燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  






 











「あのね、兄さん……壁蹴ってジャンプするの、かっこよかったです。僕もやってみたい」

囁かれた弟弟子の言葉が思いの外こそばゆくて。

「今度教えてやるよ」

熱い顔を隠しながらそう答えたら、アレンが嬉しそうに笑ったので、も笑い返した――筈、だったのに。
橙色が、目を灼いた。



――お兄ちゃん――



ドアベルの音
一緒に引いた扉
おとうさん!
抱き着いた父の腹の感触
会いたかった
懐かしい声
うれしいな
爆音
どうしたの?
吹き抜ける風
何の音!?
伸ばされた、手
――
お兄ちゃん
伸ばされた、手
残像に重なって
ワンピースが
はらり、と
何が
あったの


砂が舞う
ああ、そんな
妹だった砂が崩れる
どこにいったの
世界が
お父さん
お母さん




――お兄ちゃん――





ビクッ、と体が震え、喉を空気が通り抜けた。
視界いっぱいに赤が見える。
否、視界いっぱいに、黒が見えている。
それを「赤」と錯覚したのは、心の方だ。
この人が、「赤い」と知っているから。
黒白の世界の中で、たった一つの色だと知っているから。

「……ししょ、う」

出した声は、流石に自分でも頼りないと思った。
けれど何とか、何か応えなければいけないと思ったのだ。
顔を上げると、正面から覆い被さるようにを抱き竦めていたクロスが、その身をひく。
仮面に隠れていない方の眉がぐっと歪められていて、は咄嗟に顔を背けた。
頭上からこれ見よがしの溜息。
一拍遅れて、頭を乱暴に掻き回された。
払い除けようとする前に、あっさり離れていった手を見遣る。

「兄さん、大丈夫ですか?」

と、少し下の方からアレンが気遣わしげに此方を見上げていた。
いけない、と背中に汗が伝う。
は頬を緩ませて弟弟子に笑みを向けた。

「うん、ちょっとボーッとしてただけ。ごめんな」

何も追求されたくない。
何も触れさせやしない。
師が自分にしたようにアレンの頭を掻き混ぜる。

「わっ、わあっ」
「あはは。お前の髪、柔らかくて気持ちいいな」

さっさと行くぞ! とっくに歩き始めていたクロスの怒鳴り声が、少し先から聞こえる。
二人は慌てて花屋に会釈をし、師を追いかけた。

「いつまで油売ってんだ、馬鹿弟子ども」
「ご、ごめんなさい」
「ごめんなさい。師匠、人を喰う樹の話、聞けたんですか?」

おう、と返すクロスが、肩越しにを見下ろした。

「まあ急ぐ用じゃない……明日出直すか?」

――心配をかけた。
カッと頭には血が上り、一方で背中に氷を当てられたように内臓が縮み上がる。
冗談じゃない。
はクロスをきつく睨んだ。

「さっさと行くぞって、貴方が言ったんでしょ。なあ、アレン?」
「そうですよ、師匠……だって、もし今夜、まただれかが酷い目にあったら……」

の意地に巻き込まれたとも知らないアレンの言葉に、そうそう、と頷いてみせる。
何でもないんだ。
こんなもの、こんなこと、貴方に気にかけてもらうようなものじゃない。
何でもないんだ。これは自分の咎で、自分のための罰で、だから決して貴方の命と秤に掛けてはならないものだ。
はすっかり足を止めてしまったクロスの背中をぱしんと叩いて、彼を追い越した。

「で? 何処に向かったらいいんですか、師匠」

今度はの方が、肩越しに振り返ってやる。
憮然としたクロスが唸るように言った。

「まっすぐ進め」









「任務の時は、屋根の上とか走ったりもするよ」
「ええっ! そんなところ登ったら、町の人に怒られませんか?」
「滅多にないな……いや、皆そんな余裕が無いだけじゃないかな。アクマがいる訳だから」

広場に突き当たる度に、左へ曲がっていく。
丘の頂上は思ったよりも遠く、クロスは欠伸を噛み殺しながら頭を掻いた。
昨夜はほとんど寝ていない。
抱き締めた体が、いつまでも眠らなかったからだ。
向こうは恐らく一睡も出来なかっただろう。
眠れないことなど、にとっては茶飯事である。
けれど、昨日のような日は。
昼日中から心をぐらつかせたような日は。
長く押し込めていた鎧の中身を零してしまったような日は、きっと堪えるだろう。

「(そんな日に好んで戦おうとするところが、馬鹿なんだ)」

自ら望んで危険に身を晒すあたり、救いようがない。
先程の戦闘中、は滅多に見せない凶悪な目付きで一瞬だけクロスを睨んだ。
本人にもその自覚はないかもしれない。
その後壁を蹴り宙へ駆け上ったので、聖典を使いたかったのだとすぐ分かった。
アレンの修行に同行している間は使うなと厳命したから、もどかしい思いがあったのだろう。
このひと月で何度も文句を言われたが、クロスも何度でも突っぱねた。
決めたのだ。
自分の庇護下にいるうちは、絶対にアレを使わせない。
この黄金は、「彼」の形見だ。
たったひとつ遺された、あの村の形見だ。
生かしたい。
生かしてやりたい。
そんなクロスの思惑と、の切望が互いを削り合う。
償いたい。
罰されたい。
そんなの焦燥と、クロスの懇願が互いに嘆き合う。

