燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
00.Prologue
雨の降りしきる夜のこと。
今日は家中が大騒ぎだ。
メイドのライラの話によれば、料理人のディランは朝からディナーの仕込みをしていたというし、執事のアーロンは朝から父の書斎にこもりきりだ。
食事を摂ったかも怪しい。
ライラ自身も、屋敷内の飾り付けを夜通しやっていたようだった。
指示を出したのは母で、完璧に出来るまで寝てはならないと厳命しているところを昨晩目撃した。
娘の目から見ても、舞台女優の母は美しい人だ。
けれど、あまり優しい人ではない。
世界の全ては自分を引き立てるためにあると信じているから、資産家の父と結婚をしたのだし、娘の私を伯爵家に嫁がせようとする。
そのくせ、今日だって私のドレスや身嗜みには興味がない。自分を飾り付けることで手一杯なのだ。
飾り付けの名目で構わないから、こんな日くらい私を見てくれてもいいのに。
いつも通り全部、家庭教師のサマンサ・テイラーに丸投げだ。
母は朝からライラを呼びつけて、彼女が夜通し頑張った仕事にケチをつけ、広間の飾り直しを命じた。
そればかりか、今日のために取り寄せていたドレスが気に食わないからと、昼からとっかえひっかえのファッションショーをしている。
手伝うよう命じられたライラは、きっと母の隣でおべっかを使っては「お前は本当にセンスのない子ね」と蔑まれているのだろう。
娘が母のアクセサリーなら、ライラは対比して貶められるための端役だろうか。
まだ成人していない彼女の頬には大きな火傷の痕がある。
本人は化粧や髪型で隠してしまいたいらしいのだが、私の母はそれを許さなかった。
我が家で働きたいのなら、清潔に髪を引っ詰めて化粧はしないこと。
そんな条件は断ればよかったのに、病気の姉に仕送りをしたいからとライラはその条件を飲んだのだ。
祖父の始めた金融業が成功して、我が家は町で有名な資産家である。
いい暮らしをさせてもらっていると思う。
今日は、我が家に出資し家族ぐるみで親しくしてくれているベリル伯爵家を招待しているので、私と弟もパーティーへの参加を許可された。
「僕は出たくないのに……姉さんはどうしてそんなに嬉しそうなの」
「だってヘンリーが来るもの。私の次の誕生日には縁談を進めるってお父様はおっしゃったし、うんと仲良くしておかなくちゃ。あんただって、ヘンリーのこと好きでしょ。彼、優しいもの」
「お嬢様、『あんた』ではありません。『あなた』と言い直しなさい」
「はいはーい」
「はい、は一回ですよ。返事は?」
「はーい」
「伸ばさない!」
テイラーは口やかましくて、うるさい。
けれど、私をアクセサリーではなくきちんと一人の人間として扱ってくれるところが好きだ。
「ヘンリーは好きだよ。でも……フィナスがさぁ……」
「坊っちゃま、あなたもシャキッと物をおっしゃるように」
「テイラーさんはシャキッと出来るけど、僕には無理なんだよぅ……」
「フィナスのことなんか、気にしなくていいのよ。あんた、んっ、んんん……あなたの方が、勉強はよくできるって言っていたじゃない。将来うちの銀行の頭取になるんだから、あなたは勉強を頑張って適度にお友達と仲良くなればいいのよ」
注意されたことを訂正すると、「よろしい」と満足そうにテイラーが頷く。
母だったら、こんな風に細かく褒めてくれない。
「そうですよ、坊っちゃま。坊っちゃまは一生懸命お勉強をなさっていて、しかもそれがきちんと身についていらっしゃる。このサマンサが言うのですから、もっと自信をお持ちになられてもよろしいのですよ」
「でも、クリケットだけじゃないもん……階段からも落ちたし、食堂で転んでスープ零したし……。フィナスなんか、取り巻きと一緒に僕のこと指差して笑ってた」
「今日はヘンリーが一緒なんだから、フィナスも嫌なことはしないわよ。でも、足元はちゃんと見たほうがいいわね……」
ベリル伯爵家の長男ヘンリーとは幼い頃から仲良くしている。
