燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  






1









中世の商業都市同盟から外れたドイツ北東のケレン地方。
その最大都市であるファイガを訪れたクロスとは、いつもの通り宿をとって夜の町に出かけた。

弟子をとった当初は流石のクロスも夜の花街を控えるべきかと考えたこともあった。
なにせが齢二桁にもならないほんの子供だったからだ。
けれど今は大して気にしない。
この若干十歳の弟子は、とにかく夜に眠らないのである。
眠らず、延々と自己嫌悪の波に埋もれている。
ならばいっそ賑やかな店の中で気を散らせてやった方がよいのではないか。
最近はそう開き直って、積極的に連れ歩くようにしている。

お国柄というやつか、町の中には、道に張り出すテラス席を用意するビアホールが多い。
二人が立ち寄った「シシィの赤い石」という店は、珍しくテラス席を持たない店だった。
中に入るとバーカウンターがあり、恰幅のいい主人がシェイカーを振っている。
揃いのエプロンをつけているのは全員男性で、どう見てもクロス好みの店ではなかった。

「(これは、入る店を間違えたな)」

先に進まないクロスを、不思議そうにが見上げてくる。
店を変えるぞ、と小声で言おうとしたところで、店の奥から明るい声がクロスを呼び止めた。

「あら、見かけない顔! お父さん、お客さんよ!」

振り返れば、店主の娘らしい艶やかな黒髪の美女がクロスを手招いている。
彼女は店内で唯一エプロンをつけている女性だった。
弟子から白い眼を向けられつつ、結局クロスは案内されるままに店内へ歩を進めた。

「ええっ、アデラ、そっちに行っちゃうの!?」
「あたしったら看板娘だから、やっぱり初めての人をもてなしておかないと。また後でね、ハインツ!」

全身で残念がってクロスを睨み付けてくるハインツに軽やかに手を振り、自称看板娘のアデラがクロスの横に座る。

「こんばんは、仮面の人! この町は初めてかしら? ファイガへようこそ!」

キミもこんばんは、とアデラはにまで優しく声を掛ける。
は店内でもフードを取らなかったが、小さな声でこんばんは、と返した。

「看板娘に接客されるとは光栄だなぁ。いいのか、ハインツは放っておいても?」

クロスは自然な流れで彼女の肩を抱く。
カウンターの店主が「それ以上触るんじゃねぇぞ」と此方を睨み付けてきた。
なんて健全な店なんだ、やっぱりオレの好みからは外れてやがる。
内心ひとりごちたクロスだったが、メニューのワインリストが豊富だったので我慢してやろうと思い直した。

「いいの、いいの。あー、ううん、よくないんだけど、ハインツは毎日来てるからあたしのことなんか見慣れてるでしょ!」

いや、それはハインツがアンタに気があるってことじゃねェのか。
が気まずそうにちらちらとハインツを振り返るので、クロスはそっと手を伸ばして弟子の肩を突いた。
やめとけ、これは巻き込まれたら面倒な類の話だ。

そんな師弟の無言のやり取りを知る由もないアデラは、メニューを広げてさあどれがいい? と迫ってきた。

クロスはをちら、と見遣る。
昨晩の彼は、珍しく寝つきが良かった。
今日はテーブルの上の料理がどうであれ気にしないだろう。
取り敢えず馴染みの赤ワインを一本、すすめられるままソーセージ類やつまみになりそうなものを選ぶ。

「アデラ、豆料理とか芋料理とか、何かオススメはないか」

看板娘はその問いかけで望むものを察したらしく、顎に手を当ててふんふんと少し思案した。

「そうね、もちろんお芋の料理はおすすめばっかりなんだけど。あたしはこれが好き。
ケーゼシュペッツレ、パスタにチーズかけたやつよ。それとクロ―セ、ジャガイモのお団子」
「それがいい」
 
が声を上げる。
クロスは頷いた。

「じゃあどっちも一人前で頼む。あとこいつにリンゴジュース」
「はーい。お父さん、聞こえたー!?」

アデラは店主である父親に声を掛けながら、カウンターに入っていく。

一方店の入り口から、まだ少年と呼ばれるくらいの店員が駆け込んできた。
慌てた様子で店主に何事かを説明している。
店主の方は手を止めて、少年を険しい目で睨むように見下ろしていた。

