燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
57.合掌
「どした? 。眉間に皺寄ってるさ」
「ん……何かヒザ痛ぇ」
科学班のいつもの机。
ラビに手合わせに誘われ、立ち上がったは、膝に小さな痛みを感じた。
机に手をついて左の膝を摩る。
「……じじぃみたいさ……」
「沈めてやろうか」
「何処に!? 床!?」
逃げるラビを捉え、蹴りを入れようとするが、やはり膝が痛んでラビの手を離す。
リーバーが横から覗き込んだ。
「成長痛じゃないか?」
半泣きのラビと、険悪な顔のはリーバーに視線を向ける。
「成長痛?」
リーバーが頷いた。
「お前最近、身長伸びてきてんだろ」
なるほど、とは納得する。
納得はするが、非常に厄介だ。
そんな気持ちが顔に出ていたのか、リーバーが笑って立ち上がった。
棚へ向かい、暫くそこを漁った彼が取り出したのは、緑色の液体。
ラビと共に、思わず後ずさる。
「あったあった……少し前に、室長が作ってたんだよ、成長痛の為の薬」
まじまじと、それを見つめた。
ラビが顔を引き攣らせる。
「それ……まともなんさ……?」
「この前デイシャが使ってたし、大丈夫だと思うぞ。使うか?」
は少し躊躇って、その瓶に手を伸ばした。
――それが間違いだった
鍛錬場に向かうため、地下の科学班から延々、階段を上る。
ラビと手合わせをするのはおよそ二ヶ月ぶり。
弾んだ足取りの彼とは対照的に、は何とも形容し難い気分で、階段を上っていた。
先程の薬が極度に不味かったからだろうか、胸やけが酷い。
酷いどころではなく、寒気と吐き気が止まらない。
「ラビ」
「何さ……っておいおい」
「ちょっと、悪ィ……」
ラビが慌てて頷く。
次の階に着いた瞬間、はラビを置いて、全力でトイレに走った。
勢いよく手洗い場の蛇口を捻る。
「(何が大丈夫だと思う、だ!)」
心の中で悪態をつきながら咳をしようとするが、大きく視界が揺れてそれも叶わなかった。
「……ん、だよ……っ」
「気持ち悪い」と、全身のオーラで示したは、矢のように廊下を駆けていってしまった。
「やっぱコムイのは信用なんねーさ」
ラビはふうっ、と息をついて、トイレへ歩いた。
今日の手合わせは期待出来ないだろう。
というより、コムイ相手に手合わせすることになりそうだ。
――ご愁傷様、でも自業自得さ。
トイレの戸を開ける。
「? 大丈夫――」
手洗い場に、彼の団服が落ちていた。
「――か?」
ラビは左右を見回した。
誰も居ない。
頬を汗が伝う。
「!?」
痕跡を捜そうと、バッと屈んで団服を持ち――上がらなかった。
不自然に重い。
まさか、とは思うが、何せ彼が飲んだのは、あのコムイの作った薬。
何があってもおかしくはない。
「……?」
外見年齢、およそ五歳のが、そこに倒れていた。
「……マジか」
ラビは呆然と呟いた。
ダダダダダと、騒々しい音が聞こえた。
ジョニーが不思議そうにリーバーを振り返る。
二人は顔を見合わせ、首を捻った。
「リーバー!!」
入り口に駆け込んできたのは、ラビ。
彼自身は団服を着ているのに、何故かもう一枚、丈の長い団服を肩に掛けている。
「どーした?」
彼はずんずん近付いてくる。
班員がざわめきだした。
リーバーは、彼が団服を掛けているのではなく、団服を被った何かを抱いているのだと悟った。
朱い髪の端に、少しだけ見える金色。
「まさか……」
「どうしたんすか? 班長」
大変なことになった――自分が青ざめていることがよく分かる。
リーバーは立ち上がった。
取り敢えず、ソファに小さなを寝かせる。
ジョニーが先程の棚を漁った。
「あー、あった、コレコレ……」
彼の手元の瓶を見て、リーバーは頭を押さえる。
「やっちまった……!」
「ったく、何飲ませたんさ?」
「室長作の、よく分かんない薬」
「そんなもん置いとくんじゃねー!」
ジョニーの説明に、思いきり突っ込むラビ。
耳元で大声がしたからか、が顔をしかめた。
ぼんやり目を開けて瞬き、ラビの顔をじっと見つめる。
「あー……?」
「……ラビって……そんな大きかったっけ」
言われた言葉に肩を落とす三人。
も、自分の声が高いことに気付いたのだろう。
起き上がり、周りを見回す。
「、すまん! 薬間違えた!」
リーバーは必死に頭を下げる。
ジョニーとラビが、ぎこちなくを見た。
は、三人を見る事なく、右手を前に突き出して、振った。
服の余った部分が揺れる。
彼は俯いた。
「……?」
見た目が小さいと、急に不安に思えるものだ。
ジョニーが恐る恐る顔を覗く。
が、笑った。
