燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
54.地に佇む人を見上げる
「リナリー、もらうよ」
悪魔のような囁きが、脳を揺さぶり、背筋を駆け抜けた。
「リナリィィィィィ!!」
叫んで跳び起きたコムイの目に、輝く金色が飛び込んでくる。
くすくすと聞こえる笑い声。
「あれ……?」
「おはよ、コムイ」
さっきの囁きは彼の仕業か!
思い至って、コムイは彼の双肩に手を置いた。
「、さっきの言葉はまさか」
「嘘に決まってんじゃん、安心して」
「なんだ、よかった!」
ふうっ、と息をつくと、彼の笑い声が遠慮のないものになった。
笑うから、書類を手渡される。
「はあー、笑った。はい、任務報告」
「うん、ありがとう。コーヒー飲む?」
「紅茶もらうよ」
紅を注ぐ青年を視界に入れながら、コムイは書類に目を落とした。
初めて彼から報告書類を貰った時は、その美しい筆跡に大層驚かされたものだった。
あれから数年。
手隙の時に書物の翻訳を手伝ってもらっているため、の字を見ることは圧倒的に増えた。
「(相変わらず綺麗だな……)」
がソファに腰掛ける。
きっと科学班員に渡されたのだろう、新しい本を開いていた。
「ってさ」
「ん?」
「やっぱり字、上手いねぇ」
カップを傾けて、彼は笑う。
「ありがと。何度も聞いた気がするけど」
「いやぁ、だって本当に綺麗だからさ。キミに教えてくれた人が、よっぽど上手かったんだろうね」
何の気無しに言った一言だった筈なのに。
しまった、と思ったときにはもう遅い。
空気が凍り付いたのが分かった。
「そうかな、師匠に教わったんだよ?」
「(……嘘だ)」
彼の父が学者だったという話は、クロスから何とか聞き出せていた。
父親から各国の言語を学んだというのなら、最初に字を教えたのもその人なのだろう。
「そっか。なんだー、じゃあもうクロスより上手くなっちゃったね」
「はは、まぁね」
はふわりと微笑んで、本を閉じた。
すっと立ち上がる。
「あっちに居るから」
科学班の方へ歩いていく、背中。
コムイは声で追おうとして、しかし伸ばした手を下ろした。
ここで何かを飲んでいく時は、彼が他から離れて一人になりたがっている時なのだと、最近気付いた。
そして気付いた端から、自分は、その逃げ場を奪っている。
「…………」
言ってくれるなら、いくらでも受け入れてあげられるのに。
そう思う反面、本当に出来るのか、と問う自分が居る。
きっと表面で受け入れたような気になるだけで、結局自分達はまた彼に縋り、その傷を刔っていくのだろう。
「(…………)」
祀りあげたのは、他でもない自分達。
けれど、彼が手の届かない場所にいることが、もどかしかった。
140518