燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









04.その未来は









トランクの鍵が下りる。
硬い金属音が、石壁にぶつかった。
彼はこちらを見ずに言った。

「どうかした? バク」

バクは一瞬目を見張って、笑った。

「いつから気付いてた?」
「そこに立った時から」

が振り返り、ここへ来た時と比べて、幾分か血の気の失せた顔で微笑んだ。
ぼんやりとした明かりの中でも、浮き立つ笑顔。

「で、どうしたの?」

静かな声と共に、神秘が満ちる。
空気が彼に見惚れるように、その色に染まっていく。

「い、いや、その、何だ……ほら、お前が出口まで迷わないように、だな……」
後ろ暗いことは何も無いのに、上手く言葉が出ない。
僅かな静寂。
均衡は、小さな笑い声で崩れた。

「迷うって……バクじゃないんだから」
「何だと!」

二人は顔を見合わせて、笑った。
がトランクを持つ。

「行くか」
「うん」

部屋を出て、長い廊下を進む。
靴音が、響いた。
いつの間にか、の身長が自分と変わらなくなっていることに、バクは気付いた。
顔つきも、随分と大人びてきた。
なにより纏う空気が、変わった。
優しく穏やかなようで、重厚な静けさを持つその雰囲気は、周囲を圧倒する。
今回初めてに会ったアジア支部員が、一瞬で虜になったのもよく分かる。

――「神」か……

激化する聖戦の中で、教団はどれほどの力を、この存在に求めるだろうか。

「バク? いやに静かだね、気持ち悪い」

急に現実へ引き戻された。
我に返ってみれば、が心配そうに、ではなく、訝しげにバクを見ている。

「気持ち悪いって言うな」
「キモい」
「同じだ!」

は笑う。
楽しそうに、笑う。
バクは思わず、口にした。


「ん?」

いつか訪れるであろう、未来を。

「この戦争が終わったら、何をしたい?」



「……戦争が、終わったら……?」

が繰り返して呟く。
少し困ったような顔で、は逆に聞き返した。

「バクは、何をしたい?」
「そうだな、僕は……」
「リナリーに告白する?」

ころっと表情を変えて、が言う。
バクは、顔に血が上るのを感じた。

「リリ、リナリーさんにか!? アイツが居るのに、か!?」
「あはは!」

廊下に笑い声が落ちた。

「始めから負けを決め込んだらダメだよ、バク。頑張って、応援してるから」
「……笑ってなければいい言葉だったな」
「あはははは!」

バクの長い溜め息は、の声に掻き消される。

「大体、コムイを退けたとしても、リナリーさんにはお前がいるじゃないか」
「俺?」
「この前本部に行ったとき見たぞ。他の女性職員にはあんな表情しないくせに」
「ああ……」

バクの言葉に、思い当たる節があったのか、が宙を見た。
そして一笑に付す。

「大丈夫だよ、そんなんじゃないから」
「本当か?」
「リナリーは確かに大切なんだけど、恋愛対象にはならない」

そんな言葉まで笑顔で放つ。

「この先もずっと?」
「誓ってもいいよ。『永遠に』」
「そう、なのか……」

拍子抜けしたのもつかの間、バクは拳を握った。

「ということは僕にもまだチャンスがあるということだな!」
「コムイさえ退かせばね」
「まぁ、それが一番の課題な訳だが……」

を見ると、彼は肩を竦めて笑う。

「リナリーの意志が一番大事だよ。だから頑張れ」
「うむっ」

胸を張ってバクは頷いた。
が、風のように笑う。
出会った時を彷彿させる、微笑み。



ー!」

いつの間にか出口が迫っていた。
フォーが声を張り上げる。
その周りを、ウォンを始め、手の空いている支部員が囲んでいる。

「バカバク! 連れてくんのが遅い!」
「またお前は偉そうに……!」

ウォンがすかさず寄って来て、バクを宥める。

「まぁまぁバク様。殿、今回はありがとうございました」
「こっちこそ、色々迷惑掛けてごめん、ウォン。ありがとう」
殿!」
さん!」

次々と掛けられる声に答えながら、はフォーの元へ向かう。
ウォンが言った。

「本当に、大きくなられましたねぇ」
「……ああ」

バクは生返事を返した。
先程の光景が、記憶の海を渡る。
伯爵と対峙した、船上の微笑み。

――あれは嫌いだ
あの、全て諦めたような微笑みは

バクは顔を上げた。
とフォーが強い目で互いを見ている。

「ちゃんと守れよ、フォー」
「誰に言ってるんだか」

そんな憎まれ口も気にせずにはフォーの頭に手を乗せた。
フォーが俯く。

「……来てくれて、ありがと」

軽く二度手を弾ませて、はフォーに笑いかけた。

「呼んでくれてありがとう」

フォーが手を払いのける。

「あーもうっ! 余計な事すんな!」
「はいはい」

笑いながら、はトランクを持ち直す。
出口から差し込む光の中、消えそうな背中に、バクは大きく呼び掛けた。

!」
「ん?」

あの笑顔で、が振り返る。

「死ぬなよ!」

支部員の視線が、バクに集まった。
フォーが二人を交互に、そして結局を見上げた。

?」



まるで自分から顔を背けさせるように、はフォーの頬を手で押す。

「どうして」

こういう時には決して視線を合わせようとしない。

「どうして、そういうこと言うかな……」

バクは支部員を割って歩く。

「お前は放っておくと何をしでかすか分からないからな」

フォーの頬へやられていた手に、自分の手を重ねて、そこから離す。

「リナリーさんとフォーを泣かせるなよ」
「……そうやって、いつまで世界に留める気?」
「いつまでもだ」

が笑みを消した。
不安定さは、まだ歳相応だ。
今度は、バクが微笑む番だった。

「戦争が終わっても、ずっとだ。俺様よりも先に死ぬことは許さんぞ」

俯くに、なおも続ける。

「死ぬな、生きろ。『そう望むなら、叶えてくれる』だろう?」

――お前が、そう言っただろう?

畳み掛けてはみたものの、空気を染める「神」の沈黙には、やはり息を呑む。
一瞬が、一時にも感じられた。


「……何かあったら、また呼んで」

黒曜石がバクを捉えた。

「それまでは、頑張るから」

確かな、約束。
二人は目を見合わせて、どちらともなく笑った。

「もう行くよ」
「ああ、気をつけて」

困惑の中にあった支部員達が、ざわざわと騒ぎ出す。
いつものアジア支部らしい、賑やかさが戻ってきた。
フォーがを見上げる。

「また、呼びつけるからな」
「ここはフォーが守るんだろ?」
「それでも! 来いよ! あたしの勇姿を目に焼き付けてやる」

が笑った。
空気が華やぎ、黄金色に煌めく。

「楽しみにしてるよ」

そして、こちらが惚れ惚れするような笑顔で、その場を見渡した。

「みんな、元気で!」

ひらひら、と軽く手を振る。
最後にバクへ視線を走らせて、教団の神が、黒衣を翻した。
支部員の声が、その背を追っていく。
ウォンがハンカチをにぎりしめて、手を振った。

彼は、振り返らないだろう。

彼を引き止められるのはこれが最後だと、確証もなく確信しながら、バクはいつまでも手を振っていた。








(主人公16歳)

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