燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









46.むかしがたり









「ただい……ま?」
「あ、お兄ちゃん! お帰りなさい!」

リナリーは立ち上がって、笑顔でを迎えた。
彼は苦笑しながらただいま、と返した。

「聞いていい? 何で科学班全員いないの?」
「……お馬鹿な兄さんがいて」
「そっか。それとさ、」

何で部屋中にコーヒーが零れてるの?
リナリーはいたたまれなくて、肩を落とした。









ことの発端は、やっぱり自分の実兄。
コムイが仕事をサボって作ったコーヒーメーカーが、使用一回目にして故障。
あろうことか資料の溢れる研究室中にコーヒーを撒き散らしたのだ。
当然、彼が仕事をしていなかった五日間を徹夜で過ごしたリーバーの逆鱗に触れた。
そして、そこにいたのは連日の徹夜で奇妙なハイテンションになっていた班員達。
いい運動だ、とばかりに全員で手に手に工具を携え、逃げ出したコムイを追い掛けていったのだった。









「なるほど、それは怒るな」
「もう……ほんと、皆に申し訳ないよ」

バケツで雑巾を洗いながら、リナリーはうなだれた。
頭を優しい手が撫でる。

「まあまあ。コムイもそれまで、徹夜だったんだろ?」
「え、何で知ってるの?」

彼はその時、任務に出ていた筈なのに。
が微笑んだ。

「アイツが変なことすんのは、大抵徹夜明けだからね」

リナリーは目を瞬かせた。
流石、よく見ている。

「ま、俺に被害が無いから言える言葉だけど」
「それ、分かる!」

思わず噴き出したリナリーに、だろ? と笑いかけ、彼は黒いシャツの袖を捲った。

「手伝うよ。何すればいい?」
「ありがとう。じゃあ……あの……あそこ……」
「ん?」
「……お願いしても、いい?」

の笑顔が、若干引き攣った。
どうしても恐ろしくて手を付けられなかった、試薬のスペース。
自分には化学の知識は無い。
にも無いのだが、彼の方が科学班の研究を目にする機会は多い。

「駄目だったら、天井の穴をどうにかして欲しいの。そこは兄さんにやらせるわ」
「……いや、いいよ、やるやる。ほっとくと何か臭ってきそうだしな」

そう、それが一番危惧すべきことなのだ。
彼は腰に手を当てて暫く唸ると、ポケットから白い手袋を取り出した。
任務用の、丈夫な手袋だ。

「ほんとごめんね……」
「大丈夫、任せろ。それよりリナリーは早く書類を助けてやって」
「うん、了解」

禁断のエリアに足を踏み入れたが、膝をつかないように身を屈めつつ、慎重に試験管を摘み上げる。
手で扇いで臭いを嗅ぎ、顔をしかめて脇へ避けた。
床を拭いて書類を摘んだリナリーは、彼の横顔を見て、ふと微笑んだ。

「なんか、懐かしい」
「ん? 何が?」
「お兄ちゃんが最初に此処に連れて来てくれた時も、こんなことしたなって思って」

あー、と言ってが笑う。

「あの時は……ああ、自動コーヒー注ぎマシンか」
「そうそう。で、その時の班員さんも全員怒っちゃって」
「結局二人で掃除したもんな」

そしてが劇薬に触れてしまって、クロスが激怒したのだ。

「ふふ、……あの時は、ここがあんなに楽しい所だなんて、知らなかった」
「俺はこんなイメージしかないからなぁ」

どこかから悲鳴と騒音が聞こえる。が微笑んだ。

「良かったな、来てくれて。……あんなんだけど」

リナリーも眉を下げた。

「うん。……あんなのだけど」









「リナリィィィ! 助けてぇぇぇぇぇ!!」
「自業自得よ、兄さん!」
「あー兄貴お疲れ、ただいまー」
「おう、お帰り……ってお前、それ触るな!!」








(主人公17歳)

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