彼はとにかくいい人だ。
勉強も良く出来ると評判で、彼の妹のティアラと共にクリケット大会に招待された時には大活躍する姿に興奮したものだ。
友人達からも人気があるようで、申し分ない。
けれど、いい人すぎて人間味がないのがつまらない。
かといって、弟を虐める次男のフィナスはいけ好かない奴だから、縁談がそちらと組まれるのではなくて本当に良かったと思う。
弟の話では、ヘンリーの父親であるベリル伯爵は非常に型破りな人物として知られているらしい。
変わり者なのだとか。
確かに、どんな経済事情があろうが、大事な嫡男とただの資産家の娘を結婚させようと考える貴族は、変わり者かもしれない。
けれど会うたびに親切にしてくれるので、きっと悪い人ではない。
伯爵夫人のペネロペは、彼女こそ自分達の母親だったならばとたびたび空想しては溜め息をついてしまうほどにいい人だ。
テイラーから厳しさを抜いたら、恐らくああなる。
母の大ファンであるというところが玉に瑕で、それさえなければもっと仲良く出来るだろうと思う。
「さあ、終わりましたよ、お嬢様。いかがです?」
テイラーに言われて鏡を見ると、母とお揃いだったはずの赤いドレスに赤毛を垂らした自分の姿が映っていた。
赤いカチューシャが子供っぽくて嫌だ。
「髪を結った方が絶対に可愛いわ……」
「お誕生日には、あのとっておきの髪飾りで結い上げましょう。きっとお似合いになります」
「あのガラス細工の、百合の髪飾り!」
気分が高まって、歓声を上げる。
にこりと笑って頷くテイラーは、やっぱり、お母さんみたいだ。
「わあ、楽しみ!」
「あ、姉さん、馬車が来たよ」
弟の声に、窓へ駆け寄る。
四人乗りの大きな馬車が玄関に付けられているのが見えた。
***
雨の降りしきる夜のこと。
従僕を伴って両親と弟と共に出かける先は、町の西側にあるローリー家の屋敷だ。
ローリー家の長男ライアンは弟と同じ学校に通っている。
弟はクリケットが好きで、同年代の中でも体が大きい方だが、ライアンは運動はからきしだった。
最高学年になったというのに、寮では虐められていると聞く。
助けてやらないのか、と聞けば弟は「あいつが悪いんですよ。
階段踏み外してすっ転ぶとか、何もないところで躓いてスープぶちまけるとか、僕にどうやってフォローしろっていうの」と返してきた。
ライアンは彼の父アダムズに似て勉強はよく出来るというから、弟は変な見栄など張っていないで彼に勉強を教わるべきなのだ。
長男の自分と違って、弟は爵位を継がない。
いずれ手に職をつけるときが来るというのに、困ったやつだ。
ライアンの姉アニーは、弟とは違って活発な少女だ。
明るく、両親に似て勝ち気なところもある。
だんまりしている女の子よりはよほど好きだ。
風邪をひいて家に置いて来られた妹は、兄である自分達よりもアニーのことが大好きで、「お兄様達ばっかりずるいっ。あたしもアニーお姉さまと遊びたいのに! 大っ嫌い!」としくしく泣いて拗ねて怒って体温を上げて父と母を困らせた。
お互いもっと幼いころから親しくしているが、ドレスを汚すことが趣味だったお転婆アニーも、今では一人前の淑女を目指して花嫁修行に勤しんでいるのだそうだ。
夏にはまだその成果が見られなかったけれど、今日はどうだろうか。
いずれ、自分は彼女と結婚させられることになるのだろう。
彼女からしたら玉の輿だけれど、此方の面子はあまり保てないように思う。
いくら中流階級の資産家とはいえ、伯爵家の長男が庶民の娘と結婚なんて。
しかし、ローリー家は金融業で大成功した家だ。
彼女の持参金は相当なものになるだろうし、それに、上昇志向の当主アダムズはいずれ爵位を得ようと画策するのだろうから、うまくいけば晴れて上流階級の仲間入りだ。
そう思えば、現在の家の格の問題などは些事である。
今日は、当主アダムズの誕生日パーティーだ。
ローリー家と我が家には先代からの繋がりがある。
