燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









66.黒翼のニケ









聖堂の入り口で壁に背をつけ、冷たい床に膝を抱えて座り込み、もうどれほど経ったろう。
リナリーは鼻を啜って、顔をいっそう強く腕へ擦り付けた。
何も、果たせなかった。
誰も、救えなかった。
入り組んだ町で起きていた奇怪は、蓋を開ければアクマの仕業だった。
調査の任を帯びて行った筈のその地で、突然、破壊任務に切り替わったのだ、なんて。
言い訳は、出来ない。
リナリーは泣き腫らした瞼を開け、恐る恐る顔を上げた。
眼前に並ぶ五つの棺、その全てが。
全てが、リナリーと共に旅立って、任地で砂と果てた探索部隊達のものだった。
ごめんね、なんて口に出来ない。
皆、知った顔だ。
皆、リナリーに優しくしてくれた。
皆、リナリーの世界だった。
込み上げてきた嗚咽を、伏せた顔と膝頭で押さえ込む。
遠くから聞こえてくる慌ただしい靴音と、荒い息遣いが、余計に身を竦ませた。

「はあっ、はっ、はぁ……」

駆け込んできたその人が、誰なのか。
顔なんか上げずとも、声なんか聞かずとも、分かる。
大きすぎる悲しみと悼みが、怒濤のように押し寄せてきていたから。
それはリナリーの感情でもあり、彼が今支配した空気の色でもあって。
リナリーの真横、入り口で足を止めたが二度、大きく息を吸った。
それだけで世界は、凛と静まり返る。が一歩、二歩と踏み出した。
それだけでいつもと変わりないこの広い聖堂は、厳かで貴い空間に書き換えられる。
彼の靴音、衣擦れ、木の板を優しく擦る音。

「……おかえり」

囁かれた、声。

「頑張ってくれて、ありがとう」

リナリーは顔を上げる。
涙が頬を滑り落ちた。

「赦すよ」

そして彼は立ち上がり、隣の棺の傍で屈み込む。
棺に手を当てて、優しく微笑んだ。

「おかえり……」

声の調子が、先程とは僅かに違う。
そうしては五人の棺へ弔いの言葉を語りかけ、祭壇へ向かって膝をついた。

「主よ、……彼らに赦しを」

声も音もなく、の背中を見つめて涙を零すリナリーの耳に、新たな足音が飛び込んでくる。
早足で聖堂へ入った白い服の集団。
彼らの正体を察した瞬間に、リナリーはつい、顔を伏せた。
四人の探索部隊は聖堂の中ほどで立ち止まった。

様、間もなく出立です」
「……うん、分かった」

が立ち上がる音がする。
けれど歩き出す気配はない。
それは探索部隊達も同じだった。
否、探索部隊が歩き出さないから、彼は動かない。
皆が躊躇いがちに唾を飲み込んでいるから、だからも歩き出さない。
彼は言葉を促すように、恐らく、淡く微笑んだ。
隊長が声を絞り出した。

、私は、怖いです」

震える息を吸い込む音がする。

「ぼ、僕も、行きたくないです」
「だって、こんなに、しん、……死んだ場所に」
「私たちも、死ぬかもしれない……っ」

そうだ。
これからと彼ら探索部隊は、リナリーが失敗した任務を引き継ぐのだ。
此処にいる探索部隊だって、棺の中にいない五人だって、皆が覚悟していた。
それはそうだ。
教団を離れて任務に赴く者は皆、覚悟している。
けれど、だからといって、差し迫るその恐怖が消えるわけではない。
そんな思いを、家族に味わわせてしまった。
そんな思いの中で、死なせてしまった。
リナリーは目を上げる。
金色と白、彼らと自分を隔てるように、五つの棺が此方を見ている。
私だけ、帰ってきた。
私だけが、命に傷を負わなかった。
また溢れ出る涙の向こうで、がゆっくり微笑んだ。

「辞退しても、いいんだよ」

一人で、片をつけてくるから。
そう続ける彼に、探索部隊達は俯けていた顔を上げる。
そうしてくれたらありがたい、否、貴方だけ行かせるなんて。
相反する想いで彼らが葛藤している事なんか、この人はきっと見透している。

「でも、もし着いてきてくれるって言うなら、誓うよ」

その上で、彼は漆黒に鋭い光を宿して、探索部隊を見回した。

「神でも仏でもなく、此処に並ぶ棺に誓う。……必ず、貴方達を守ってみせるって」

知らぬ間に薄く開いた唇から、魂が引き抜かれるかのように。
蝋燭の灯りに輝く黄金色へ、吸い込まれる。
リナリーは、もう一度、棺へ目を移した。
神の手で、神格の更に上へ押し上げられた彼らの棺が、また涙で歪む。
けれど。
リナリーはぐいと拳で涙を拭った。
それでも零れてくる涙を、何度でも拭った。

「お、……俺っ、舟の最終チェックしてきます!」
「僕は、予備の結界装置を貰えるか聞いてきますね!」
「待って、私も行く!」
「地下で待ってます。、貴方もお早く!」

探索部隊達がリナリーの横を駆け抜けていく。
最後に残されたが、此方に歩いてきた。
涙目と漆黒が、見つめあう。

「あんまり擦ると、腫れちゃうよ」

リナリーは頷く。
が微笑んだ。

「一人で、彼らを見送れるね?」

リナリーは、頷く。
途端に彼がすぐ傍で屈んだ。
右腕がリナリーの頭を抱き寄せ、耳許で、震える声が囁いた。

「生きていてくれてありがとう。……無事で良かった」

温もりはすぐに離れて、彼は歩き去っていく。
リナリーは零れた涙をもう一度だけ拭って、立ち上がった。









(主人公17歳)
170503