「なんだあの若造、寝坊でもしたのか」

クロスが何とはなしに呟くと、が首を振った。

「……違うみたい」

アデラを含めた店員はこれまで異邦人であるクロス達に英語を使っていたのだが、あの少年は別だ。
現地の言葉で、大慌てで話をしている。
耳をそばだてたが眉を顰めた。

「店員のオットーさんが、やっぱりお家にいなかったんだって。……やっぱりって何?」

店主はアデラに一言言い置いて少年と共に店を飛び出していった。
入口を気にしながら、アデラはクロスの隣に戻ってくる。

「お待たせしました! まずはリンゴジュースね。しぼりたてで美味しいよ」
「あ、ありがと……」
「それと、はい、グラスどうぞ!」

クロス達が口を挟む隙を与えない。
矢継ぎ早に喋り続ける彼女からグラスを受けとり、注がれたワインを一息に呷る。
そこでようやく、クロスはアデラの手を握った。

「何かあったのか」
「あはは、ごめんなさい、騒がしくって。何でもないの。同僚がちょっと無断欠勤しててねー」
「無断欠勤くらいであんな剣幕になるもんかよ」

アデラはクロスに掴まれていない方の手をひらひらと振る。

「くらい、じゃないわよ、大変な問題ですぅ」
「アデラさん」

太ももに、子供の手が乗せられた。
ぐっと体重をかけられる。

空気が束ねられる。
強烈な吸引力が、この店の全員分の呼吸を奪い取る。
気付けば、フードを背中に落としたが身を乗り出してアデラを見つめていた。

「悲しい顔してる。オットーさんは大事な人なんでしょ?」

そういうんじゃないわ、答えるアデラの声は小さい。
が首を振る。

「何もなければ、交番なんか行かないよ」
「多少の荒事ならオレ達が力になれるかもしれない。なれなくっても励ましてやれる。話してみないか」

項垂れた彼女が小さく頷いて、がほっと息をついた。
店内はようやく空気の束縛から解放される。
アデラもすんと鼻を啜った。

「……ちょっと、ビール飲みながらでもいい?」

そう言って一度カウンターへ戻りビアジョッキを片手に座り直したアデラは、一気にジョッキの半分を呑んで息をついた。

「うちの店名、見た? 『シシィの赤い石』っていうの。
あのね、シシィっていうのは、ケレンで有名な伝説の魔女の名前なんだ。
シシィの巡礼って言えば、ほんと、この辺りでは知らない人はいないのよ」
「聖人の間違いじゃねェのか? 魔女?」
「そ、魔女。珍しいでしょ。夜にやる巡礼なの。ちょうど今くらいの時間に、きっと今日も巡礼に行ってる人がいるよ。
……オットーったら、その巡礼に出かけたままもうずっと帰ってこないの」

がそっとフードを被り直す。
アデラはもう話を渋るようなことはなかった。

「陽が暮れてからまた昇るまでの間だけ、歩いていいの。ケレンの四つの地域を回って、魔女の遺物に祈りを捧げるのよ。
一つ目は、このファイガの隣村にあるニクシー村で魔女の頭蓋骨に祈るの。目の病気が治るんだって。
二つ目は、ニクシーの隣にあるピトニラの森ね。魔女のミイラがあって、怪我が綺麗に治るそうよ」
「頭蓋骨とミイラは矛盾しないか?」

クロスが訊ねると、アデラはううん、と答えながらビールをまた一口飲む。

「ミイラには頭蓋骨、無いのよ」

なるほど。
クロスは頷き、想像したらしいがクロスの団服を握った。

「三つ目は、ヴァラの小川にある魔女の爪。恋の願いが叶うらしいわ。
最後の四つ目が、ヴィドス村の魔女の手拭い。ハンカチのことなんだけどね。ここは、死者が蘇ると言われているの」

「ほう?」

興味深い話だ。

「生き返るなんて、本当に信じてんのか?」
「そんなわけないじゃない……って言いたいところだけど、本当なんだもの。
何年か前に奇跡が起こったんだって言われるようになって……それから巡礼者がぐっと増えたんだから」

クロスやが前のめりになっていることに、アデラはきっと気付いていない。
彼女は目元を拭ってジョッキを両手で包む。

「オットーは、双子の弟のグンターを火事で亡くしたの。それで随分落ち込んで、……巡礼に行くって、決意したのよ」
「で、帰ってこないってのか」

アデラが頷く。

「巡礼地同士は一晩夜通し歩けば着くくらいの距離よ。
帰り道は汽車を使う人だっているし、律儀に同じように歩いて帰ったって、やっぱり十日はかからないわ。でももう、二十日も経つんだ」
「……寄り道してるのかもしれないよ」

が小さな声で励ますように言った。
そうかもね、とアデラは笑う。

「ヴィドスに着いたって手紙は来たんだよ。十日も前に来たの。
……来たのよ。手紙と一緒に帰って来たって、おかしくなんかなかったのに……」

握り締めたジョッキの中に、涙がぽたぼたと零れ落ちた。
此方を窺っているハインツや他の客にも見えてしまったかもしれない。
残念ながら完全に脈無しのようだとハインツを憐れみながら、クロスは手を伸ばし、自分の帽子を彼女の頭にかぶせてやった。

巡礼の話は少し気にならないこともない。
死者が蘇る。
奇跡が本当に起こったというならば、イノセンス、AKUMA、伯爵、いずれかが関与した可能性がある。

けれどこの一件だけの話ならば警察頼みの案件だ。
好奇心でいたずらに彼女を傷付けてしまった。
アデラの肩を叩いて宥めながら、ふう、と鼻で息をついた。

その時、がぱっと振り返った。

「……アンタら、今の話を信じてないんだろう」

クロスはまず、弟子のつむじがある辺りを見下ろした。

「(こいつ、今、フードかぶってるよな)」

見た通りだ、間違いなくはフードを被っている。

空気を支配する黄金色は、気配を察することに長けている。
けれどまだ自分の感覚に慣れないようで、普段はコートのフードでそれを遮っていた。
彼の独特な存在感も、フードひとつで抑え込まれて隠される。
ただの布一枚に特異な力があるわけではないのだから、単なる気の持ちようだろうとは思うのだが。
それでも今は間違いなくそのフードを被っているのだ。

「二年前の春に、ヴィドスの村で本当に死者が蘇ったって話だよ。
僕の家はピトニラの宿屋だけど、確かにその頃から巡礼者が増えたんだ」

クロスは声の方に意識を戻す。

背後から静かに声を掛けてきたのはハインツだ。
敢えてアデラの反対隣に座るの方から来たあたり、彼女への気遣いが感じられた。

「ピトニラってのは二つ目の巡礼地じゃなかったか? 
お前、そんなところからわざわざ此処まで飲みに来てるのかよ……熱いねぇ、常連さん」
「今大事なのはそこじゃないだろう!?」

クロスの帽子の中で、アデラが肩を小さく揺らし、鼻を啜りながら笑った。






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200314