燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
69.剥製のなみだ
毎朝、新しい一日に感謝すること。
糧となるため奪われた命に、感謝すること。
太陽の温もりに感謝すること。
熱を和らげてくれる雲に感謝すること。
恵みの雨に感謝すること。
自然の安らぎ、生きとし生けるもの、隣に生きる人。
全てのものに感謝すること。
そして、毎晩、一日の生に感謝すること。
神の導きによって廻る世界に、感謝すること――
どこにでもある、日暮れの商店街。
漆黒を再び手にした少年が、フードに隠れて顔を上げたとき、既に厳かな空気は周囲に漏れ出していた。
震える彼の手が、ぎこちなくフードを下ろす。
頭頂に引っ掛かったその布地が、頭の動きに合わせて背中に落ちた。
隣を歩いていたクロスは、気圧されそうになりながら口を開く。
「……いるのか?」
が頷いた。
クロスは眉を顰め、周囲を見回す。
すると、どうだ。
この胸のローズクロスに、明らかな反応を見せた「ニンゲン」がいた。
皮が剥ける。
通りすぎる人間達の悲鳴。
それを切り裂くように、クロスの傍らで一発の銃声が響いた。
「断罪者」を構えて弟子を守る素振りさえ間に合わなかった。
忌むべき黄昏に染まる背中は、小さい。
武器の重たさに引きずられるように細腕が下ろされる。
けれど、澄んだ漆黒の瞳を黄金色に包んで伏せながら佇むその姿は、とても幼さを感じさせなかった。
壊れ、崩れた機械の塊を遠目に眺めて、が呟く。
「――主よ、彼らに赦しを」
クロスは思わず目を瞠った。
「おい、」
振り返りながらフードを被った弟子は、クロスを見上げて首を傾げる。
「なに?」
驚いたのだ。
この旅の途で、彼が初めて神の名を口にしたことに。
教会を囲み、墓を尊び、祈りの鐘を名に冠した、あの村。
幼い頃から刷り込まれるように、何の疑問もなく受け入れてきた神への感謝。
けれど、彼はあの日から神の名を呼ばなくなった。
教会に立ち寄ろうが、誰かの墓を前に祈ろうが、神の名だけは口にしなかった。
――そんな少年が、今、神に何を祈るというのか
「その、何だ。今のは」
「……ちゃんと、言っておかなきゃ、と思って」
舞い上がった埃に、日の光が反射している。
テーブルの上から真新しい煙草を摘み、クロスはそれに火を点けた。
目を細めて、高く昇った日を眺める。
そうして、深く煙を吸い込み、一息に吐き出した。
振り返ってベッドの上に目を遣ると、ようやく眠りについた弟子の姿があった。
やっと。
やっと、だ。
クロスが酒を飲んでいる間も、ベッドに入って少年を片腕に抱き締めても。
目を閉じたの寝息が一向に聞こえないことに、クロスは気付いていた。
カーテンの隙間から強い日差しが差し込み、眠い目を瞬いたクロスが空腹を感じ始めた頃。
やっとのことで、力尽きるように、少年の体から不自然な力が抜けた。
「(クソガキが)」
両腕で小さな体を抱き締め、落ち着き始めた呼吸に合わせて背中を擦ってやる。
少年の呼吸が深いものに変わるのを待って、ようやくクロスはベッドを抜けたのだった。
眠れなくなった子供の扱いには、未だに手を焼いている。
あと一時間もすれば、また目を覚ましてしまうだろう。
今日もふらつきを堪えながら歩くのだろう。
「(……馬鹿な奴だ)」
ベッドに腰掛けて黄金色を緩く撫でる。
彼の震える吐息が、空気を揺らす。
青ざめたその唇が、紡ぐのだ。
――神様に。赦してあげて、って――
――言っておかなきゃと、思って――
嘗て無邪気で、無垢で、敬虔だった信徒が、神への不信もあらわに紡ぐのだ。
あんまりじゃないか。
囚われた魂が罪を強いられているのだとしても。
その行く末を、お前が案じる必要は無い、なんて。
クロスは、とても言えない。
まだ長い煙草を、灰皿に押し付ける。
執拗に何度も押し潰して、粉々になった煙草の葉が灰に紛れて散らばって、なお。
捩じ切るようにもう一度、灰皿に押し付けた。
腰を上げて灰皿を遠ざけ、布団を捲る。
ただそれだけの事で、がびくりと体を震わせた。
「……っ、ん、ししょ……?」
「もう少しそっち行け」
「あさなら……おきなきゃ……」
「うるせぇ、もう一眠りするぞ。ほら、そっち行けっての」
強引にベッドに押し入り、眠気に覆われ焦点の合わない瞳を体で包み隠す。
胸に額を押し付けて抱き締めてやれば、少年はすんなりと静かになった。
ゆるゆると動いた小さな手。
「(しょうがねぇな)」
クロスは眉を下げて溜め息をついた。
次に起きたら、髪を掴むことだけはやめろと言わねばなるまい。
唇が緩やかに弧を描く。
それに気付かぬまま、クロスは目を閉じた。
(主人公10歳)
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