燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









67.箱庭









部屋に入って暫くすると、扉が軽くノックされた。
マリは療養、チャオジーは今日も鍛錬をしているはず。
残念ながら神田の可能性は、ほぼない。

「誰だい?」

尋ねる直前、扉の向こうから、ぐんとのしかかるプレッシャーを感じた。

「(ああ、)」
「こんにちは、です」
「(そうだ、君しかいない)」

ティエドールは笑った。

「入りなさい」
「失礼します」

扉を開けたは、照れたように微笑いながら部屋に入った。
そのまま入口で立ち止まっている。

「どうした? 私の部屋へ来るなんて、珍しいね」
「ちょっと、お尋ねしたいことが」
「うん?」
「元帥は、体内の絵も描けますか?」

思わず目を泳がせる。
けれど彼の瞳からは逃れられずに、結局を見つめ返した。

「えーっと……何でそんなのが見たいか、聞いてもいい?」
「訳してた文献の記述が曖昧で……参考になるものが、欲しいんです」

頬を掻き、ティエドールは唸った。

「彼らに聞けない?」
「それが、科学班も医療班も……」
「てんてこ舞いか」

ダメですか?
心底困ったように、漆黒がこちらを見上げる。
ティエドールは溜め息をつき、鉛筆を手にとった。
ベッドに座り、彼に隣を促す。
が腰を下ろした。

「専門じゃないんだが」
「ありがとうございます」
「うん。だから、特別にね」

いつか見た図を思い浮かべながら、紙に鉛筆を走らせる。
喉から、身体の中へ下っていく二本の管。

「まず、気管と食道。それぞれ、空気と食べ物の通り道だ」
「別なんですか?」

滅多に見られない驚いた表情に、くすりと笑みを零した。

「ほら『噎せる』って言うでしょ? あれはね、食べ物を通す道を間違えているんだ」
「……食べ物が……気管に、入る……?」
「そうそう」

気管に続き、気管支、肺を描いていく。
しかし、こんな専門的なものを素人に訳させるなど、科学班の怠慢もいいところ。
忙しいのは分かるが、三班体制になったのだからそれくらい手は回せるだろう。
は主に神話や伝説、童話や昔話翻訳の担当ではなかったか。
そうでなくても最近の彼には、心身の安静が大事だというのに。

「それは?」
「これは気管の延長、気管支ね。この二つが肺。息をする所だよ。で……」

その真ん中に、鼓動を生み出す器官を描き込もうとして、ふと手を止める。

――何を、聞かれているのだろう


「はい」
「……嘘、ついた?」
「はい」

顔を合わせない二人。
時間だけが過ぎていく。
ティエドールは溜め息と共に、手から力を抜いた。
そう、彼には心身の安静が大事なのだから。

「あのね、
「やめないで!」

は叫ぶように声を上げてから、あ……、と気まずそうに俯いた。
全くと言って良いほど、普段の彼らしくない。

「どうしたんだい?」

優しく声を掛ければ、震えた肩に気付く。

「……だって、スーマンも、……アレンも、クロウリーも、」

――皆、見えるんです

ぽつり、落とされる言葉。

「俺……自分のイノセンスの形、知らなくて」

上げられた横顔は、いつものように微笑を湛え、睫毛の影を頬に乗せていた。

「『壊れる』とか、『失くなる』とか言われても、よく分からなくて……」

どうして、――いつもそうやって、笑うから。
ティエドールは、ぐっと拳を握った。

「(気付けないじゃないか……っ)」

目に見えないものへの、純粋な恐怖。
得体の知れないものが、自分の体内で壊れゆくことへの、当然の恐怖。
今まで露呈しなかったことのほうが、不思議でならない。
否、は感じていたのだろう。
ただ、彼はその感情の名前を知らず、誰にも聞けずにいただけだ。
そして誰にも悟らせなかった。ただ、それだけだ。

「コムイとか、ドクターとか、婦長には、聞きづらくて」
「私なら騙せると思った?」

問えば、微かな首肯が返ってきた。

「……本当は、長官に聞こうと思ったんですけど……今は中央庁に居るから」

ごめんなさい。小さな謝罪に、溜め息をつく。
鉛筆を執り、紙を裏に返した。
手の震えを紙に伝えないよう、奥歯を噛み、柔らかく、強く、線を描いていく。
彼はもう、子供ではない。

「()」

曖昧な想像の先に、光の見えない世界が広がっていたとしても。
信じているから。

「一度しか言わないよ」
「……っ、ありがとうございます」
「うん。だから、特別にね」

君ならば、光を見出だせるかもしれないと。
信じているから。









(本編軸)
180714