燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
※幼少期の友達の一人、サーシャの話
65.星の王子と月の姫君
「サーシャ、そろそろ行くわよ」
ママの声にお行儀よく返事をする。
持っていた本を閉じて立ち上がり、すぐ自分の失敗に気付いちゃった。
どこまで読んだのか、しおりを挟んでおかなきゃいけなかったのに。
役目を忘れられたしおりは、あたしがずっと膝の上に置いていたの。
お誕生日にが作ってくれた、パンジーの押し花。
「むらさき色のパンジーの花言葉はなに?」
三歳上のお姉ちゃんは、ちょっと目を輝かせて、それからとっても悔しそうな顔をした。
「って、サーシャのこと大好きなのね」
あたしの村には、色んな掟がある。
掟っていうのは、守らなきゃいけない約束のこと。
お墓で遊んじゃいけない。
死んだ人を村人みんなでお墓に埋める。
北の崖には近付かない。
毎朝毎晩お祈りをする。
毎週のミサに、特に毎月一度の決められたミサに必ず出る。
それから、将来「ケッコン」する人を子供のうちに決めること。
「パパは小さい頃からママと仲良しだったよ」
パパはそう言って、目を細くして笑ってた。
パートナーと気が合うかどうかは、人にもよるみたい。
たまにケッコンしない人もいるから、きっとそういうこと。
あたしのお姉ちゃんはどうなんだろう。
お姉ちゃんはトーマスのお兄ちゃんとよくケンカをしてる。
ママは、ケンカするほど仲が良いって言うんだけど、二人とも、もう何度も取っ組み合いをしてるの。
でもそのたびに仲直りをするんだから、やっぱり本当は仲良しなのかな。
「は幸せよ。こーんなに可愛いサーシャの、おムコさんになるんだから」
ママはにっこりして、よくそう言ってくれる。
でもあたし、知ってるの。
「サーシャは幸せだ」
村の人がみんな、そう言ってるって。
の「おヨメさん」になる、あたしのことを。
は、丘の上のお家に住んでいる男の子。
みんなって呼んでるの。
いつもみんなの中心にいて、いつも元気で、いつもにこにこしてる子。
女の子みたいに可愛い、ううん、もしかしたら女の子たちより可愛いかもしれない。
あたしとは一つしか変わらないはずなんだけど、たまにうんと年上に見えるときがある。
例えば、あたしのお姉ちゃんとトーマスのお兄ちゃんは同い年だけど、お姉ちゃんの方が年上に見えるでしょ。
は、あたしのお姉ちゃんより年上みたいなときがあるんだ。
なんでだろう。
本をよく読んでるからじゃないかな、ってあたしは思うの。
のお家には本がたくさんある。
それも、絵本とかおとぎ話集の何冊分にもなる分厚いやつ。
「辞書っていうんだよ」
いつだったか、にこにこしながら教えてくれた。
見せてもらったけど、文字がいっぱいで目が回りそうだった。
でもは、けっこう楽しそうに読んでるの。
「おもしろいの?」
「おもしろいよ。これで、父さんと遊んでるんだ」
お父さんからのお手紙を読むときに使うんだって。
そう、は字も上手。
大人の人よりきれいな字を書くんだよ。
あたしもママとパパに字を教えてもらってるんだけど、なかなかうまくいかない。
のおヨメさんになるのに、字をきれいに書けないのは恥ずかしいからね。
これからもっと練習しなきゃ。
のお家ほど本がある家はないし、そんなにたくさんの本を読んでいる人もいない。
だからか、は本のお話しができると、とっても嬉しそう。
あたしはに本を借りて、たくさん読むようにしてる。
読み終わるたびに、二人で感想を話し合うの。
いろんな話をするよ。
魔法使いはみんなを助けてくれる訳じゃないのね、とか。
ずうっと昔にいたはずの、恐竜たちの時代に行ってみたいね、とか。
オオカミとキツネばかり悪者になるのは可哀想、とか。
王子さまを助けるお姫さまはいないのかな、とか。
その時だけは、あたしはをひとりじめにできる。
その時あたしは、どんなおとぎ話のお姫さまより、しあわせな女の子になる。
あのたくさんの本の持ち主は、のお父さん。
あんまり会ったことがないんだけど、村の大人の誰よりもハンサムなの。
一人だけ大きい町で働いているからか、他の人とはちょっとだけ雰囲気が違うんだ。
たまに赤い髪の大きな男の人を連れてくる時があって、はそのたびに嬉しそうに話をしていた。
「あたしも会ってみたいな」
そのくせ、あたしがそう言うとは難しい顔をして眉毛をぐっと寄せる。
「会わない方が、良いと思うなぁ」
「どうして?」
珍しく、川向こうのいじめっ子みたいなことを言うから、あたしも悔しくて重ねて聞いた。
はうううんと唸って、考える。
ほんとは分かってるんだ、が意地悪なんてするはずないって。
きっと、なにか理由があるの。
「おじさんって……女の子好きだから。それに本当に変な人だけどたまに、たまーにかっこいいから……」