「丘の頂上とは言うけど、どっちかっていうと森の中って感じだな」
「こういう所でも戦うんですか?」
「戦うよ。何処だって、地下室でだって戦うさ。アレン、周り見えにくいから気を付けろよ」

が穏やかに微笑んで、アレンを必要以上に緊張させないよう努めている。
ガチガチに固まってしまったら、いざと言う時に逃げることも出来ないからだ。
そういう配慮を、自分の身にもして欲しいとクロスは常に思っているのに。

「――ッ!」

突然、アレンが顔を押さえて息を飲んだ。
の手にはもう福音が握られている。

「アレン」

クロスの呼びかけに、アレンが正面を指さした。

「アクマです……!」

目算で、二十五歩の距離。
森の木々が開けた場所。
夜に飲み込まれかけた夕焼けの強い光が射し込む空間へと、白銀の傍らから黄金が飛び込む。
アレンが緊張も恐怖も忘れて目を瞠り、兄弟子に釘付けになりながらクロスの団服を掴んだ。
驚くのも無理はない。
アレには全くと言っていいほど予備動作がないのだ。
瞬きさえも許さずに、少しの反動を上手く利用して動き出す。
だから今だって、前触れなくトップスピードで弾かれたように駆け出した。
アレンからしたら、兄弟子が突然隣から消えたように見えただろう。
クロスは断罪者を抜く。
アレンを伴って、既に発砲音の聞こえるその場所へ駆けつけた。

「うわっ……!」

熱風に煽られたアレンを、自分の陰に押し込む。
火炎弾による爆発音が、樹から変形したアクマの喚き声をかき消した。
鞭のように振るわれる蔓も、種のような形状の血の弾丸も、を捕らえるには遅すぎる。
けれど。
が一瞬、敵から顔を背けた。
逆光。
黄昏色が、黄金色を灼く。

「兄さんっ!」

クロスは煙草を噛み締めて引鉄に指を掛けた。









黄昏色が、視界を灼いた。

「兄さんっ!」

アレンの声が聞こえる。
けれど、

――お兄ちゃん――

けれど、それを打ち消すように、

――お兄ちゃん――

重なって、の体の中で反響して、鳴り響く、愛しい世界の、

――お兄ちゃん――

最期の声が。

――お兄ちゃん――

心を揺らがせる。
だって。

「(もう、こんな、世界に)」

こんな世界に、もう、用はない。
迫るアクマの腕は、記録映像のように現実味がなかった。
映像の中で、アクマの腕が弾け飛ぶ。
ふと顔を向けると、そう、視界に赤い髪が。
風に煽られた赤い髪が見えた。
は自分の腕を下ろす。
かつての自分のように背後に匿われたアレンが、大きな体の後ろからアクマを見上げていた。
振り回される蔓を断罪者の弾丸が狙う。
早撃ちの技量を存分に発揮して、煙草の煙を雑に吐きながら本体を撃ち壊した。
アクマの外装が小規模な爆発を起こし、は少し目を眇める。
乱暴に草を踏みつける足音が聞こえた。
顔を向けると、アレンを伴ったクロスが死臭を避けながら歩いてきた。

「おじさん、」
「こんんっの、バッッカ弟子が!!」

大音声に、思わず体が跳ねた。
驚いた。
たった今、師に手間をかけさせたことに思い至る。

「ご、ごめんなさい」
「一人で突っ走って行くな!この馬鹿!」

頭頂への拳骨は、避けることも出来たけれど受け入れた。
迷惑をかけたのだから、自分が悪い。
頭を抑えて呻くを気にかけてくれたアレンが、クロスに顔を掴まれた。
頬を片手で押し潰され、ぐりんと無理矢理に師を見上げさせられている。

「いいか、アレン。今のみたいな動き方は真似するんじゃねぇぞ」
「は、はひっ」
「一人で戦ってるわけじゃねェんだからな。分かったか」
「はひっ、ひひょう、はなひひぇふらはひ……」
「師匠。俺が悪かったから、アレンは離してあげて」

自分のせいで弟弟子の柔らかな頬が痛め付けられるのは忍びない。
は頭を擦りながら師の腕を引いた。
クロスが仮面に隠されていない左目で、此方をギラリと睨みつける。
フン、と鼻息も荒くアレンから手を離したクロスが「お前は何も分かっちゃいない」と不機嫌に零した。

