燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









36.私は、代わり/偽りの聖人君子









吐く息が、ほわっと白く浮かんでは、消える。
道の両脇から聞こえる客寄せの声は、往来を行き交う人込みの喧騒に掻き消された。
リナリーは紙袋を抱えなおす。
半歩先を行く背中を、見つめた。

買い出しという名の、ささやかな休日。
リナリーも彼も、今日はいつもの団服を来ていない。
教団の外の男性を全くと言っていいほど知らない自分。
それでも、真紅のコートをあっさりと着こなせる人は、そうは居ないだろうと思う。
こんなに目立つ色なのに、それは彼を引き立てるただの小道具にしかなれなかった。

道行く人は誰もが、彼を振り返る。
特に女性は十人が十人、頬を染めて彼に魅入っている。
付き合いの長いリナリーでさえたまにそうなるのだから、耐性のない人なら仕方がない。
ほんの少しだけ、優越感に浸った。
同時に、微かな嫉妬心を抱く。
大分前に諦めた想いが、一瞬だけ胸を過ぎった。

「ねぇお兄ちゃん」
「ん?」

が振り返る。
自分だけに向けられる、極上の微笑み。

「手、繋いでも……いい?」

珍しい、と彼は笑ってこちらに手を差し出した。
その手を握る。
胸が弾み、小さく痛んだ。
もう少しだけ、このまま二人で居られたらいいのに。



「……ケーキでも食べてく?」

不意にが言った。
リナリーは驚いて顔を上げる。
彼は眉を下げて苦笑した。

「教団、戻りたく無いんだろ?」

言い当てられ、思わずぽかんと口が開いてしまった。

「なんで……?」
「顔に書いてありました」

相変わらずよく見てるなぁと、感心し、嬉しく、悲しくなる。
照れながらも頷こうとして、しかしリナリーは慌てて言った。

「でも、兄さん達に渡されたお金は全部使っちゃったけど……」
「大丈夫だよ、俺が持ってる」
「な……なんで!?」

先程以上に驚いて、素っ頓狂な声が出た。
は、おかしそうに笑った。
思えば買い出しに行く度に、いつも彼が自分の財布を取り出している気がする。

「お兄ちゃんって……何でそんなにお金持ってるの……?」
「師匠の借金返さなきゃなんないからな。その余りだよ」
「あ、そっか……でもどうやって?」
「んー? ポーカーやったり……」

話を聞きながら、リナリーはさりげなくに身を寄せ、俯いた。
いつか、彼が心から愛せる女性が、彼とこうして手を繋ぐのだろう。
この定位置を譲る日が来る。
自分では駄目なのだと、分かっていた。

リナリーは、顔を上げた。

その時は笑顔を向けよう。
彼が自分にくれるような、極上の笑顔を。

『私、貴方のこと、好きだったんだよ――









ある冬の午後。
はリナリーを連れ、買い出しという名目で町へ出た。
先日訪れた中央庁の人間のせいで、塞ぎ込んでしまった彼女の気を晴らすためだ。
コムイ直々の命で、今日は団服も着ていない。
代わりに、洋箪笥の中から紅のコートを何気なく選んだ。
しかしリナリーを目にして、数分前の自分を心底恨む。

赤いコートの自分と、青いコートの「妹」。
まるで、あの幸せだった世界に戻ったような、錯覚。
けれどそんな幻想を、傍から見つめる自分もいる。

――もう、戻らないと知っているくせに

「ねぇお兄ちゃん」
「ん?」

は振り返った。
彼女は、「違う」。
躊躇うような視線に、先を促せば、手を繋いでいいかと尋ねられた。
そうだ、「この子」は尋ねるのだ。
の知る世界なら、まず手を取って笑う。

「珍しい」

これが、何に対する笑顔なのか。
分からないまま小さく笑って、は彼女に手を差し出した。
「あの子」とは違う。
そもそも、リナリーがこうして求めることすら珍しい。
やはり先日の事が堪えているのか。
出掛ける時から今まで、折角笑顔で居られたようだったのに。

「……ケーキでも食べてく?」

リナリーが驚いたように顔を上げた。

「教団、戻りたくないんだろ?」

言って、傷つけてしまわないだろうか。
眉を下げた苦笑に、彼女がぽかんと口を開けた。

「なんで……?」
「顔に書いてありました」
「でも、兄さん達に渡されたお金は全部使っちゃったけど……」
「大丈夫だよ、俺が持ってる」
「な……なんで!?」

通りに響いた素っ頓狂な声。
それが「彼女」とどこか似ていて、思わず笑った。
リナリーが、そっとその身を寄せる。

かつて彼女が自分へ抱いた想いは、自分がジレーアに抱いた感情に似ている。
応えられた筈の、応えられなかった想い。
がリナリーへ贈ることが出来るのは、精一杯の、愛情。
彼女の想いとは大きく異なる、慈愛の温もり。
そして、小さな誓い。
ただ、それだけ。



この子は、違う。
けれど、同じく掛け替えのない、世界。
最初に呼んでくれた一言が愛しくて哀しくて、ずっと手放せなかった。
自分勝手で、独り善がりの愛情は、だからこそ、最後まで貫くべきなのだろう。

せめて、兄として








(主人公17歳)

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