サーシャがおじさんのこと好きになったら、いやだな。
彼が最後にぽつりと呟いた言葉が、なんだかそわそわするくらい嬉しくって。
あたしは落ち着かない気持ちになって、髪を指に絡めてみたりした。
のお母さんは村で一番きれいで、絵本の挿絵にあるお姫様みたいな人。
それに、とっても優しいの。
病気でベッドにいることが多いけど、遊びに行くといつもあたしを傍に呼んでくれる。
「おいで。髪を結ってあげる」
あたしの髪はとものママとも違う白っぽい金色。
もう少しで銀色みたい。
まっすぐで、すぐに指の間から流れていってしまうから、ママでも結ぶことが出来ない。
でものお母さんは、魔法みたいな手つきで三つ編みにしてくれるんだ。
「あたし、のママみたいにふわふわでくるくるの髪がよかったな」
ある日そう言ったら、のお母さんはきょとんとあたしを見つめた。
その顔、とそっくり。
「サーシャの髪だってとっても綺麗よ。こんなにさらさらな髪は、初めて見たもの」
たまに、のお母さんはいたずらっ子の顔をする。
そういう顔も、とそっくり。
「不思議ね。皆がちょっとずつ違う、素敵なものを持っているんだわ」
はあたしと一つ違いのの妹で、あたしの一番のお友だち。
とトーマスの二人と同じくらい、あたしたちも仲が良いと思う。
女の子のお友だちは他にもたくさんいるけど、と遊ぶことが一番多いし、楽しい。
あたしはあんまりおしゃべりじゃないけど、の話を聞くのは楽しいし、おしゃべりもわくわくする。
はたまにわがまま。
でも、実はすっごく人のことを見てるんだよ。
悲しいことや嬉しいことがあったりすると、最初に気付いてくれるの。
「サーシャ、何があったの? あたしにおしえて!」
そんなときは、あたしも珍しくおしゃべりになって、は珍しく聞き上手になるんだ。
あたしはのことが、大好き。
でも、この子はの「一番」なんだって思うと、どうしようもなく嫌な気持ちになる時がある。
あたしだってお姉ちゃんが好きだから、二人もおんなじことを思っているかもしれない。
「大きくなったら、もトーマスが一番になるわ。も、サーシャが一番になるわよ」
ママが明るくそう言ったから、あたしはその日をずっと待ってる。
と遊ぶときは大体とトーマスが一緒。
女の子だけではやらない遊びもたくさんするの。
雪がとけたら、二人が木登りも教えてくれるんだって。
追いかけっこもするし、探検にも行く。
みんなで新しいものを見つけて、泥だらけになって帰るのはとっても刺激的。
アンナおばあちゃんが作ってくれるおやつも大好き。
草むらに転がってクッキーを食べるのは、本当はお行儀が悪いからだめなんだけど。
あたしたちだけの秘密なの。
が怒ったところを見たことがあるって言ったら、女の子たちはびっくりする。
うそ、って。
はいっつもにこにこしてるよ、って。
でも本当だよ。
川向こうのいじめっ子たちが、あたしの髪を引っ張ったり、を突き飛ばしたりしたとき。
はすごく怒ってた。
怒って、一人で橋を渡って、走ってきた勢いのまま、いじめっ子のリーダーをひっぱたいた。
「やり返されないと思って、やったんだろ」
怒鳴ったわけじゃない。
だからかな、よけいに、すっごく怖くって、あたしたちの涙もぴたりと止まった。
「二人は優しいからやり返さないんだ。二人の代わりに僕がやり返す。悔しかったらかかってこい!」
それからは、大変だった。
は年上のいじめっ子三人に一人で立ち向かったの。
いじめっ子の手が伸びてくるのを素早く避けたり、ところどころで反撃したり。
そうはいっても、彼はトーマスよりも細くて、小さくて、あたしと同じくらいの背丈しかない。
だから最後には地面に引きずりたおされちゃった。
殴られる! と思ったところでトーマスが大人を呼んできたんだ。
次の日のは、ほっぺにも腕にも足にも色んなところにあざと傷をつけていた。
ごめんねを言うにも、ありがとうを言うにも、涙が出そうだった。
だって、本当は怖かったんじゃないかな。
そう思っていたけど、本人はなんだか不満そうにむくれていた。
勝てなかったのが悔しいみたい。
意外と負けず嫌いなんだよね。
「もっと早く気付けなくて、ごめんね。怖かったでしょ」
「ううん……」
に謝られることなんて、何もない。
あたしは笑いながら泣く。
泣きながら笑う。
「うん、怖かった。助けてくれて、ありがとう、」
あたしとの王子さまは、照れくさそうににっこり笑った。
ちなみに、あの後であたしとはトーマスに叱られたの。
何ですぐ逃げなかったの? って。
「危ないだろ。一番怖い目にあうのは僕らじゃない、二人なんだよ」
二人だけでは川向こうに行かないって、約束までさせられた。
トーマスはお家では弟なんだけど、あたしたちにとっては立派なお兄ちゃんなんだ。
が泣いてるところも、見たことがある。
これはあたしだけの、秘密。
