燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









68.林檎









「師匠師匠、ねえ師匠」

がクロスの袖を引いた。
下方に引っ張られて、駅へと向かう足を強引に止められる。
見下ろせば、フードの下から大きな瞳がクロスを見上げていた。

「三回も呼ぶな、欝陶しい。何だ?」
「ねえ、あれ何?」

弟子の指の先、立ち並ぶ店の一つを見る。
果物屋のようだ。

「あれってどれだ」
「あの赤いの」
「赤……?」

クロスは目を細めた。
店先に並ぶ木の箱に収められた、様々な果物。
多くの品が並ぶ中、意外なことだがの言った色は一つしか無かった。
クロスにはこの果物を知らない人間が居ることが信じられず、半信半疑でに問う。

「林檎だ、知らないか?」
「りんご……えっ、お姫様が食べて、死んじゃう……あれ?」
「そうだ」
「え、そんなあぶない物売って大丈夫なの……?」
「ありゃあ毒を塗ったって話だったろ。……なんだお前、食べられないと思ってたのか」

が頷く。
クロスは思わず頭を抱えた。

「おいしいから、お姫様も食べたくなったの?」
「まあ、そういうこったな」
「ふうん」

そして思い出す。
彼の育ったプレイベルという村は、かつて戦場だった場所だ。
生き残った兵士達が寄り集まって作った小さな村。
村の中にある物は限られていて、社会の常識も特殊、少し時代遅れの感もあった。
それでも父親が首都で働いていた分、はまだ物をよく知っている方だったはずだ。
見たことのない果物、見たことのない動物。
子供の想像力は豊かで、空想が知識を簡単に補っていく。
しかし、実在するものは本物を知っておいても良いだろう。
ましてや、知識がないがゆえに物語の流れを誤解しているとなれば。
クロスは溜め息をついて店に向かう。
店主らしき中年女性を口説き落とし、タダ同然で林檎を一つ買った。

「ほら」
「いいの?」
「林檎は知っとけ」

はじっと林檎と見つめ合う。
いつまで経ってもそうしているので、見かねてクロスは言った。

「……そのまま皮ごと食っていい」
「そのまま……」

鸚鵡返しに呟くと、何を思ったか、は開けられるだけ大きく口を開ける。
そしてそのまま林檎に立ち向かった。
顎が外れそうだし、そのまま後ろに倒れそうになっている。
クロスは慌てて手を伸ばし、背中を支えた。
もっとも、体の使い方が上手いこの金色は、バランスを崩すということがほぼないのだけれど。
フードだけが彼の背中にぽすんと落ちてきた。

「待て待て! 何する気だ」
「ほへ? だって今、そのまま、って」
「誰がそのまま丸呑みしろって言った?」

きょとんとこちらを見上げる
まったく、融通の利かないやつめ。
クロスは溜め息をついた。

「かじればいいだろうが」
「あっ、そっか」

再びと林檎は見つめ合った。
ややあって、少年は躊躇いがちに赤い果実に歯を立てる。
小気味よい音がした。
もぐもぐと噛み締めて、彼は目を瞠る。
果実を頬張ったままクロスを見上げる漆黒が、きらきらと光を纏う。
頬が見る間に持ち上がって、クロスは満面の笑みに正面から当てられた。

「……おいしい……!」

空気が周囲に染み渡る。
空気が、喜んでいる。
通り過ぎる人々が、足を止めて周囲を見回す。
誰もが一度は金色に目を止める
そして、誰もが少し浮かれた表情で軽快な足取りで歩き出す。
張本人は集まってくる視線を気にも留めず、もう一度林檎に口を付ける。
しゃくっ、瑞々しい音の後で、言葉にならない歓声が閉じた口の奥から聞こえる。
そこまで喜ばれるとは思っていなかった。
クロスはつい笑ってしまう。
がぱちぱちと瞬きをするので、誤魔化すようにその頭を軽く撫でた。

「美味いか」

手の中で金色は大きく頷いた。









(主人公10歳)
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