燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









58.輝き出した月
(本編72話を先にお読みください)









ふ、と空気が微笑む。

「どうしたの、バク」

バクは苦笑した。
折角後ろから近付いているのだから、たまには驚いてくれても良かろうに。
携えてきた紅を彼に示す。

「呑まないか?」
「婦長にバレたら殺される」
「その時はボクが怒られておこう」
「あー……じゃあ、一杯」

は笑って、グラスを受け取った。
瓶を握ってワインを注いでやると、瓶を取り上げられる。
底を指で支えながら、彼は片手で瓶を持った。

「瓶の底が何で窪んでるか、知ってる?」
「デザインじゃないのか?」
「違うよ、こうやって持つんだ」

慣れた手つきで注がれた液体。
はい、と手渡される。
バクは思わず頬を掻いた。

「……慣れないことは、するものじゃないな」
「こんなの気にするのは師匠くらいだよ」

今日はお疲れ。
そう続けて、がグラスを挙げる。

「……ああ……」

あの馬鹿室長のせいで、今日は散々な目に遭った。
バクもグラスを挙げ、先に口を付けて傾ける。
は、舐めるように少しだけ口に含み、グラスを離した。

「夢に見そうだ……」
「同感。ソカロ元帥見た時は、俺ももう終わりだって思った」

コムビタン。
意味不明の薬品による騒動は、二人とフォー、アジア支部科学班の尽力により解決した。
が本部の科学班全員を正座させたのも、無理もない話である。
元凶は未だ、吹き抜けで宙づりにされているだろう。

「付き合わせて、すまんな」
「いや、一人で行かせてバクに狂われたらもっと困るし」

ああ確かに。
バクがそう返すと、微笑んだが小さく呟いた。

「……懐かしかったな、本部(ホーム)」

たった何日かの空白が、彼にとってはこんなにも大きい。
俯いたの背を、軽く叩いた。

「お前が動けるのは、あいつらにも分かっただろう。すぐ戻れるさ」
「どうかな」

苦笑のような、嘲笑のような、微笑。

「……いつ使えなくなるか、分からないのに」

はあ、と息をつき、はグラスを揺らす。
もしも自分が、彼を神だなんて言わなければ。
は今、笑っているのだろうか。
そう思ったら、目頭が熱くなってきた。

「……

彼は唐突に眉間に皺を寄せた。

「あ、やば。アルコール回ってきた……バク、パス」
「……は!? ちょ、待て待て! ボクだって一杯で」

焦って首を振るが、反論も虚しく、グラスにの分のワインがなみなみと足される。

「勿体ないから呑んどいてよ。ていうか何、水とか、持って来なかったの?」
「だってお前、ザルだろうが!」
「最近禁酒、させられて、たんだって……っ、駄目、気持ち悪い……」

口ではなく胸元に手を宛てているあたり、胃の不快感ではなく、動悸の問題らしい。
バクは慌ててグラスを置いた。

「おい、大丈夫――うっ」

自身にも襲ってきた眩暈と、こちらは胃の不快感。
が小さく吹き出した。

「俺達、馬鹿だね」
「……全く、だ……」
「もしもし……? あ、ウォン? ごめん……バク、取りに来て」

ボクは物か!
そう言ってやりたいが、生憎とその元気は無い。
代わりに、ぽん、と金色を撫でる。
返ってきた笑顔が、微笑でないことに気付いた。









(本編72話後)
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