去年、のお母さんが死んじゃったとき。
あたしとお姉ちゃんはパパとママに連れられて、のお家に行ったの。
村の人たちはみんな集まって泣いていた。
ママはトーマスのママと泣いてて、パパはのお父さんを慰めようとしてた。
部屋の隅には、赤い髪の男の人。
のお父さんは声が枯れるほど泣いて、もに抱き締められて泣いていた。
あたしも、ぽろぽろ涙がこぼれてきた。
だって、もうあたしの髪を三つ編みにできる人はどこにもいない。
ととお父さんをお家で待っててくれる人が、いない。
お姉ちゃんが、あたしをぎゅっと抱いて、顔を隠してくれた。
あたしはすがり付いて、でも声をあげないように泣いた。
一番悲しいのは、と、と、二人のお父さんだから。
「……って、泣かないのね」
お姉ちゃんが、頭の上で小さく呟いた。
次の日、村のみんなで「オソウシキ」をした。
あたしは黒い服を着せられて、のすぐ近くに立っていたの。
式の間じゅう、は一度もあたしたちに話しかけてくれなかった。
もっと驚くべきことに、誰かが、例えば駅長さんとか村長さんとか、ママとか、トーマスのお母さんとか。
誰が話しかけても、彼は返事をしなかった。
「そうよね、それだけ悲しいんだわ……」
ママはそう言った。
「悲しいなら、涙を流すんじゃないの?」
お姉ちゃんはそう言った。
ママが、いいえと首を振る。
その言葉の続きを待たなくても、あたしは見てしまった。
俯いたの横顔に落ちる影。
真っ白なくちびる。
白目の真っ赤なこと。
あたしは――
――あたしはその日、知ったんだ。
人間は、涙を流さないで泣くときがあるんだって。
ほっぺたが濡れていないときだって、悲しいものは悲しいんだ、って。
何で涙が流れないのかは分からないけど、その時のははち切れそうな目をしていた。
悲しいんだけど、の「お兄ちゃん」としてしっかりしなきゃ、って考えているのかも。
だから、悲しい気持ちを押さえ込んで、はれつしそうになっているんじゃないかな。
帰るとき、真新しいお墓をぼんやり眺めてるに、何か、言ってあげたかった。
でもその時のあたしには、何て言葉をかけてあげたらいいのか分からなかったんだ。
ねえ、神様。
あたしは、一年じっくり考えたの。
あの日に、何て言ってあげればよかったのかな、って。
この一年、はがんばったよ。
ううん、これまでもがんばってた。
お手伝いもしたし、遊ばないでお家にいたときもある。
の面倒もよく見てたし、好き嫌いもしなかった。
苦い野菜を何でもない顔で食べるのも、彼のいいところ。
この一年、はがんばったよ。
アンナおばあちゃんに助けてもらいながら、ちゃんと兄妹二人で生きてきたよ。
ねえ、神様。
あの日のに何て言ってあげればよかったのか。
あたし、分かったの。
もしかして言葉は要らなかったんじゃないかしら、って。
となりに立って、手を握ってあげればよかった。
背中に手を当ててあげればよかった。
体温が分かるくらい近くで、一人じゃないよって、教えてあげればよかった。
この世に一人で取り残されちゃったような顔をした、あたしの大事なあの人に。
「(だから、あたしができなかったことの、代わりに)」
今度は、あたしが代わりに。
ねえ、神様。
の代わりに祈るから。
の分も、二人のお父さんの分も、祈るから。
のお父さんが、毎日しっかりお仕事をがんばれますように。
そしてたまに、お家に帰ってあげてほしい。
が、毎日明るく過ごせますように。
わがままだって、あたしが聞くから。
いいんだよ、あたしはあの子よりお姉ちゃんなんだから。
あたしの大事な「いもうと」。
らしく、明るく楽しく過ごしてほしい。
そしてが、がんばらずにいられますように。
のために。
お父さんのために、アンナおばあちゃんのために。
トーマスのために。
あたしのために。
は、いつもがんばってしまうから。
ほんとはあたしが代わってあげたいけど、きっとそれを、彼はゆるさないと思う。
だから、その気持ちをこうやってあらわすの。
今年最後のミサに来ていない、丘の上の三人のために。
「(あたしにできるのは、これくらい)」
ねえ、神様。
いっしょうけんめいお願いするよ。
ががんばらなくていいようにしてほしい。
ねえ、。
一人でがんばらなくていいんだよ。
顔をあげたら、十字架の周りで、ろうそくの光がゆらりと揺れた。
神様が、いいよって言ってくれたみたい。
おかしいな、十字架の後ろに空が見える。
燃えるような黄昏色の空が。
明日晴れたら、マシュマロとチョコレートを持って、トーマスと丘の上に遊びに行くんだ。
のお父さんもアンナおばあちゃんも一緒に、みんなでお菓子を食べるの。
きっと楽しい一日になるよね。
きっと明日も、楽しい一日になるよね。
(主人公9歳)
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