「分かってますって……アレン、ほっぺた大丈夫か?痛かっただろ」

は弟弟子の頬に手を伸ばす。
放心状態にも見えるアレンの瞳が、断罪者に破壊されたアクマへと向けられていることに気付いた。
囚われたアクマの魂を映す、銀灰色。
ようやく怯えて震えることが少なくなってきたソレを、また見ているのだろうか。

「……なあ、アレン」

の瞳は、誰も映さない。

「今日のアクマ達も、救われたかな」

呼び戻された人が何を思いながらアクマの器に囚われているのか。
イノセンスに殺されたアクマがどうなってしまうのか。
師の説明だけでは納得しきれなかった部分に、明確な答えをくれたのがこの少年だった。
アレンがゆっくりと瞬きをして、頷いた。

「……そっか」

イノセンスに殺されれば、アクマに内蔵された魂は解放されるのだという。
もう、望まぬ殺人を繰り返さなくて良いのだと。
はアレンの頭をそっと撫で、手を離した。
アクマの残骸に向き直り、膝をつく。

「主よ」

胸の前で両手を組んで目を瞑った。

「彼らに、赦しを」

どうか。









一日に二度も戦闘に出くわしたからか、流石にアレンは気疲れしたようだった。
夕飯を食べながら船を漕ぐなど、食事の機会を決して逃さない彼にしては珍しい光景だ。
まだ起きていられると言い張った弟弟子を、が苦笑しながら寝かせに行った。
戻ってきた彼は、肩を竦める。

「アレンはもうぐっすりだよ。まあ、まだアクマの魂にも慣れてないもんね」
「だろうな。……よし、来い、
「え? ……ちょっ、何、引っ張らないで、苦しいっ」

ぐええ、と潰れた蛙のような声が聞こえるが、無視してクロスが使っている寝室を開ける。
襟首を引っ張り、ベッドに放り投げた。

「うっえ、げほっ、なんてことするんだアンタは……」

が噎せながら身を捩る。
団服を脱ぎ捨てたクロスは、弟子が起き上がる前に彼の上に跨った。

「な、何?」
「何じゃねぇ。寝るぞ」
「寝るぞって……いや、退いてよ」
「うるせぇ」
「師匠っ? ちょっと!」

体の下から抗議するを押さえ込みながら、団服を脱がせる。
自分のものと同じように床へ放り投げた。

「お前は、なんっにも分かっちゃいねェ」
「何の話!? 師匠痛い、重っ、退いて……むぐっ」

覆い被さって、左手で彼の顔を胸に押し付ける。
背中に回した手にも力を込めて、体温を分けるように強く強く抱き締めた。
腕の中の抵抗は少しずつ無くなって、ある瞬間を境に強張りが解ける。
クロスは彼を抱いたままごろりと横に転がって、右手でそっと背を叩いた。

「あの……あれは、ちょっと、眩しかっただけだから」

嘘つけ。

「聖典使えたら、別に、危なくもなかったと思うし」

嘘つけ。

「そうだ、聖典だよ……使ったっていいでしょ。俺の修行にならないよ」
「ダメだ」
「どうして」
「お前、忘れたとは言わせねェぞ」
「は? ……ああ……ったく、みんな大袈裟なんだから。あのね、師匠」

言い含めるように、ひっそりとしたうっとりとした微笑みを孕んで、彼の息が鼓膜を撫でる。

「そんな心配するようなことじゃ、ないんだよ」

それが、不快で。
否、どうしようもなく不愉快で。
体を少し離して、彼の顔を見た。

「言いたいことがあるなら、オレの目を見て言え」

は一瞬きょとんとしたが、すぐに嬉しそうに笑った。

「心配なんてする必要ない。俺は、なんにも困ってないんだから」

だからね。
クロスの背中に、ほっそりとした未発達な腕が回される。
いつまで経っても肉のつかない、彼の腕。
今度はの方から、クロスをそっと抱き締めた。

「師匠が生命を懸けるほどのことじゃないんだってば」
「(嗚呼、どうして)」

いつから、クロスの生命は他者の生命より上位の存在になったのだろう。
どうして、彼の中で生命に貴賎が出来たのだろう。
他の誰かなんて、どうでもいい。
本人さえも、どうでもいい。
どうして、他でもないクロスにとってこの黄金が無価値だ、と。
一瞬でも考えることが出来るのだろう。

「(この……っ、クソガキ)」

どうしたら、きみが大切だ、と伝えられるのだろう。
一度も伝えられた試しがない。
もどかしさに任せて乱暴にかき抱く。

「返事もしやがらねェ神様のご機嫌取りなんざ、ごめんだな」

死んだりしないさ。
耳元で囁くと、腕の中の身体がビクリと震えた。
死んだりしないさ、お前がオレを守るんだから。
だから。

「……だから、一人で勝手に怯えるのはやめろ」

そろそろと背に縋り付いた疑り深い彼が、せめて今夜は神様から見つかりませんように、と。
クロスは、二人がすっぽり収まるように、毛布を引き上げた。





F I N .

      MENU   BACK






190810