクロスの肌を撫で、突き回す。
空気全体に笑われたような気になって、クロスは少し面白くない。
しゃがんで、聞いていた年齢よりも少し小さいくらいの少年を下から見上げた。

「何がおかしい」
「だって、名前つけるような人に見えない」

その言い回しに覚えがある。
クロスはフン、と鼻を鳴らす。

「父親と同じことを言うな」
「父さんにも言われたんだ!」

あははははは! 少年はいよいよ堪らないとばかりに声をあげ、腹を抱えて笑い出した。
 
空気が揺れる。

歓喜に揺れる。
 
この子供が笑っていることが嬉しいのだと、空気が訴える。
 
身体の中心が熱くなる。
安心する。
この空気、この空間は祝福されていると感じる。
抗えない。
触れたくて手を伸ばすけれど、触れていいものかさえ分からない。
あまりにも神聖で、あまりにも尊くて、触れて一点の曇りや汚れや穢れをつけてしまうのが恐ろしい。
 
けれど、触れたい。
 
触れて、渇きを潤したい。
 
だからクロスの手は喘ぐように少年の黄金色に触れた。

「わっ」
 
柔らかな黄金色に触れると、やっと通常の呼吸を許されたように体が楽になった。
手触りが良い。
クロスはもしゃもしゃと少年の髪をかき回す。

「手、おっきい! おじさん、父さんの手紙に書いてあったクロスさんでしょ?」
「おじさんじゃなくてお兄さんだ。お前はだな。モージスから聞いてる」
「そうだよ。はじめまして、おじさん。メリークリスマス!」
「お兄さんだ、クソガキ」
、クロスさんを暖かいところに通してあげましょうね。いつまでも玄関じゃ寒いわ」
 
グロリアの声は居間から聞こえる。
気付けば、玄関にいるのはクロスとの二人だけだった。
自分は戦闘員だ。
人の気配には常人よりも敏感だし、周囲に注意を配ることにも慣れている筈。
けれど今は、周りの動きなんて何も意識のうちに入ってこなかった。
そこに少し驚く自分がいて、同時に「この存在を前にすれば当然のことだ」と納得する自分もいた。

「はーいっ」

立ち上がったクロスは、元気よく返事をする少年のつむじを見下ろし、震える息を吐いた。
がクロスの袖を掴み、引っ張る。

「こっち来て、おじさん。早く」
「フリルを引っ張るな。分かったから」
「おじさんの服、フリルついてる……おとこのこなのに……」

は愕然とした顔でクロスの袖を見つめている。
人のことをおじさんとのたまっておきながら、同時におとこのこと表現する様がなんだか堪らなく可笑しくて。
今度はクロスが声をあげて笑うのだった。






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200314