燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









50.僕は何も持っていないから









大嫌いな、貴方へ
僕はどうなったっていい
その代わりに
どうしても聞いて欲しい、願いがある
神様、
……神様、









いつものように、自分を抱き込んで眠る大きな体。
それが、常よりもいやに熱い気がして、は目を開けた。
仮面から出ている顔が、汗ばんでいる。

「……ししょー?」
「……、んだ……」

掠れた声。はもぞもぞと手を出して、師の額に触れた。

――熱い

母の記憶が、一気に蘇る。

「師匠……ど、したの……」

思いがけず潤んだ瞳。
クロスが目を開け、溜め息をついた。
酒の臭いがしない。
今更になって、昨晩の彼が一滴も飲んでいないことに気付く。

「……っ、ししょ……」
「泣くな」

熱い手が、髪を掻き回した。

「ただの風邪だ」
「……おにのかくらん……」
「どこで覚えた、そんな言葉」

笑いながらも、クロスは二、三度咳き込んで、毛布を引き上げる。
は慌ててベッドから這い出した。
部屋を出て、人を捜す。
此処は教会の一室だから、誰か居ても良さそうなものだが。
人気が無いので、は仕方なく無断で綺麗なタオルを拝借した。
近くの水道で、手っ取り早く濡れタオルを作る。
部屋へ駆け戻り、唸るクロスを見下ろした。

「師匠、仮面……蒸れない?」
「……取らないぞ」
「分かった」

仮面と素肌に均等に掛かるよう、濡らしたタオルを額に乗せる。

「……冷たい」
「あたりまえ」

ベッドにちょこんと腰掛けて、天井を仰いだ。
何か食べさせないと。

「(でも、誰もいない……)」


呼ばれて、振り返る。
クロスが枕元を指差した。

「提げとけ」

護身用の銃と、忌まわしい漆黒が取り付けられたベルト。
漆黒を見るのは、未だ、慣れない。
無意識に体が震えた。



けれど、具合の悪い人に余計な苦労を掛ける訳にもいかない。
渋々ベルトを締める。

「師匠、なに食べたい?」
「いらねぇ」
「ダメ。買ってくるから、早く」
「買うくらいなら作れ。出来んだろ」
「誰も居ないけど、勝手にやっていいの?」

クロスが僅かに頭を上げた。

「居ない?」
「へ……うん」

折角乗せたタオルを落とし、クロスは起き上がる。

「あー……目が回る」
「ふつかよいだと思って!」
「どんなフォローだ」

バサ、と団服を羽織り、帽子を手に取るクロス。
彼が帽子を被った時は、その場を離れる時。
は、マントのような自分のコートを纏い、襟元のリボンを結んだ。

「――ッ!」

空気に触れる、殺意。
思わず肩を跳ね上げれば、背後から腕を引かれた。
大きな背に隠される。

コン、コン、

返事を待たずに扉が開いた。

「お目覚めですか? エクソシスト様」
「夢なら良かったが」

クロスが口の端を吊り上げ、「断罪者」を抜き放つ。
神父だったアクマは、体の形を変える前に壊された。

「大丈夫か」

そう言いかけて振り返ろうとしたクロスが、ふらりと傾いだ。

「師匠っ!?」
「……タイミング悪ぃ……」

断罪者を持つ手を寝台に掛け、彼は膝をつく。
刹那、入口に密集する殺気。

「っ、、」

下がれ。
そんな声が聞こえた気がした。
はタッと駆け、アクマ達の前に踊り出た。

!!」

何故だろう。
あの日以来、見るのも怖かった筈の漆黒へ、自然と手が伸びた。

――お兄ちゃん――









あの村を出てから、彼は一度もイノセンスに触れていない。
泣き叫ぶのを何とか宥めて、やっと携帯させる事が出来たのは、つい先日のこと。
そんなが今、震えながら漆黒を構えていた。
小さな背に庇われたのは、他でもないクロス自身だった。

「っ、は、ぁ、はぁっ、はっ、」

深く刻まれてしまったその傷と向き合うのに、どれほどの勇気を振り絞ったのだろう。
息をするのも精一杯、とでもいうように、肩が大きく上下している。

「はぁ、っ、げほ、げほっ、はぁっ」

クロスは、後ろからそっと手を伸ばした。
漆黒を握りしめる彼の手を、優しく包んだ。

「はぁっ、っ――」
「まず、こいつを起こしてやれ」

耳元で囁く。
震えは止まない。

「大丈夫だ、オレは死んだりしない。お前が、――お前が、守ってくれるだろう?」

アクマがこちらに砲口を向ける。
彼の震えがピタリと止んだ。
アクマの動きさえ、クロスの呼吸すら止める、凍り付いた空気を、



「『福音』」



隅々まで支配する、声。
轟音。
イノセンスが輝き、その引き金が引かれる。
全てのアクマが破壊され、煙が立ち込めるその時まで、クロスは一寸も動けなかった。

「――ぁ、っ、はぁっ、」

かくりと膝を着いた小さな、けれど大きな存在は、漆黒を抱き込み、俯いた。

「……、かみさま……」

切ないくらい、体の奥底から絞り出された祈り。

「みんなを、ゆるして」

どうせ届かないと、分かっていても。
願わずにはいられなかったのだろう。
彼にとってのAKUMAは、決して、憎むべき存在ではなかったから。

「ゆるして……ッ」

彼は、彼らが託した想いを、痛いほどに知っているから。

「よくやった」
「ゆるして……」

「……ゆる、して……」

体が震え、手が団服を掴む。
静かな部屋の中で、クロスは、小さな体を強く抱きしめた。









僕は何も持っていないから
僕自身を懸けることにする
だから、神様、








(主人公10歳)

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