燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  






 











両手に大事に大事に抱えていた「世界」を失い、彼は常に窒息しそうに生きていた。
例えば、クロスが朝日を浴びて目覚める時、金色は腕の中で一度だけ身動ぎをしてピタリと息を止める。
例えば、朝食を摂ろうと店に入れば、彼は伏せがちな瞳で店内をぐるりと見回す。
客が頼んだ料理を確認して忌むべき方向へ顔を向けないようにするためだ。
例えば、町を歩けば金髪の少女からは決まって目を逸らす。
例えば時計塔の鐘は見上げないし、けれど教会の十字架は険しい顔で睨み上げる。
そして夕暮れ時になれば、決して顔を上げずにただ地面だけを見つめている。
クロスの団服を皺になるほど握り締め、それでいて、不意に力なく手を離す。
夜は寝息を立てるふりをして、いつまでもクロスの髪を握り締めて震えている。



それでも、何かしらの動きがある時はまだこの世界で生きているのだ。
けれどこうして、過去に囚われてしまった時は、最早彼はこの世界では息をしていないのだろう。
日によっては間を置かず、繰り返し何度でも。
過去は前触れもなくクロスから黄金を掻っ攫い、「あの時」に引きずり込んでしまう。
その時は、呼んでも叩いても何をしても無駄だと、かなり早い段階でクロスは気付いていた。
せめてもと名前を呼び続け、目を合わせて体に手を添えてやると、此方に帰ってくる迄の時間が短くなる。

、聞こえるか」

弟子の耳には今、爆発音と鐘の音と、止まない妹の声しか聞こえていないと知っていても。



クロスはいつでも何処でも何度でも、この子を底なしの悲しみから呼び戻してやるのだ。

「……師匠?」

漆黒の瞳に光が灯った。
黄金色の睫毛を震わせながら、ランプの明かりだけに照らされた室内を見回す。
は弟弟子を隣室で寝かしつけてから此方の部屋を訪れた。
クロスの持つグラスにワインを注いで空になった瓶を持って立ち上がり、そのまま立ち尽くしていたのだ。
今日は、少し長かったように思える。
手から滑り落ちて割れた瓶の欠片を一纏めにし、床をサッと拭くくらいの時間があった。
が自分の手を見つめる。
跪くクロスと、床に集められたガラスの破片を目にして、やっと事態を理解したようだった。

「あ、……ごめん」
「雑巾洗って来い」
「はい。……これ雑巾じゃなくてハンカチだよね」
「床拭いたヤツなんざ雑巾で十分だ」

彼が部屋を出たことを確認して、クロスは溜息をついた。
黒の教団に入団して、はようやく自分の行動を自覚するようになった。
耐え難い悲しみが膿んだ傷を不意討ちで焼き焦がすような現象なのだ。
自覚をしたって、抑えられるものでもないだろうに。
あれは、誰かを心配させないために、せめて人前では過去に取り込まれぬよう気を張ることにしたらしい。
だからこの二年ほどは、すっかり目にする機会がなかった。

「(……いや、)」

クロスは、祈るように信じていたのだ。
傷は、癒えたのだろうと。
――そんな筈はないと、知っていたのに。

「ごめんなさい、師匠」

戻ってきたが、固く絞ったハンカチで手を拭きながら仄かに笑った。

「(笑う必要なんか、ねェんだよ)」









過去が蘇る時、大抵クロスが声をかけてくれる。
けれど教団に入って、は思ったのだ。
師に甘えていてばかりではいけない。
何せが我に返ると、師はいつも顔を顰め、左眼に心配を募らせて此方を見ているのだから。
このままではクロスまで神様に殺されてしまう。
それに、アレは自分の気の緩みで起こるものだということも分かっていた。

「アレン! 走れ!」

何故ならあの現象は、こうした戦闘時には決して訪れないから。
つまり、気を張っていれば起こるはずもないことだと、分かっていた。
アレンの背後に迫るアクマを、弟弟子の頭越しに撃ち抜く。
少し離れたところにいるクロスは煙草を吹かしながらひょいと断罪者を構え、右へ一発弾丸を放った。
は花屋の壁を利用して宙へ駆け上がる。

「(聖典を使えたら楽なのに)」

チッ、と同僚よろしく舌打ちを零した。
修行の一環だと思って暫く聖典は使うな、だなんて。

「(……何考えてるか丸分かりだよ、師匠)」

残りのアクマは三体。
足元には花屋の女性と男性が抱き合って蹲っている。
並べられていたプランターは全て割れて、土と花が零れ落ちていた。
それを横目に見ながら、眼下のアクマへ引鉄を引く。
左足で着地し、周囲の空気を探った。

「に、兄さん……」
「お前の目はどうだ? アレン」
「えっと、アクマの反応はないです」
「うん、俺もそう思う。これで全部かな」

は頷き、福音の発動を解いた。

「――主よ、彼らに赦しを」

クロスが大きく息を吸い込んだのが聞こえる。

「こらアレン!」
「ひぇっ!」

師の怒声に、アレンが首を竦めてをちらりと見上げた。
その仕草につい笑ってしまう。
弟ができたのは初めてのことだが、なかなか可愛らしい存在であった。

「何をあんな真っ只中でトロトロ歩いてんだ!」

ゴツンという拳骨の音と悲鳴を聞きながら、は花屋に向き直る。
店員の二人は、此方を見上げて怯えるように身を震わせた。
無理もない、目の前でいきなり客が機械に変貌したかと思えば、突如現れた三人組が戦闘を始めたわけで。
つくづく、事情を知らない人々から見れば、自分達は災厄だと思う。
だから、訳が分からないなりに最低限の安心を齎せるよう、は膝をついて二人と目線を合わせた。