なんでも、軽装で領地を散歩していた折に突然の暴風雨に見舞われた祖父に、それが領主の嫡男と気付かぬままローリー家が屋根を貸してくれたそうなのだ。
その時から祖父はあの家に感謝していて、アダムズの父が金融で起業するという話を聞くや否や真っ先に援助を申し出たのだという。
その祖父が亡くなった今でも、家族ぐるみで親しくしている。
義理の父になるかもしれない相手だから、「今日はアダムズの機嫌を損ねないようにしなさい」と父は言った。
昨今、アダムズは妻ルビーの不倫を疑っていて、ピリピリしているのだとか。
探偵でも雇えばいいと父は助言したが、アダムズは体面を気にして首を縦に振らないらしい。
母は「ルビーに限って、そんなふしだらな真似は致しませんよ」と取り合わない。
しかしそれは、母が舞台女優であるルビー・イヴリンの大ファンなので盲目的に彼女を信じているだけなのではないかと昨晩弟と話した。
母や守役の手に守られている屋敷ならともかく、学校ではゴシップ紙などを友人から借りたり、自分で買ったりして読み放題なのだ。
舞台関係者が、役柄の熱量に引きずられて恋に落ちる話など、よく聞く話である。
風と雨が、馬車の窓を叩く。
西の湖畔に、赤いレンガ造りの邸宅は建っている。
この町の建物は大多数が琥珀色の石造りだから、明るい日中に見るとローリー家の屋敷は非常に目立つ。
建物も、権威も、栄光も、何もかも歴史は浅いのだが、現在の家業の繁栄ぶりを遺憾無く見せつける異色の屋敷だ。
洒落た鉄の門を通り、整備された庭を抜ける。
あいにくの雨だが、馬車の窓越しにも、屋敷の全ての窓からの煌々とした灯りは窺えた。
今日は、自分達の他にも特に親しい従業員達が招かれたと聞いている。
屋敷の玄関で馬車を停める。
御者が扉を開けて踏み台を用意し、従僕が大きな傘を差し掛けた。
その向こう、ポーチに立っているのは、燕尾服を着込んだローリー家の執事だ。
「この雨の中、ようこそお越しくださいました」
恭しく礼をした彼の手を取り、長いドレスの母が馬車を下りる。
それから父が、そして自分と弟が馬車を下りた。
従僕は傘を閉じて、もう一台の馬車から数々の手土産を下ろしにかかる。
「やあ、アーロン。もしかしてわたし達が最後だったかな。外で待たせてすまなかったね」
「不慮の事故でもあったかと少々心配いたしました。さあ、どうぞこちらへ」
「……ねえ、兄様。執事なんかに任せないで、アダムズおじさんがお父様を出迎えるべきではないですか?」
小声で弟が呟いたので、周囲の大人達に露見しないよう、細心の注意を払って頭を叩いた。
弟は不満そうに此方を見上げる。
「兄様はいい子ちゃんすぎる……」
「こんなところで言う奴があるかよ。聞こえたらどうするんだ」
「ちぇっ。そうだ、アダムズおじさんが探偵を雇わない理由ですけど、学校で友達から聞いたんですよ」
「何だよ。……お前、そういうのは家で言えよ。此処では口に出すな」
「いい子ちゃんでいたいから? お父様とお母様に褒められたいから?」
「ああそうだよ、そういうことでいいよ。ほら行くぞ」
「最高に面白い話なのに」
「なおさら昨日の夜に言えばよかっただろ」
「今思い出したんですよ」
「二人とも、何をしているの。早くいらっしゃい」
母の声が聞こえて、弟と揃って返事をする。
広間に駆け込むときふと二階を見上げると、子供部屋の窓から赤毛の少女が此方を窺っているのが見えた。
「あのね、兄様」
「うるさいな、後にしろ」
弟が袖を引いて自分を屈ませ、耳元で囁いた。
「アダムズおじさんも、浮気をしているんですよ。だから、探偵を雇って自分のボロが出るのが怖いんだ」
「……ブルネットの、髪の短い女の話だろ」
「ひぇっ、知ってるんですか!?」
「知ってるよ。二人がルビーさんの舞台の初日にレストランで密会した後、ホテルに行ったことも知ってる」
「僕より詳しい!」
「当たり前だ、お前のお兄様だぞ、僕は。ほら、行こう。お父様に叱られる」
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