顔を上げて、満面の笑み。
一瞬、気を飲まれかけた三人だったが、出てきた言葉に肝を冷やした。
「コムイ、どこ?」
「待った待った待った! 気持ちは分かるさ! 分かるけども!!」
「分かるなら離せ馬鹿ウサギ!!」
はラビに押さえ付けられながら、ひたすらに暴れた。
しかし、相手はただでさえ自分より大きなラビ。
全く敵わない。
「落ち着いて! ね!」
ジョニーが何とか宥めようとして笑う。
「そうさ! ほ、ほら取り敢えずじじいの服持って来るから! な、それじゃ動けねーさ」
ラビも引き攣った笑顔での肩を叩いた。
彼の言うことにも一理あって、はむすっとしつつも、暴れるのをやめた。
安堵した表情のラビが急いで駆けていく。
はソファから降りようと試みた。
足がつかなかった。
「……」
憮然としてバタバタと足を振るが、団服が音を立てるだけで、何の効果もない。
自棄になって両手両足で暴れる。
班員達が、いかにも微笑ましいといった顔をしているが、こちらとしては冗談ではない。
「はぁ……」
団服が意外と重いことに気付く。
は疲れて動きを止めた。
溜め息で息を落ち着かせ、むっと膨れる。
リーバーとジョニーが膝をついて目線を合わせた。
「あーそのー……そうだ、何か飲むか?」
「暴れまくって疲れたでしょ?」
「……言っとくけど」
二人の言葉を無視して、は呟いた。
我ながら、なかなかに邪悪な空気だと感じる。
「兄貴も、コムイと殆ど同罪だからね」
音を立てて硬直するリーバー。
ジョニーが静かに合掌していた。
あちゃー……とラビは呟いた。
身長百四十センチの師の服でさえ、小さなにはまだ二十センチ以上大きい。
周囲の科学班員からは「本当の子供みたいで可愛い」という声が聞こえる。
の機嫌は、地を這うどころか地に潜ってしまうほどに低迷していた。
膨れたまま、そっぽを向いて口も利かない。
しかしそうしていると、尚更子供のようだ――とは、流石のラビも口にしなかった。
「リーバー! これいつ元に戻るんさ!?」
小声で振り返ったが、リーバーはリーバーで深く落ち込んでいる。
ジョニーが代わりに答えた。
「多分明日の朝くらいには戻ると思うんだよね……ぱっと見、他に害は無いみたいだし」
「明日か……」
今はまだ昼時。
少なく見積もってもあと半日、はこの状態で居ることになる。
どうしたものかとを見ると、彼もラビを見上げていた。
打って変わって、開き直ったように笑う。
「落ち込んでたって仕方ないよね」
「お……おー、そうさ、その通りさ!」
「この体じゃ満足にコムイ殴れないしな」
「そっち!?」
無邪気な笑顔で放たれる、邪気丸出しの言葉たち。
ラビは気を取り直して聞いた。
「取り敢えず、これからどうするさ?」
「どうするったって……今日はこのままで居るしかねーし」
溜め息の割に明るい声。
少しホッとしたラビに腕が伸ばされた。
「てことで食堂連れてって」
ラビも食べるだろ? と続ける。
結局、彼は今、手も足も服から出ていないのだ。
一人で歩いて転ぶより、誰かに移動させられる方を選んだらしい。
ラビは笑って彼を抱き上げた。
「おっけーさぁ」
昨日は人に出会う度に驚かれ、訳を聞かれ、その度にコムイのせいなのだと言い触らし。
食事の度にジェリーに二人まとめて抱きしめられて息絶えそうになったラビと。
にとって幸運だったのは、リナリーが任務で本部に居なかったことだろう。
流石にそれは堪えられない、と朝になって、ラビは一人ごちた。
大きく伸びをする。
「さて……」
は起きているだろうか。
身支度を済ませ、ラビはの部屋へ向かった。
ゴンゴンと扉を叩く。
「、入るさー」
一応の断りを入れて扉を開ける。
朝日の中でシャツのボタンを留める人影。
いつものが、そこに立っていた。
しかしこちらが起こす前に起きているなんて。
「な……なんで起きてんさ……?」
「ああ、ラビ……おはよ」
笑うでもなく、ただ淡々と着替える彼の姿を、ラビは唖然として見つめた。
いつものようにタイを締め、ベストを着て、団服に袖を通す。
「何? 朝飯?」
「ま、まぁ……そんな感じさ。元戻って良かったな」
「うん……あ、昨日色々ありがとう」
「いえいえ」
ベルトを締めたは、その場で軽くジャンプをした。
何故か屈伸をして、関節をほぐしている。
「どうしたさ? まだ何か……」
「いや、全然平気。……ラビ、飯少し待ってもらえる?」
「いいけど……何で?」
がこちらを向いた。
華やかで晴れ晴れしい、輝くような笑顔。
「コムイに、朝の挨拶しないと」
ラビは、もう止めなかった。
(主人公16歳)
150717