燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
Special.私の全て
「お? 何だこれ」
ティキの目に飛び込んできたのは、廊下に落ちている一冊の本。
花とリボンが描かれたピンクの裏表紙を、世間一般並の常識に照らし合わせる。
「ロードのか」
ティキはひょいと屈んで、それを取った。
どうやら本ではなく、日記のようだ。
表に返すと、ティキには到底書けそうもない美麗な筆記体で題が書かれている。
『伯爵様日記』
バサッ
思わずティキは日記を取り落とす。
全身から血の気が引いた。
気がした。
「えーっと……これはその……あれだよな、つまり……」
題名は『伯爵様日記』
「……」
『伯爵様日記』
「……マジでか……」
誰が書いたかなど考えるまでも無いことで、とりあえずロードでは無いのだが、寧ろロードであってくれたらどれだけ嬉しかったことか。
などともんもんと考えるティキであったが、ふと我に返ってもう一度日記を拾った。
見過ごしたことがばれたら恐ろしい。
色々な意味で、もう自分が自分ではいられない。
ティキは異様にファンシーなその日記を手に、見た目にはほんの少し、内心はそこはかとなく怯えながら、ミザンの部屋を目指した。
ドアの前でごくりと唾を呑む。
部屋の主の心情をよく表した、氷漬けのドア。
「……ないない、これはない」
ばっとドアに背を向けて、ティキは座り込んだ。
「待てよ待てよ……! こりゃねーよ、何、そんな怒ってんの? 自分で落としたんじゃねーのコレ」
肩越しにドアを振り返り、再び逸らす。
「いやいやいや」
なんて恐ろしい。
「てか質悪ぃ……」
ティキは立ち上がって日記を見つめた。
「俺はやれる、俺はやれる……といいな」
絶望的な願望を口にしつつ、ドアをノックした。
コンコン
一体どうやってこのドアを開けるのか。
そもそも中に音は届いているのか。
甚だ疑問だが、ティキはドアが穏便に開くことをただただ祈った。
やがて。
氷が瞬時に融け、まるで蹴破られたように勢いよくドアが開いた。
ティキは思いきり後退り、向かいの壁に張り付いた。
「日記!!」
叫びながら、つかみ掛かりそうな勢いで飛び出して来たのは、他でもないミザンである。
長い髪を振り乱し、白衣は肩からずり落ちそうになっている。
ネクタイに至っては、蝶の飾りのついたタイピンで、辛うじてシャツに留まっている状態だ。
「……何だティキですか……」
「人ビビらせといてそれはねーよな……」
急に失望したように声を落としたミザンは、呆れた溜め息をついて部屋に戻ろうとする。
ティキは慌てて引き止めた。
「ちょっとちょっと、俺用が……」
「大変忙しいので貴方の戯れ言に付き合っている暇はありません」
「戯れ言とか言うなよ。つーか何やってんの」
後に続いて、凍えそうなほど冷え込んだ部屋に踏み入る。
ミザンが絶対にティキを見ないようにしながら部屋を見回した。
「崇高なる捜し物です」
「へぇ……捜し物……」
ティキは後ろ手に持つ日記をそれとなく隠した。
「ええ、私の全てが晒け出された大切なものなんですが……昨日から行方不明なんですよ」
ミザンの全て。
何となく、見てみたいような気がしないこともない。
でも何となく、見ずとも分かる気がする。
「あぁぁ一体何処に行ってしまったんでしょうか……まさか! 私の手を離れあの方の元へ!?」
一人騒ぎ出したミザンの肩をポンと叩く。
ミザンは心底不満そうだ。
「全く、何なんですかティキ。そんなに構ってほしいんですか」
「違うって。誤解しないで欲しいんだけど……その……」
日記を差し出す。
「コレだろ? 捜し物」
ミザンが固まった。
ティキはそっと表情を窺う。
わなわなと震える指で、ミザンはティキを指差した。
氷柱が何本も形成される、物騒な音が聞こえた。
「お……お前か……!」
「だから誤解すんなって」
ミザンは氷柱の一本を手折り、その先をこちらに向け、叫んだ。
「誤解も何も無いですよ! 私の全てを読んでしまった以上生かしてはおけません!」
「何その理不尽な論理! てかホント誤解だから! 俺は拾っただけだから!」
片眼鏡(モノクル)が光る。
「問答無用!!」
「ちょっ、ま……うおぁぁぁぁ!!」
091021