燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
35.いってきます
日の出まではまだほんの少し時間がある。
玄関の重い扉を開けると、霜の下りた土と痺れるような風が、を迎えた。
吐く息を白く漂わせながら、そこにある三段の階段を下りる。
辺りにはまだ人影は無く、薄暗い通りには何の物音もしない。
「もう行くのか」
突然、背後から声が掛かった。
は少し表情を緩めて、振り返った。
「驚かさないでください、師匠」
クロスは扉に凭れかかって、のんびりと煙草をふかしている。
真っ直ぐにこちらを見ようとはせずに、どこか適当な虚空を見つめている。
「ハッ、白々しいんだよ」
気付いてたくせに。
呟かれた言葉に微笑を返し、は旅行鞄を地面に置いた。
教団のコートの襟を合わせ、フードを被る。
クロスが口を開いた。
やはり息は白い。
「いつからだろうな、お前が俺に敬語を使うようになったのは」
「弟弟子が出来たって、師匠に呼ばれてから。一年前です」
「そうか」
クロスは頷き、長く煙を吐いた。
の背後、クロスの正面を、一台の馬車が通り過ぎていく。
蹄の音が耳元で聞こえたのは、周囲がそれだけ静かだということか。
「お前は変わっていくんだな、」
「は?」
クロスが足許の小石を蹴った。
それは軽い音を立てて、の足許へ落ちてくる。
「お前は日を追うごとに変わっていく……変わらないのは、その髪だけか」
「心配しなくても、師匠だって日を追うごとにちゃんと老けていますよ」
「……その減らず口も変わんねぇな」
「まあね」
仮面の下の顔が、何も言えずに呆れ返ったのを見て、は肩を揺らして笑った。
やがて、長く白い息を吐く。
静寂の中、僅かに動かした足の下で、凍った土が小さな音を立てた。
重たい旅行鞄を持ち上げる。
使い古した革の持ち手が、ギッと鳴いた。
「そろそろ行きます」
「……アレンには」
わざと一拍空けて、クロスは続ける。
その表情は、印象的な赤い髪と仮面に隠され、窺えない。
「会わないで行くのか」
は既に、クロスと建物に背を向けている。
「行くこと言ってなかったし。泣きそうだし、やめときます。本当は」
息を吸うと、冷たい空気が気道を駆け抜ける。
「あなたに会う気も、無かったんだ」
は振り返って、クロスを見上げた。
困ったように微笑んで、すぐに視線を逸らす。
「俺のことを普通の人間として見てくれるの、師匠だけだから」
「そうか」
つれない返事に苦笑を浮かべ、は鞄を持ち直す。
再び背を向けようとした時、建物の二階の窓が開いた。
「兄さん!」
「!」
思いきり二階を見上げると、ポスッと音を立ててフードが背中に落ちた。
顔を出し始めた朝日。
光を受け黄金色に輝くの髪と対照的に、白銀に輝く白髪。
窓からはアレンが、身を乗り出さんばかりの勢いでこちらを見下ろしていた。
「何やってるんですか!?」
は下を向き、わざと大きなため息をついて髪をかき回した。
「!?」
大人しそうに見えて、アレでなかなか頑固なところがある。
そして腹黒い。
弟弟子の性格を思い、少し微笑んだ。
「悪いな、アレン。ここから先、お前は師匠と二人旅だ」
「なっ……何でですか! 聞いてませんよ!?」
「だって今言ったからな」
さらりと言ってアレンを見上げる。
彼は泣きたいのか怒りたいのか、どっちつかずの表情をしていた。
「教団から、戻れって命令来てるんだ」
「なんで」
声は明らかに怒っている。
「エクソシストが足りないんだって」
「だからって兄さんが行かなくても……」
「アレン」
クロスの低い声が割って入った。
彼が扉から背を離す。
アレンは不服そうに、は意外に思い、弟子二人は、揃って師匠に顔を向けた。
「ガキじゃねぇんだ、聞き分けろ」
「無理です。嫌です。ガキでいいです」
ふん、と鼻を鳴らしてアレンは言う。
全く……と呟いて、クロスが煙草を口から離した。
「もういい。行け、」
「あ、はい」
一度アレンを見上げ、ゴメンなと声を掛けて鞄を持ち直す。
アレンが少し躊躇いながら、を呼びとめた。
「兄さん」
「ん?」
未だ拗ねた表情で。
しかしの瞳を真っ直ぐ捉え、アレンが言った。
「すぐに僕も教団に行きますからね。
兄さんの手助けが出来るくらい強くなりますから、絶対待ってて下さいね!」
は、意地悪く笑った。
「何年かかることやら」
「酷いですよ兄さん!」
は声を上げて笑う。
そしてクロスに向き直り、一礼した。
「今度こそ行ってきます、師匠」
返事を待たずに、背を向け、歩き出す。
黒いコートの裾が、歩くたびにふわりと広がった。
「」
クロスの低い声。
「身体には、気を付けろ」
少し離れた所で、は歩きながら手を振った。
道の角を曲がるまで、クロスがずっと見守っていたことを、は知らない。
(主人公16歳)
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