燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









52.蜃気楼









気になった資料を読み耽っていたら、すっかり夜が更けていた。
道理で眠いはずだと欠伸を落とし、ラビは本を閉じる。
任務直後に、オレもよくやるさ。
じじいは勤勉だなんて、死んでも言ってはくれないだろうけれど。
つらつらと考えながら通り掛かった階下から、声が聞こえた。

「(ん?)」

ひょいと下を、聖堂を覗き込む。
聞こえたのは、声ではない。
言葉にならない慟哭だ。
焔の色と影とが醸し出す、朱と黒の世界。
圧倒的に黒が多くを占めるその世界で、八つの棺がきちんと整理され並んでいる。
周りには二十を超える白服。
中心に、ただ一つ、黄金。
黒の教団が大量の殉職者を出して半年。
ラビがブックマンと共に此処を訪れて、早くも半年が過ぎていた。
今なお毎日、聖堂には新たな棺が運び込まれ、火葬場へと送り出されている。

「(負け戦さ)」

確かに、教団に入って、自分が少し人間らしくなってきた気はする。
しかし、最初に感じたこの思いだけは、今も変わらない。
四十九番目の名前と往くこの戦争は、きっと。

「……大丈夫」

ラビは、唯一の穏やかな声を見下ろした。

「もう、自分を責めなくていいんだ」
「でもわたしは、仲間を見殺しにしたんです!」
「貴方だけでも、生きていてくれた」

彼が屈み、泣き崩れた探索部隊の肩を抱く。
静かに、しかし確かに、その声は空気を震わせた。

「……それで、充分だ」

優しく背を摩り、彼は微笑む。

「ありがとう」

柔らかい言葉に、ラビは目を細めた。



との出会いは、この半年の記憶の中で、最も鮮烈だ。
まるで、神に代わって言葉を紡ぐ預言者のような。
まるで、揺るぎない信念で人々の心を射止める救世主のような。
当代ブックマンすら呑み込む「空気」の持ち主に、ラビが呑まれない筈がない。
彼が団員に囲まれるこの光景を目にする度、出会いの感動を何度も反芻した。
けれど、今。

「(どうして)」

何故か、ラビはいつものように、穏やかな気持ちになれないでいた。
それどころか妙に切なくて、悲しくて、気分が落ち着かない。
彼を囲む人々は、確かに、教団の神の恩恵に与っているのに。

「大丈夫。……赦すよ」

探索部隊が、に縋りつく。
彼らはきっと立ち直り、歩いていけるだろう。
あの「空気」の外にいる自分は、きっと進むことを赦されないのだ――

「(……そっか)」

不意に心に沸き起こった考え。
知らず、涙が滲む。
ラビは努めて冷静に、を見つめた。

「(オレ、今あの『外側』に居るんさ)」

半年間、いつもすぐ傍に、隣に。
時に、自分へと向けられた「赦し」の温もりの中に居た。
今、ラビは初めて、の支配の及ばない場所から、「傍観者」として彼を見ている。
胸を衝くのは、まさに十字に囚われ祀られた、御像のような。
最初に感じた思いが光ならば、その傍でひっそりと佇む、影の一面。









「居るんだろ? ラビ」

夜半、静まり返った聖堂にただ一人残った人影が、言った。

「やっぱ、バレてた?」
「うん」

振り仰いだが、苦笑する。

「……お前には、見られたくなかったのに」

ラビはぱちりと一度瞬き、笑みを返した。

「何でさ?」
「うん……」

すまなそうに微笑む
彼が何事かを言い澱むところを、初めて見た。

「ごめん、何でもない」

光が強いほど影は濃いのだと。
聞いたのは、何番目の名前の頃だったろうか。
団員から見た彼は、確かに光だ。
影を一手に受け取り、光を示し、与えてくれる存在。
はいつだって此方に微笑みを向けてくれる。
しかし、彼は本当に「光」だろうか。
光の中からは、側面からは、向こう側に伸びる影が、目に触れないだけではないのか。

「言えよ」
「だから、」
「オレが聞くから」

は、ラビと同い年の、ただの少年だ。
エクソシストではあるが、それ以上の何者でもない。
常に一線を画すブックマンでもないし、況してや、神でもない。

「それで楽になるなら、言えよ」

空気に触れた、他の誰にも言えないことなら。
その外側から「傍観者」が耳を貸すから。

「お前だけ、言いたいこと言えないなんて、おかしいさ」

が唇を引き結んだ。
僅かに俯かせた顔の表情は窺い知れない。
風も無いのに、祭壇の焔が揺れる。
彼が顔を上げた。
深い漆黒の瞳に囚われる。
微笑が全身を包む。
ラビは思わず、手摺を握り締めた。

「……ありがとう」



「よし。じゃあラビ、鍛練場行こう」
「おうっ! ……って、ちょっと待つさ! 今から!?」








はぐらかされた傍観者の話

(主人公16歳)
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