燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









14.溢れる希望の後に









は、部屋の扉を開けた。
中に入って、後ろ手に鍵を掛ける。
「福音」をベッドの上に放り投げた。
団服を脱ぎ捨てて、明かりを点ける。
どうしても目につく大きな洋箪笥から、はっきり目を逸らし、シャワー室の戸を開ける。
息を乱しながら、薄暗い中で、手探りに蛇口を捻った。



俯いた首筋に、水流の衝撃が走る。
所詮、細かな水なのだ。
どれほど蛇口を開けても、一向に痛いとは感じない。
服の中へ、水が入り込んだ。
蛇口に手を掛けたまま、は、ただ無心に立ち尽くす。
水は、絶え間無く流れる。



服が体に張り付いた。
息苦しさに耐え兼ね、無理矢理にタイを外す。
吸えるだけ水を吸った真紅の布は、手から滑り落ちた。
肩で大きく息を繰り返す。
空気が足りない。
薄く目を開けると、髪から滴り落ちる水滴。
固く目を閉じると、瞼の裏には氷の塊。

「は、あ……っ」

自分の手で「家族」を殺した、あの瞬間。



吐き気がする。



「ぁ……っ、……っ、……、……」

息さえ、音にならない。
「聖典」の副作用の方が、どれほど楽だろうか。



揺らぐ水面と、落ちる氷の一欠けら。
ひび割れて、崩れゆく、家族。
押し付けた銃口から伝わった、生々しい感触。



苦しくて、胸を掻きむしる。
体が大きく傾いだ。
鈍い音を立て、膝をつく。
水はこんなにとめどなく流れるのに、何故記憶を連れていってはくれないのだろう。
誘われるのはいつだって、遠い日の黄昏。



何処までが過去で、何処からが今なのか。
何処までが今で、何処からが過去なのか。



移ろいゆく記憶に、小間切れの景色。
途切れることのない、映像の断片。
時間軸の違う過去の風景が、大きな波を作って追ってくる。



追い立てられる。



呼応するように、蘇る音。
水路に響いた水音。
一瞬の崩壊。
氷が割れる。
機械音。
甲高い笑い声。



現実と幻、正気と狂気の区別がつかない。



「ぅ、あ……っ」

彼らが、自分を呼ぶ。



「――――――――――!!」









叫べたなら、良かったのに。









『……、起きてるかい?』

ゴーレムからコムイの声がした。
もう、朝になったのか。
霞みそうになる意識の中、蛇口へ手を伸ばす。

『まだ寝てるかな? 起きて』

上手く掴めずに、何度も空を切った。
ようやく硬い物に触れ、流れを止める。
高いところから、水滴の落ちる音。



ゆっくり目を瞑った。
開けるのと同時に、頬を微笑ませた。

「……起きてるよ、おはよう」

自分の中に、まるでもう一人の自分が居るかのような錯覚。

『良かった、おはよう。その……ちょっと、話があるんだけど……いいかな?』

声を笑わせる。

「あー、今シャワー浴びたばっかなんだ。三十分くらいしたら行く」
『分かった。待ってるよ』

通信が切れる。
は笑みを消して浴槽に凭れた。



一晩中被っていたのが冷水だったことに、その時初めて気付いた。









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溢れる希望の後に残されたものは、絶望と羨望

(主人公16歳)

091001