「いきなり失礼しました。お怪我は?」

ふうわりと頬に笑みを乗せる。
空気を引き込み、店員達の視線を自分に縫い止めて、グロテスクなアクマの亡骸から逸らさせる。
今回のアクマには人によく似た形のものもあり、通行人が真っ青な顔で通り過ぎるのが見えた。

「怪我は、な、ないよ……」

男性が震える声で言うが、彼の肘は擦りむけて血が出ていた。
女性を庇った時に出来た傷だろう。
女性はそれに気付いたようで、何か言いたそうにしていたが、声が出ないらしい。
は肘を指さして、微笑んだ。

「動揺してると、気付かないかも」
「え? ……あっ」
「ねぇ、膝も……あの、ありがとう……」

ようやく女性が声を絞り出した。
その感謝は、達ではなく勇敢に彼女を守った彼へ向けるべきだ。
そんな思いを込めて目配せをしたけれど、二人とも、気付く余裕はないようだった。
は、ただ言うべきことだけを音に変えた。

「生きていてくれて、よかった」









「死ぬほどの怪我じゃねェんなら、少し聞きたいことがある」

クロスはアレンの襟首を掴んで引きずりながら、膝をついて花屋の店員と目線を合わせた。
が立ち上がりアレンを引き取って、立たせる。

「『人を喰らう樹』を探してるんだが、何か知ってるか?」

人を喰らう樹。
それを探しに、クロスと弟子達はこの町へやってきた。
人が消える場所がある――とまあよくある奇怪の一つだ。
ただしイノセンス絡みの奇怪ではなく、アクマによる殺戮の結果であろう。
とは昨晩のベッドの中で、既にその話を済ませていた。
修行を始めてまだひと月のアレンを抱えていても対処できる程度の騒動である。

「どうしてそんなもの探してるんですか」
「近付かない方がいいですよ……?」

此方を慮る言葉を掛けてくれた女性は、ふっくらとした頬で愛嬌のある顔立ちをしている。
クロスは彼女に笑顔を向け、それから男性の方に向き直った。

「そうしたいんだが、野暮用があってな。で、どうだ、知ってんのか?知らねぇのか?」
「し、知ってますよ、勿論。ええと……」

町の地図を広げて見せると、男性は町外れの丘を指で示す。

「この丘の上です。広場に突き当たる度に左に折れていくと迷わないで行けます」
「アレン、怪我は?」

背後からは弟子達の声がする。

「ないです……」
「本当に? 痛いところも? 隠すなよ、ちゃんと言っていいんだぞ」
「う……師匠にぶたれた頭が一番痛いです……」
「っぷ、あはは! そっかそっか」

クロスの背中側で、明るい声が弾けた。
ぐす、と鼻を啜るアレンの頭を、恐らくが優しく撫でてやっている。

「でもな、あれはお前が悪かった。よく周りを見るんだ。明らかにアクマがいたんだから、逃げなきゃ」
「ご、ごめんなさい」
「まだ戦おうなんて思わなくたっていいよ。でも自分を守るために動く練習をしてくれ」
「(今、微笑った)」

彼は背中側にいるのに。
そちらを向いてもいなければ、弟子達の会話さえ聞く気もないのに。
空気が微笑んで、金色の姿を教えてくれる。

「お前が自分のことに集中出来るように、俺がついてるんだから」
「ありがとう、ございます……で、でも。あのね、兄さん、」
「ん? ……へっ? いや、……それは、うううん……」

アレンが、小さな声で何かを囁いた。
途端にが声をひっくり返らせる。
珍しく慌てたように口篭る彼と、照れながら話し続けるアレンのことが気になって仕方がない。

「あの、聞いてます?」
「んあ? ああ、すまん」

花屋の話は途中から全く聞いていなかった。
呆れ顔の男性には悪びれもせず、困り顔の女性にだけすまんすまんと詫びてみる。
それでも二人は改めて、人を喰らう樹への道筋を教えてくれた。
情報を頭に叩き込み、立ち上がる。

「世話になったな」
「いいえ、こちらこそ……どうぞお気をつけて」

女性が下がり眉で見上げてくるので、クロスはもう一度彼女に笑顔を向けた。

「たまには可愛い娘に心配されるのも悪くねぇな」
「えっ」
「ちょっと、あなた達に感謝はしてますけど、妹を誑かさないで貰えますか!」
「あん? お前ら兄妹か?」
「そうですよ。どんな勘違いしてんですか」
「なんだ、夫婦じゃねぇのかよ。ならもっと早く口説いときゃ良かったぜ」

一昨日来やがれ!
ちょっと、お兄ちゃん!
すっかり元気が出た様子の花屋の兄妹を横目に、クロスは振り返った。

「おい、馬鹿弟子共、いつまでグダグダやってんだ、」
「兄さん?」

アレンの訝る声。
――ぐっと冷え込む空気。
花屋の兄がぶる、と身を震わせて自分の腕を抱いた。
妹は唐突に自分の目から零れた涙に困惑している。
クロスは、原因に思い至ってそっと手を伸ばした。






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