燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









59.境界に生きる









冷えた空気を、静寂が満たす。
アレンは、肩に掛けた毛布をきゅ、と掴んだ。

「ベッド、行ってていいのに」

隣からの声に、首を横に振って応える。

「……僕も一緒に待ちます」
「そんな眠そうな顔して言うか……」

ぼんやりと、傍らのを見上げた。

「兄さんは、眠くないんですか?」

彼は苦笑いを浮かべ、肩を竦める。
アレンの問いには答えず、十字架を見上げた。
教会の、仄暗い聖堂の中、祭壇の両脇に掲げられた松明。
僅かな明かりが、彼を照らした。
兄弟子は不思議な人だと、重ね重ね思う。
何か面白いことがあれば、腹を抱えて笑うのに。
師の言動に抗議する時は、此方がびっくりするほどの激しさを持ち合わせているのに。
それでも彼は、常に一定の空気を身に纏っている。
穏やかに包み込むような声色か。
落ち着き、しかし流れるような仕種か。
何がそう感じさせるのかは、分からない。
どこか別の世界から周囲を眺めるような静けさを、は纏っている。

「(……マナとは、違うけど)」

アレンが不意に寄り掛かっても、身を引いたりしない。
この温かさが、良いのだ。
左手を、拒んだりしない。
髪の色も、呪いの痕も。
アレンが、何をしてしまったかも。
全部ありのまま、受け入れてくれる。
此処に在ることを、赦してくれる。
そんな安心感に浸りながら、アレンは彼の肩に頭を凭れた。

――バタン、と聖堂の扉が、乱暴に開かれた。

アレンは目を開け、兄弟子の肩から頭を上げた。
が扉を振り返る。
髪を振り乱した男が、脚を縺れさせながら祭壇へ縋り付いた。

「神様……神様、どうして……ッ!!」

身体中で、男は叫ぶ。
慟哭が尾を引き、暗い空間に谺した。
アレンはを見上げる。
ちら、とアレンに視線を寄越したは、音を立てずに立ち上がった。
ゆったりと男に近付き、屈む。
震えるその背に、さりげなく掌を当てた。

「――っ!」

男が顔を上げる。
喉の奥で声を詰まらせ、彼はの膝にしがみついた。
アレンは、兄弟子を窺う。
漆黒は僅かに伏せられ、そこに宿る表情を知ることは出来ない。
けれど、一滴一滴、水が溜まっていくように、場の空気は幾分かの落ち着きを取り戻していく。
男の慟哭は啜り泣きに変わり、荒い息を吐きながら、彼は身を起こした。
漸く、自分が誰に縋っていたのか気付いたらしい。

「……こど、も……?」

呟きに、が微笑んだ。

「驚く余裕ができて良かった」

背を擦り、男の手を取って立ち上がる。

「床は冷たいでしょう。椅子に座りませんか? 少しは違いますよ」
「あ、ああ……そうだ、寒いな……」

アレンは目配せを受けて兄弟子の使っていた毛布を掴んだ。
先程までの激しさを捨て、茫然と宙を見る男の肩に、それを掛ける。

「あの、……どうぞ」

男がぼんやりとアレンを見上げた。
暗い瞳に、思わず息を呑んで後退る。
相手はまるで気にしていないように一つ頷き、また俯いた。
が、アレンに微笑む。
男の前に膝をつき、握られた拳を手のひらで包んだ。

「……貴方は、何も悪くない」

不意に、静かに、が囁いた。
力無く丸まっていた背が、びくりと跳ねた。

「何も、悪くないんです」
「な、何が……っ、何が分かる! 私の娘は……!」
「貴方は、一生懸命だった筈だ。そうでしょう?」
「当たり前だ! でも、それでも、あの子は! し、死んで……! 死んで、しまった……!!」

枯れた声で叫んだ男から、アレンは目を逸らした。
しかし、すぐに思い直して男へ視線を戻す。

「(だって、兄さんは、目を逸らさない)」

はあ、はあ、と肩で息をする男の頬を涙が伝った。
呼吸が落ち着くにつれ、その雫は止めどなく零れ落ちる。

「お嬢さんは、貴方を責めてなんかいない」

啜り上げる音に被さるように、の声が、凜と響いた。

「でも、貴方が旅路を見守ってくれなかったら、きっと、淋しいと思う。だから、」

傍に居てあげてください。
顔を上げた男の眼差しを受け止めて、が包むように、静かに微笑んだ。

「貴方の心の中で、いつまでも彼女が笑っていられるように。俺が代わりに、祈ります」
「……ッ」

黄金の少年は、立ち上がる。
つられるように男が立ち上がり、を追って、ゆっくりと出口に向かった。

「娘は……赦して、くれるだろうか」

アレンが追い付いた時、扉に手を掛け、男が呟いた。
は微笑み、確かに頷く。

「……祈って、くれるか」

消えそうな声で、男は問う。
が頷いた。

「貴方が、生きると言ってくれるなら」









男を送り出し、扉が閉まっても尚、アレンは扉の前から動くことが出来なかった。
それはも同様で、二人はしばらく立ち尽くした。
やがて、が小さく息を吐く。
静かに振り返り、来た通路を辿る。
大きな十字架の前で膝をつき、彼は、頭を垂れた。
十字架の前で祈るなんて、決して珍しい光景ではない。
けれど今だけは。

「……兄さん……」

ギ、と開いた扉が背に当たる。
振り返ると、師が怪訝そうにアレンを見下ろしていた。

「邪魔だ。そんなとこで何してる」
「師匠……」

体を退け、クロスを中に入れる。
通路の先で跪くを見て、彼は酷く顔を顰めた。

「誰か、死んだのか」
「え、」

アレンは師を見上げた。

「どうして……」

何も言っていないのに。
問いに応えることなく、クロスは歩を進める。
黄金の傍らで屈み、名を呼んだ。



包むように黄金に手を乗せ、囁く。

「……もう、いい」

教会に満たされていた、厳かな空気が、僅かに揺らいだ。
クロスが立ち上がる。

「お前は寝ろ、アレン」
「あ……、でも、」

まだ、兄さんが祈っているのに。
言い澱んで、アレンはしかし、口を噤んだ。
頷いて、割り当てられた部屋への道を選ぶ。
少し歩いて聖堂を振り返ってみると、師は未だ、同じ場所に。
十字架に背を向け、立っていた。
足許には、未だ十字架へ祈りを捧げる兄弟子の姿。

「(あんなに、近くにいるのに)」

二人の間に引かれた、一つの明確な境界。
否、兄弟子は丁度、その線の上に在るのだ。
アレンは目を逸らし、廊下へ向き直った。

「(……触れられない)」

祈る人間と祈られる神は、きっと、同じ高さに立っている。









(主人公15歳)
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